ピティナ調査・研究

第45話『時の旅人♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18 歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19 世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838 年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の謎を追い続けてきたエラール氏は、エラール社の秘密を鍵一へ打ち明けるのだった……!
時の旅人♪

「エラールさん。幻の名曲『夢の浮橋』の上演に使われた楽器……製造ナンバー『1811』のエラール・ピアノは、いったいどれなのでしょうか?」
「このル・アーヴルの楽器庫には無い」
「では、パリかロンドンのエラール社の工房に……?」
「じつは私も見たことが無い。叔父のセバスチャンから『奏者に預けた』とは聞いたが、その奏者の名前は未だ不明だ」
エラール氏は熱い紅茶をすすると、目をほそめて窓の外を見遣った。1839 年の元旦の空はいよいよ透きとおり、海は午後を吸い入れて藍色を濃くしていた。テラスの欄干に休む海鳥の影はオレンジ色を帯びて、この海辺の高台のレストランにも夕暮が近いらしかった。
「叔父はこうも言っていた、『おまえが真にエラール社の後継者なら、自力でその楽器と奏者に辿り着けるだろう』……と。つまり『1811』は、叔父が私に与えた最後の課題なのだ。
事業を継いでより7 年間、私は『1811』とその奏者を探し求めてきた。エラール社の顧客や、叔父と親交の深かった音楽家、またヨーロッパ中の名だたる芸術家へ尋ね回り、随分骨を折ったがね、今なお幻のままだ」
「……エラールさん。ぼくの考えを言ってもよろしいでしょうか」
冷えた手指をティーカップで温めながら、鍵一はエラール社の巨大な楽器庫※2を思い出していた。音楽家と共に歩んできたエラール社の歴史が、あざやかな確信を描いた。

「その、『夢の浮橋』上演のために楽器を所望した音楽家というのは、もしかしてベートーヴェン先生ではありませんか?ぼくがチェルニー先生から『夢の浮橋』の楽譜の一部を頂いたとき※3、チェルニー先生はベートーヴェン先生から楽譜を受け継いだと仰っていました。
それに、ベートーヴェン先生はワインがお好きでしたよね。『夢の浮橋』上演後に大彗星が葡萄の恵みをもたらすのなら……きっとベートーヴェン先生は、上演に参加されたはずです。技術力の高いエラール社にピアノ製作を依頼されることも、充分あり得ることではありませんか」
思わず前のめりになった鍵一を「いかにもきみの言うとおりだ」と、エラール氏は笑って押しとどめた。
「しかし私としては、幻の楽器『1811』はピアノではなく、ハープではないかと思っている」
「ハープですか……!」
「なぜなら1811 年当時、叔父はハープの改良に没頭していたからだ。叔父は工房の奥の製作室に何ヶ月も籠り、ペダル・ハープの開発に打ち込んでいた。画期的なダブル・アクションを備えたハープが『夢の浮橋』上演のための特注楽器だとすると、製造年の辻褄も合う。
当時、私はまだ見習いで、製作室に入ることは許されていなかった。唯一、ボクサという若者だけが自由に出入りし、叔父と言葉を交わすことが出来た」
「その方も楽器製作者ですか……?」
「ロベール・ニコラ=シャルル・ボクサ。叔父が最も信頼を寄せていたハープ奏者だ※4
エラール氏は苦笑いをして、角砂糖をひとつ紅茶へ入れた。冷え固まった角砂糖が、ティーカップの底でも意固地に溶けない。
「ハープ奏者としては素晴らしい腕前を持っているが、およそ魂の修練や、徳を積むといった事とはかけ離れた男でね。通貨偽造と結婚詐欺の前科がありながら、あっけらかんと法から逃れて生きている強運の持ち主だ。
『夢の浮橋』がピタゴラスの天球音楽説※5に拠った曲であり、魂の平安と宇宙の『ハルモニア※6』を目的に奏されるものだとすれば、ボクサ氏に『夢の浮橋』の奏者は似つかわしくないように思えるが……しかし、大いにあり得ることだ。1811 年当時、叔父がヨーロッパで最も優れたハープ奏者とみなしていたのはボクサ氏だった」
「今もご存命なのですか?」
「いたって元気にロンドン王立劇場の音楽監督を務めているがね、またいつ騒動を起こすやら。ナポレオン閣下の宮廷楽団で首席奏者を務めた腕前、かつ叔父と懇意であった人物とはいえ、出来れば親しく付き合いたくはない……というのが正直なところだ。私にはエラール社の品位を護る義務がある」
銀のスプーンで角砂糖を砕きながら、この楽器製作者の本音はいささか con slancio ※7に話された。鍵一は黙ってうなづきながら、未だ見ぬボクサという人物を、かつてパリで見掛けたパガニーニ氏の姿に重ねていた※8。眼は死神のように濁り、天才奏者の誉れは世俗の欲に黒ずんで、しかし白く骨ばった手に、まだヴァイオリン・ケースを提げていた。……
「ボクサさんは、『夢の浮橋』や製造ナンバー『1811』について、どのように仰っていたのでしょうか」
「まだ返事がない。手紙を送っても返ってきたためしがない。ロンドンに出向いて面会しても、いつもつまらぬ冗談で話を濁されてしまう。それでいて、叔父との長年の親交を盾に、借金の依頼だけは盛んに書いて寄越す。手紙には毎回、私の苦手なニシンの酢漬けが添えてある。書き出しはこうだ、『親愛なるピエール坊ちゃん。先代から引き継がれた事業は順調でしょうか。故・セバスチャン・エラール氏の偉業を後世へ伝えるのは貴君の役目ですから、顧客や音楽家を大切にし、彼らによくよく尽くされるのがよろしいかと思います。』……
まったく呆れた男だ」
「なぜニシンの酢漬けなんでしょうか」
「叔父の好物だった」
苦々しく紅茶をすする表情に、鍵一は相手の心を察した。
「……いずれにしても、私とボクサ氏の二重奏では『ハルモニア』が実現できそうもない」
「製造ナンバー『1811』の楽器を探すのは、かなり難しそうですね……」
「ひとつ手掛かりがある。『慣例に倣って、楽器の余材で創っておいた』と、叔父が最期に私へ託してくれたものだ」
エラール氏は懐から何かを取り出すと、ぱちりとテーブルへ置いた。鍵一はのけぞった。
ヘ音記号のかたちをした、深い色合いの木工細工。

「ぼく、似たようなものをたくさん持っています……!」
スーツケースを開けるのももどかしく、鍵一は福袋を取り出して中身を掴みだした。リピート、ダ・カーポ、ト音記号、シャープにフラット。エラール氏は絶句した。次いで椅子から立ち上がると、片眼鏡を掛け直して、しげしげとこの奇跡を眺めた。
「ケンイチ君、これは……!」
「ぼくの師匠が、旅立ちに際して下さったのです。ピアニストであり作曲家でもあるB 先生という御方が、『困った時は、この音楽記号を使え』と※9
エラール氏は早速ひとつを取り上げて冬の陽にかざし見、また指先で軽く弾いては、その乾いた音に耳を澄ませた。
「これはみな、楽器の製作に使われる木材だな。相当に古いものだが、どれも最高級品だ」
「ええッ、この木工細工が……!」
「これはウォルナット。これはメイプル。ピアノや弦楽器に用いられる木材だ。ウォルナットはやわらかな音、メイプルは硬い音に仕上がる。……このエボニー(黒檀)はじつに美しい。ヴァイオリンの指板か、クラヴィコード※10の鍵盤か……また、これほど上等なスプルス(唐檜)は初めて見た。
ストラディヴァリウス※11のヴァイオリンの表板に似ている。ピアノの響板にも使えるが……ここまで均一に木目の詰まったスプルスは希少なものだ。見たまえ、かすかにニスの跡も残っている。
さて、この木材はきみもよく知っているだろう」
手渡されたト音記号は、ほのかな薫りを纏っていた。
「この薫り……どこかで。見覚えもあります」
「ローズウッドだよ。レストラン『外国人クラブ』できみがいつも弾いていたピアノも、ローズウッドから創られている。伐ると薔薇のように薫るのが名前の由来だ」
(そうか、ジョルジュ・サンドさんが旅先から送って下さった、パルマ港の栞の薫りと同じだ。『この樹でピアノを造れば、きっと音色までも良い薫りがするでしょう』と仰っていた……)※12
作家の流れるような筆がピアノのかたちを描き出して、ゆるやかに音色は薫った。

♪ショパン作曲 :24 のプレリュード(前奏曲集) Op.28 CT166-189

「さて、ケンイチ君。私の仮説を言っても良いかね」
ひととおり木工細工の検分を終えると、エラール氏は瞳を輝かせて手指を組んだ。
「この音楽記号のかたちをした木工細工はすべて、『夢の浮橋』上演用の楽器の余材で創られたものだ」
「ぼくもそう思います……!」
「叔父は『慣例に倣った』と言っていた。すなわち、上演楽器の余材で木工細工を創り、後世に伝える習わしがあるのだ。音楽記号のかたちにしたのは、楽器製作者ならではの遊び心だろう」
「ということは、この木工細工と同じ木材で創られた楽器を探してゆけば、『夢の浮橋』の上演楽器を集めることができますね……!楽器が見つかれば、きっと前回上演時の奏者も見つかります」
エラール氏と鍵一は顔を見合わせて「楽譜も」と、これは同時に言い出して、ふたりとも笑ってしまった。
「楽譜ですよね」
「楽譜だ、ケンイチ君。奏者たちが見つかれば、彼らから楽譜を得ることができる」
「もし当時の楽譜が手元に無くても、記憶を頼りに弾いていただければ……!それを書き取れば、楽譜が再現できます」
「復活上演の可能性が見えて来たな」
「楽器と、奏者と、楽譜がそろえば、あとは大彗星の飛来に向けてリハーサルを進めればよいのです」
「もし前回上演時の奏者が鬼籍に入っていたとしたら、若い奏者を集めて楽団を組織しよう。ショパン君やベルリオーズ君など、『夢の浮橋』に興味を持っている音楽家に声を掛ければ、当世一流の楽団ができる。幻の名曲の復活上演が実現するとあらば、リスト君やヅィメルマン教授も、以前よりは『夢の浮橋』に興味を示すはずだ。
問題はどのようにして楽器を探すか……ヨーロッパ中の音楽関係者に協力を頼めればよいが」
「音楽雑誌を活用するのはいかがですか。アルカンさんやヒラーさんがよく読んでいらっしゃいます」
「そうだな、エスキュディエ氏の『フランス・ミュジカル』や、シューマン君の『新音楽時報』※13に広告を出し、情報提供を呼び掛けるのも良さそうだ」
「『幻ノ名曲《夢ノ浮橋》上演ニ用イラレタ楽器情報求ム、木材照合アリ』として、連絡先をエラールさんの工房にしておけば、きっとヨーロッパ中から手紙がどっさり届きますね」
「有力な情報に対しては、こちらから謝礼金なり、サロンへの紹介状なり、なんらかの報酬を渡そう。 贋作を避けるために情報の精査が必要だが、その基準を早く決めなくては。天文学者との連携も必要だ。早急に事情を伝えて、大彗星飛来の時期を計算してもらおう。楽器所有者との上演契約は……」
エラール氏の眉間に深い皺が刻まれてゆく。「エラールさん、エラールさん」と鍵一が呼び掛けると、生真面目なピアノ・メーカー二代目は驚いたように顔を上げた。
「エラールさん。壮大な企画ですから、準備にはそれなりの時間が掛かりそうですね」
ゆっくりと青い瞳をしばたたいて、エラール氏は額に手を当てた。窓の西日を仰いで、この紳士はむずむずと微笑した。
「きみの言うとおりだ。作戦はじっくり練るとしよう。……ケンイチ君、協力してくれるかね」
「はい……!」
「そのかわり、きみの素性はいっさい詮索しない。B 氏という日本の音楽家についてもだ。きみがパリでサロン・デビューを目指すなら、私が力を貸そう」
鍵一はしっかりとうなづいて、こぶしを強く握りしめた。
「エラールさん。ぼくは自分が『時の旅人』なのかどうか……幻の名曲『夢の浮橋』の復活を担う人間なのかどうか、まだ確証がありません。
でも、チェルニー先生から楽譜の一部を頂いたからには、ぼくも『夢の浮橋』の継承者です。幻の名曲の復活に向けて、全力を尽くします。まずは『夢の浮橋変奏曲』の作曲を……!その曲を携えて『神殿』と名高いヅィメルマン教授のサロンへ伺えるように、全力で創ります」
「『夢の浮橋変奏曲』が見事な出来栄えであれば、『夢の浮橋』というテーマに音楽家たちも注目するだろう。きみの才能と努力に期待しよう」
微笑んで、エラール氏はティーカップを掲げた。
「『夢の浮橋』同盟の結成を祝して。未来に乾杯」
「ええ、未来に……!」
紅茶に夕陽が溶け入る。ふたつのティーカップが茜色に輝いて、1839 年のル・アーヴルに密かな協定が結ばれた。

つづく

◆ おまけ
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