ピティナ調査・研究

NHK「ピアノのおけいこ」 松﨑伶子先生インタビュー

NHK「ピアノのおけいこ」大調査
松﨑伶子先生インタビュー

深水悠子(東京藝術大学講師)

NHK「ピアノのおけいこ」大調査アンケートを端緒にして、これまでアンケート集計結果やテキストの調査を報告してきました。番組研究としてはまだ調査と検証の余地を残しており、アンケートに協力いただいた会員の先生方に調査結果を報告できるよう、引き続き研究を前進させていきたいと考えています。
さて、研究の過程で「ピアノのおけいこ」に出演した講師の先生・アシスタントの方、そして生徒の方々にお会いすることができました。大変貴重なお話をもとに、今回より番組出演者からみた「ピアノのおけいこ」像を詳らかにしていきたいと思います。
最初に話を伺ったのは松﨑伶子先生です。1977年前期に番組の講師を務められた後に、創設期から深く関わられてきたピティナの功労者でいらっしゃいます。お話をもとに、実際の番組の視聴やアンケート回答と照らし合わせながら、講師として松﨑先生が伝えようとしていたことを明らかにしていきます。

1977年前期講師 松﨑伶子先生

松﨑先生は「ピアノのおけいこ」の講師を務められる前まで、指導の経験がなかったという。そのため、手探りの状態から半年間で扱う課題曲の選定を始めた。曲目を見渡すと、イギリス、ドイツ、ポーランド・ハンガリー、ロシア、フランス、日本、と国ごとに分けて構成されており、それに連弾曲と指の練習も加えられ、さまざまな国の音楽に触れることを意図していることがうかがえる。とりわけバルトーク作品やハンガリーのおどりといった、松﨑先生が師事されたアンドール・フォルデシュ氏が生まれ育ったハンガリー所縁の作品が組み込まれていること、そして三宅榛名氏による子守唄や手毬唄の編曲作品や※1、入野義朗氏の十二音技法による作品といった邦人作品が取り上げられていることは特筆すべきだろう。これらの選曲を助けたのが夫のヤーノシュ・ツェグレディー氏だった。

■ 課題曲

子ども向けの曲はあまり詳しくなく、当時結婚していた主人が「こんなのはどうかな」と探してきてくれ、それがとても役に立ちました。入野義朗《十二の音で》を探してきたのも彼で、このためによくできたアナリーゼをつけてくれました。番組に出演した後にも、シェーンベルクの作品を持ってくる生徒に「どうやって作ったかわかる?」と聞いて「わからない」と言われた時に、このアナリーゼを使って説明することもあります。

テキストの冒頭で、松﨑先生は下記のようなメッセージを記している。

世界の言葉、音楽!その言葉の美しさを味わい、自由に楽しく話せるようにと、いろいろな作曲家の楽しい作品35曲を、17世紀から現代にいたる約300年間の中から選んでみました。
ピアノを通して、音楽を感じ、音楽の波に乗ることができるよう、基礎テクニックも少しずつ勉強しながら、みなさんといっしょに、より楽しい、より美しい音楽作りをして行きたいと思っています。 さあ、音の世界に旅立ちましょう。

出演する生徒は、オーディションによって選ばれた。番組内で告知されて約642名に上る応募があり(グラフ挿入)、第一次審査のNHKのスタッフ、松﨑先生等による面接を経て、十数名に絞られたのちに、第二次審査となる演奏審査により最終的に7名が決定した。

  • 小学2年(1)、小学3年(2)、小学4年(2)、小学6年(1)、中学2年(1)
    括弧内は人数

松﨑先生は、番組での指導について次のように語っている。

全然教えるってことをやってなかったので、何を教えていいのかわからなくて、気がついたことをやっていました。

番組では、まだ手の力の使い方がわからない小さな子にも根気強く教えていらっしゃり、その子たちが徐々によくなっていくのが印象的でした。

それはピアニストだから。NHKの狙いもそこにあったんでしょうね。ピアニストが何をいうかというところ。元々、ピアノの先生じゃない人が何をやるのかを見たい、という話でしたから。私は素直に言いたいことを言っただけでした。

画面を通じて見ても言葉に迷いや戸惑いがなく、初めて指導することを窺い知る要素は見当たらず、松﨑先生の作品の解釈を伝え方や、テクニックの示し方が「ピアニストとして」一貫していることが伝わってくる。例えば、肩とひじの力が抜けない、あるいは手首がかたい、指の関節がへこんでしまうなどといった体の使い方がわからない年齢の低い生徒たちにも「こうした方が良くなる」と伝えて指導する場面が複数ある。"この年齢ではまだ難しい"と判断することなく、松﨑先生が率直に感じたことを、作品に相応しい表現になるようテクニックを伝授している。それは松﨑先生のお人柄によるところと、おそらくは生い立ちによるところが大きいと推察している。
松﨑先生は、愛媛県松山に学校の音楽教師をしていた両親のもとに生まれた。「伶子」の名前は、伶人(=雅楽を奏する官吏、音楽家)から取られたもので、ピアノの道に進んでほしいという父俊三の願いがこめられている。俊三氏は独学でピアノを習得していたが、33歳の時にピアノ音楽を勉強するために一家で上京(松﨑先生6歳)。東京藝術大学でピアノ科主任だった永井進氏に入門を許され、以来永井氏の弟子を紹介され、稽古をつけてからお戻しするというアシスタントの仕事も引き受けた(「ピアノのおけいこ」の永井氏の担当回で、俊三氏がアシスタントとして登場したことがある)。松﨑先生は、俊三氏に連れられ小学4年から永井氏に師事するようになり、2年後の第8回学生音楽コンクール小学生の部で第一位を獲得した。最初のレッスンで永井氏が「この子のピアノを聴いてごらん。素晴らしいだろう」と大声で2階の夫人等を呼んだ、というエピソードが残っている。コンクールへの参加は永井氏の助言によるもので、「伶子さんの指導は私に任せなさい」という永井氏の言葉の通りその後の進学についても松﨑先生の才能を伸ばすための道が拓かれた。中学3年で受けた第26回音楽コンクールでは、最年少で第一位を受賞し、その後高校卒業と同時にアンドール・フォルデシュ氏の招きに応じてドイツの「ザールブリュッケン音楽学校」に留学した。ザールブリュッケン音楽院卒業後、ヨーロッパ、ニュージーランド等で演奏活動を行い帰国。1971年のリスト・バルトーク・ピアノコンクールで第一位に入賞し世界的に名前を知られるようになった「ピアノのおけいこ」の講師を務めたのは、それから6年後のことである。

永井進氏と松﨑伶子先生
渡欧記念リサイタル(1961)共立講堂にて。右より父俊三氏、松﨑伶子先生、永井進氏、永井氏夫人、母フミ子氏、他

松﨑先生のピアノ史を振り返るとピアノを習い始めてからずっとピアニストになるための教育を受けてきたことがわかる。松﨑先生はご自身のテクニックの土台になるものについて、「小学4年までに父親から学んだ脱力と手首を柔らかく使う方法と、そして永井先生から習ったドイツをルーツとする演奏方法。さらにその後に自分で習得したものです」と話す。番組で松﨑先生が生徒に指導したことは、先生ご自身が幼い頃に教わってこられてきたことなのかもしれない。
さらに番組を視聴すると、生徒の演奏技術が上達する上で、松﨑先生の模範演奏が重要な肝であることが理解できる。昨年の番組アンケートの回答にも下記のような言及があった。

少ない時間で、やさしい言葉で適切にポイントを指摘され、かつ生徒に分かりやすく伝えられていらっしゃった部分と、即座に行う傑出した模範演奏が、特に印象に残っています。プロのピアニストとして当然かもしれませんが、ところどころにみられた模範の演奏が特に素晴らしくて、テレビという緊張した場面であれだけのクオリティの演奏を、指導しつつ、話しつつ、合間にさっとできてしまう先生でした。特に、ブルグミュラー雷雨(だったか、あいまいですが? )の演奏では、鳥肌が立った記憶があります。当時は、今のように録画できません(録画機材など皆無の時代)でしたので、記憶にのみ残る番組となっています。テキストも保存していたらよかったかも、と思っております。(秋山徹也氏・ピティナ理事)

松﨑先生の音楽性の高い演奏を聴いて、生徒たちは「こうすればこの音色がでる」と耳で音色を覚えてテクニックを習得し、視聴者もその恩恵に預かることができた。それに加えて、番組が松﨑先生による小品の演奏から始まる構成になっており、その演奏がまた見事なのである。
さらに、松﨑先生の生徒への声の掛け方についても注目すべきだろう。年齢の低い生徒にも「(私は)こうするとよくなると思うけれど、どう思う?」、あるいは「こう演奏するのはどうしてかな」と、その都度、生徒の意思を確認し、生徒に響いているかどうか反応を見ているのである。これは、師の永井氏の指導法と通じる。永井氏は「生徒それぞれの人間の持ち味をその個性に応じて大事にし、それを引き出して伸ばす指導法」であったと俊三氏が語っている※2。つまり、弾き方を生徒に押し付けることがなかった。大学教授の永井氏には、多くを伝えずとも理解できる生徒が集まっていたという点を差し引いたとしても、永井氏の個を尊重したレッスンは、当時のテクニック重視のそれとは一線を画していた。
松﨑先生のレッスンについて、番組アンケートでこのような回答があった。

ピアノレッスンは、激しい・厳しい・怖い、があたりまえの時代、それをのりこえなければ、専門家にはなれない、というような時代だったように思います。今の時代であれば、社会問題になるようなレッスンが横行していた時代です。そのような時代に、やさしく、わかりやすく語り掛け、決して感覚だけでなく、根拠を伴って、かつ素晴らしい模範演奏をともなって、限られた時間をきちんと守って計画的に指導されるというレッスンスタイルは、田舎で育った人間には別世界でした。
今思えば、あのスタイルは、ひとつの模範となっています。厳しさは持ちつつも、きちんと根拠を伴って具体的に説明し、演奏を伴って指導する、というスタイルを、私も常に意識しています。番組のスタイルがどこか記憶に残っているから、このような考えになっているかもしれないと思います。(秋山徹也氏・ピティナ理事)

1970年代は、戦後のピアノ人口の急増という大きな波の中にあり、ピアノ教育全体が演奏上達への近道をしようとしていた時代であった。テクニック重視の指導が主流で、社会的にもみても「上達するために厳しさが必要」と考えられていた時代で、ピアノ教育においても厳しさが当たり前とされていた側面がある。松﨑先生のように生徒に公平で、音楽に真摯な姿勢は、新しい指導者像として視聴者には新鮮に映ったはずである。
最終回で松﨑先生は、視聴者に"音楽の作り方"についてこのようなメッセージを送っている。

曲を弾くときはイメージを持ち演奏した方がいい。(森の中など)場所にあったイメージを持つということ。音楽をたくさん聴かなくちゃいけない。テクニックは自分のイメージを表すために習得するのであって、指ばかり一生懸命練習してしまうと上手く音楽とつながらないということになるから気をつけていただきたい。

これは、ピアニストだからこその作品に即した音楽づくり、あるいは一流の演奏に近づくための重要な方法である。そしてNHKが狙いとしていた「ピアニストが指導する」からこそ得られた言葉であろう。初級の子どもたちに一流のピアニストが音楽表現を教えることは当時チャレンジングなことだったかもしれないが、松﨑先生は初級であっても作品に相応しいイメージを持ち、テクニックと音楽を結びつけて習得していく必要を示した。
また、ピアニストによるバルトークや邦人作品など、レッスンで扱う機会が少ないものについて音楽的解釈やテクニックが示されたことは、ピアノ指導者や学習者にとって参考になったことは確かだろう。

松﨑先生は、日々さまざまなことを習得して徐々に指導は変わってきている、と話す。おそらく番組でレッスンした内容と、現在のレッスンとは異なるのだろうが、例え40年以上前の番組であっても学ぶべきことが多く、これを会員の先生方と共有することができないことが残念である(NHKにはぜひ再放送していただきたい!)。そして番組で松﨑先生が子どもたちに示したピアニストとして真摯な姿勢が最も強く心に残っていることをお伝えして本稿を終わりにする。

松﨑伶子先生
幼い頃からピアノを父俊三氏に学び9歳からは多くのピアニストを育てた永井進先生の門を叩き、15歳(最年少)で第26回日本音楽コンクール第1位を受賞した。18歳でドイツに留学しアンドール・フォルデシュ 氏に師事しザールブリュッケン音楽学校マスタークラスを修了。71年に第12回ブダペスト国際音楽コンクール(リスト=バルトーク・ピアノコンクール)で第一位を受賞し、77年に「ピアノのおけいこ」の講師として半年間番組に出演した。洗足学園音楽大学名誉教授、現平成音楽大学特別招聘教授。
  • 三宅榛名氏の作品を取り上げた回では、ご本人がゲスト出演した
  • 松﨑俊三、松﨑フミ子「三台のピアノ―親子三人の音楽人生―」p.137