第88話『水の戯れ(Ⅰ)♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は河井寛次郎記念館※3で陶芸家に出会った。
翌日の午後、アトリエに掛けると陶芸家がすぐ出た。「ああ、鍵一さん」と数十年来の知己のように声がはずんだ。
「ちょうど良かった。今日はピアノ曲を聴きながらろくろを回したいなあと思って。なにかおすすめはある?」
「ええと……なにを創るんですか?」
「蕎麦猪口。お世話になっている蕎麦屋さんに頼まれて、六つくらい。自由に創っていいとは言われているけど、お店でお客様に出すものだから、サイズや容量はできるだけ揃えたくて」
「お猪口によって蕎麦つゆの量が違ったら、ちょっと気まずいですもんね」
「そう、そう。まあどうしても、ひとつひとつの表情は違うものになるんだけど。ろくろに載せて、できるだけ同じ速さで回しても、水と土の神様の采配でそれぞれ違うものになるの。窯に入れたら火の神様の領分だから、わたしの与り知らぬところでそれぞれの顔付きが決まる」
「そうなんですね」
「ちなみに、土は
信楽
。信楽焼※4といって、よく蕎麦屋の店先にたぬきが居るでしょう、あの土と同じ」
「あれ、でも信楽は滋賀県ですよね?」
「おかしいでしょ。京都ではあまり陶土がとれないので、土はよその土地から買ってるの」
「初耳です。それで、ろくろを回すときのピアノ曲ですか……」
「ああ、ごめんなさい。先に鍵一さんの用事をどうぞ」
心当たりの曲を、弾こうかどうか迷ってやはり、本題を先に切り出す事にした。
しどろもどろの鍵一の説明を、陶芸家は電話口でじっと聴いていた。『夢の浮橋』の絵巻の件※5まで話が及ぶと、ようやく口をひらいた。
「鍵一さんはどうしてその、古代の曲を復活させようとしているの?」
「ええと……パリに留学していたときに、『夢の浮橋』の復活上演をしたいという人に出会ったんです。エラールというピアノメーカーの、その……ピアノ調律師の方なんですが※6」
「人に頼まれたとか、そういうことじゃなくて」と、陶芸家の声は
tranquillo
※7に続いた。「鍵一さん自身がどう思っているかを聞きたいの」
受話器を耳に当てたまま、鍵一は口ごもった。
「……その、いろいろといきさつがありまして、ぼくは『夢の浮橋』の楽譜の断片を持っているんですが」
「うん、うん」
「モチーフが夜空に架かる橋のようで、とても綺麗だと思ったんです」
「そうなんだ」
「彗星の輝く晩に演奏されるという伝説もありまして……」
「なるほど。夜空に架かる橋ね」
「原曲はもっと長くて、壮大な音楽のようですので、それを聴けたら楽しいだろうなと……」言いながら焦った。ショパンから提示された謎※8や、チェルニーより託されたモチーフの美※9、ピエール・エラール氏の情熱に共鳴してここまで来たものの、自分自身の興味はごく単純なものであった。
「すみません、理由はそれだけです」
「よくわかった。ありがとう」
電話口に沈黙が流れた。息を詰めて鍵一は待った。陶芸家の思案の背景に雨音が混じっている。思わず庭を見遣ると、しかし貴船の空は晴れていた。フェルマータが水琴窟の鉢※10から水を飲んでいる。……やがて、明るい声が耳に届いた。
「随分前の事だけど、古伊万里※11の修復プロジェクトに携わったことがあるの。すごく大きな水甕で、江戸時代に伊万里港からパリに運ばれたものだった。
そのプロジェクトにはいろんな人が関わっていて、わたしのように長崎出身の陶芸関係者とか、京都の漆芸家とか、パリの美術館の学芸員とか。皆で修復プランを練って、割れや欠けを漆で継ぎ合わせて、継いだところに金粉をまぶして……
もちろん、それはオリジナルの姿とはすこし違うんだけど、いい仕上がりだった」
うなづいて、鍵一は古伊万里の水甕を想像してみた。さまざまな人の手で継ぎ合わされた巨大な水甕。想像の甕はろくろに載せられて回転するほどに小さくなり、舞い上がる金粉は土に染みて、ひょっこりと蕎麦猪口の姿になった。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されました。
陶工、河井寛次郎(1890-1966)の住居兼アトリエを基とした私設美術館。2023年に開館50周年を迎えます。
第82話『巡る夢の浮橋♪』をご参照ください。
第45話『時の旅人♪』をご参照ください。
音楽用語で「静かに、穏やかに」の意。
第5話『Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)♪』をご参照ください。
第16話『歌を継ぐひと♪』をご参照ください。
第63話『水琴窟きらら♪』をご参照ください。