ピティナ調査・研究

【特別対談】脳科学者と考える、ピアノ教育の将来

脳科学者・瀧靖之先生が答える 「ピアノって本当に脳にいいの?」
「扁桃体」をうまく刺激するピアノ教育を

昨年の夏に始まった『ピアノって本当に脳にいいの?』の連載では、ピアノ指導者や学習者向けに、ピアノと脳の働きとの関係を分かりやすく解説していただき、いつも楽しみにしています。中でも特に興味深かったのは、第8回の記事に書かれていた「海馬」と「扁桃体」のお話です。脳の中でも「海馬」では新しく細胞が生まれ、それに対して「扁桃体」がいかに重要な働きをしているかを読んで、なるほどと思いました。

「扁桃体」と「海馬」の話はとても重要なポイントです。「海馬」という所は、勉強でも運動でもピアノでも『学習』の大事なキーとなる所です。それに対して、感情を司る「扁桃体」は非常に密接な関係を持つので、「扁桃体」で快を感じることが、海馬の働き全体を高める。つまり、イヤイヤやるとダメだけれど、楽しいとすごく伸びる、ということが脳科学的にも証明されてきたのです。

横から見たところ
正面からみたところ

私は常日頃から、自分自身が楽しいと思うこと、興味を持つということを非常に意識しているのですが、今回のお話で「楽しい」ということがとても大事だということが分かり、大きく後押しされました。これからのピアノ教育は、いかに「扁桃体」をうまく刺激するメソッドを開発していくかがテーマですね。

脳が快を感じることを「報酬」と言いますが、報酬には色々な種類があります。自分が楽しい、気持ちいいなどという原始的な報酬から、認められることや金銭という社会的な報酬まで様々です。

ピアノを学び始めた子どもにとっての「快」とは恐らく、「好きな曲が弾ける喜び」、「自分が上達しているという快」、それで「親や先生が喜ぶ顔を見る喜び」という3つが大きなものだと思っています。

私も全く同じように考えています。子どもの時期には、親に褒められる、認めてもらうという報酬が特に大きく影響します。しっかりと見てあげて、怒る所は怒っても然るべき時にしっかりと褒めてあげることが大事です。それが自己肯定感主観的幸福度につながります。レッスンにおける先生と生徒の関係も同様です。

楽器演奏の最初の入り口はハードルが低い方がいいので、「好きな曲を弾きたい」というモチベーションはとても有効です。しかし「好きな曲」というのは自分自身の経験による所が大きいので、小さい子では選択肢が少ないですよね。ですから、先生の方で何セットか提示してそこから好きなものを選んでもらう、というくらいだと、多様性も広がっていくのかなと思います。

紙媒体の楽譜だと、その中からとなりがちですが、今は楽譜もデジタルの時代なので、生徒に合わせて違う入り方や進み方がしやすくなりました。

子どもばかりではなく、大人が再開する時にも、「この曲を弾きたい」というモチベーションはとても大事になってきます。どちらにしても、いかにハードルを下げて、ストレスを少なくし、「扁桃体」を快の状態へ持っていくかということです。

ピアノのレッスンでも、「扁桃体」に対していかに働きかけるかが大事ですね。

「模倣」を学習にうまく使う~個性は無から生まれない

理想的には、先生がその曲が大好きなことが、一番効果があると思います。人間にはミラーニューロンという模倣に関わる働きがありますが、実はミラーニューロンは、感情に関しても当てはまるのです。脳科学的に見ると、先生が全く弾かずに間違いだけ指摘するようなレッスンよりも、先生が生徒と一緒に楽しんでやるようなレッスンの方が、圧倒的に効果があるのです。

好きな曲がたくさんある先生からは、好きな曲を多く持つ生徒が生まれ、ピアノが楽しいと思ってレッスンする先生のもとでは、ピアノ好きな生徒が育つ、というわけですね。

もちろん、教えなければならないテクニック、好きとは言い切れない練習曲などもあるでしょう。でもそういう時には「その先」を見せてあげることです。美しい曲を聴かせてあげることで、ピアノが弾けるとこんな曲が弾けるようになるのか、ピアノを弾くというのはこんなに楽しいものなのか、というのを見せてあげることが大事です。弾く所を見せてるのには、もう一つ、人間の学習にとって「模倣」がとても大事だという理由もあります。

他人のものをあまり聴くと真似になるから、個性の邪魔になると控える人もいます。

アスリートもたくさんの走り方を見て研究します。そして自分にいいものを残すのです。多くの情報を得て、自分なりに理解して作り上げたものが、個性です。個性は無からは生まれません。無の情報からは何も学べないのと同じです。そのためには、一般論的には模倣の対象は多い方がいいです。

時間が経って、最終的に残ったものが個性となるわけですね。個性というのは、「作る」より「残る」ものだなという感覚があります。

まさにそうです。また、模倣の仕方は、生演奏や動画などで、音や細かいテクニックだけではなく、身体の使い方や呼吸も含めた全体のイメージを持つことも同時に行うとよいと思います。これには、見聞きしたことのあるものに好意的な感情を持つという「ファミリアリティ」という性質が関係しています。何か分からないままに習得しようとするとストレスを感じますが、ある程度分かっているもの、全体像が把握できているものに対しては親近感が生まれ、習得においても扁桃体を快の方向へ持っていくことができます。つまり、記憶を定着させやすくなるのです。

多くのものに触れて「ファミリアリティ」を高めることは、それに対するハードルを下げることにつながります。ですから私は、0歳から行けるピアノコンサートをもっと増やすといいと思うのです。聴けば聴くほど、その曲やジャンルに対する「ファミリアリティ」が高まる。すると3,4歳にして既に巷で流れている曲を聴いて「あ、これはあの曲だ」「いつかこれが弾きたいな」と思うようになると思うのです。0歳では記憶にはほとんど残りませんが、3歳から5歳ごろの脳の発達の豊かな時期にたくさん聴かせてあげられるように、ファミリアリティを高める準備をしておいてあげるとよいと思います。

なるほど。小さい子でも安心して行けるコンサート、さらに言えば、演奏者自身も心から楽しんで弾いているコンサートがいいということですよね。

現在だけでなく、生涯に亘る長期的な視点でピアノのよさを理解する

3月2日に浜離宮朝日ホールで、保護者向けの講演会をしていただきますが、ピアノを習わせている、あるいは習わせようかと思っている保護者の方々にとって、数ある習い事の中からピアノを選ぶにあたって、「ピアノはいいと言うけれど、何がいいの?」というのは、根本的な問題です。

ピアノ学習にあるよさを、保護者の方がよく理解していることが、子どものその後の人生でのピアノとの向き合い方にとってとても重要だと思っています。

まず物理的な点から言うと、連載でも述べたように、ピアノはたくさんの脳の領域を使い、使えば使うほど、ピアノの技能だけでなくその領域に関わる能力全体を高めます。身体面では巧緻運動(細かい運動)の能力が上がります。また、音を処理する領域と言語を処理する領域がオーバーラップしているため、ピアノや楽器の音を聴けば聴くほど耳の分解能が上がり、英語などの第二言語習得の時などに子音が聞き取りやすいなど、いわゆる耳のよい状態になります。

しかしそれだけでなく、ピアノ学習をもとに、知的好奇心、熱中体験、コミュニケーションスキル、共感する力、やりぬく力などという、今とても重視されている「非認知能力」を高めることができると考えられます。熱中体験をする趣味は何でもいいのですが、特にピアノは演奏人口が多いこと、音楽のよさに共感してくれる人が多いこと(マニアックな趣味と比べて)も、コミュニケーションの際に共感を得やすく有利です。また、ピアノは主旋律だけの楽器と違って、一台のピアノでかなりの曲を再現できることも、主観的幸福度も高くする要素と考えられます。

「非認知能力」というのは、今まさに世界で注目されているキーワードですね。

はい。「非認知能力」は、実は学業成績ともかなり相関があるとも言われています。例えば医学部や東大の人に、「私はこれしかできません」という人は実はほとんどおらず、勉強はできる、でもピアノも弾ける、水泳もできる、陸上もできる…といった人が多いことにも関係していると思います。ピアノによって高められる「非認知能力」はたくさんありますが、それについては、後の連載でお話したいと思います。

このように話してきましたが、決して単に「ピアノは脳を活性化するからやりましょう」と主張したいわけではありません。確かにピアノには脳によい側面がたくさんある。でもそこから、自分自身の趣味ができてくることがすごく大事なのです。私は脳科学者として認知症予防に何がよいかを研究していますが、「趣味を持っている」ということが、実は将来的に脳の健康維持にとって非常に有効であるということが分かってきています。今ピアノをやっていることが、今あなたの脳を活性化し、脳の成長を助ける、ということはもちろん素晴らしいことですが、そこに留まらず、実はその後の人生を生涯に亘って豊かにするということに、ぜひ目を向けていただきたいと思います。

目先の効果だけでなく、中期的、長期的な視点でピアノのよさを理解するということですね。

ピアノをどれくらい続けたらいいのか、のような質問を受けることもありますが、1年やるか10年やるかという問題よりも、0か1かの差の方が無限に大きいのだとお話しています。50歳からピアノを始めることもできるけれど、子どもの頃に少しでもやったことがあると、将来再開する時に圧倒的にハードルが下がります

学業との両立が大変であれば、一時的に中断してもいいと思います。でもできればゼロにするのではなく、頻度を減らしたり、細々と遊び中心だとしても、続けている方がよいと言えます。

今度の講演会では、どのようなお話が聞けますか?

まず、子どもたちの脳がどうやって発達していくのか。脳の発達の過程から、どういう時期に何をしたらよいのか。そこに生活習慣がどう影響してくるのか、というお話をしたいと思います。その上で、音楽、特にピアノなどの楽器演奏は子供たちの脳にどういう影響を与えるのか。さらに脳だけでない、その先の広がりという面までお話しできればと思っています。当日は質問もぜひお受けしたいと思っています。

(取材:2020/1/23 二子千草)