第63話『水琴窟きらら♪』
水琴窟きらら♪
雪あらしがようやく止んで、貴船山は陽のひかりに包まれた。日課の『チェルニー40番』※3を弾いたのち、鍵一は朝の庭へ出た。まんべんなく降り積もった雪に、猫のフェルマータが足跡をつけてゆく。織部型の石灯籠※4、ガレのガラスランプ※5、その他さまざまに散らかった叔父の趣味が、今は真っ白に埋もれている。鳥の声が高い。澄んだ空気を吸い込むと、この雪景色のなかで生まれ変われるような気がした。たわむれに、紅葉の枝から雪のかたまりをつかんでみる。19世紀のアイスクリーム※6に似て、京都の雪はサクサクと砕けた。
さて、フェルマータがひらりと飛び乗ったのが大きな鉢のようでいて、なんだかわからない。雪を払うと懐かしいものが現れた。
(水琴窟……!)
それは京都圓光寺の水琴窟※7を模して、祖父が数十年前に造ったという。大きな盃のかたちをした鉢の下に、これまた大きな水甕が埋まっている。鍵一は小学生の夏休みに掘ろうとして、底が深くて掘りきれなかった。
鍵一は祖父の顔を知らない。自分の生まれる前に亡くなった祖父について、大人たちから断片的には聞いていた。魯山人※8に憧れ、書画骨董に凝り、流星群などが来ると騒ぐ人だったというので、叔父と父を足して二で割ったような人らしかった。
その祖父の水琴窟が、今は黙って凍っている。……眺めているうち、音を聴いてみたくなった。
母屋から珈琲の残り湯をもらってきて、盃型の鉢の下へ掛けまわしてみる。一拍おいて、きらきらと地中に水音が踊った。足元に巨大な宇宙がひろがって、星のしずくが
Capriccioso
※9に滴り落ちているような。
(綺麗だな。調のない音楽……)
屈んで耳を傾けていて、はっとした。
(無調音楽※10を『夢の浮橋変奏曲』に取り入れたらどうだろう?1838年のパリでは、ぼくも音楽家のみなさんも当たり前のように調性音楽※11に浸っていたけれど。19世紀末からは、音楽家たちは『調のない音楽』を模索しはじめるんだ。音楽史を先取りして、19世紀パリのサロンで披露すれば……きっと驚かれるぞ)
これはすばらしいアイディアに思われた。寒椿を手ばやく水琴窟へ活けて、離れの座敷に走り戻る。
さっそくピアノの前に座ると、『悪魔の音程』※12を思いきり響かせた。
♪フランツ・リスト作曲:調のないバガテル S.216a R.60c
うろ覚えに途中まで弾いて、『夢の浮橋』のモチーフへ繋げてみる。……昨年末から構想を練ってきた『夢の浮橋変奏曲』のかたちは、鍵一のなかでゆるやかに固まりつつあった。パリで出会った人々の肖像を、12の変奏で描くこと。『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12変奏それぞれに違った様式をもたせること。楽譜を枕の下に敷いて眠るたび、アイディアは厚みを増していた。そこに今、新たな輝きが加わった。
(第12変奏の『フランツ・リストの肖像』は、シェーンベルクの十二音技法※13で書く……これで決まりだ!)
勇んで五線紙に書き付ける。猫のフェルマータはふんわりとあくびをして、ファンヒーターの前に丸くなった。鍵一は思いついたばかりのアイディアを頭のなかでこねまわしながら、もう19世紀パリのサロンで浴びる拍手が耳の奥に聞こえている。リストの驚く顔が目に浮かぶ。居ても立っても居られない。座敷をぐるぐると歩き回り、トランクを開け、『三種の神器』※14を取り出した。鍵盤ハーモニカを拭き、福袋の中身を机にあけ、『未完の音楽史』をぱらぱらめくると、ローズウッドの栞※15がすべりおちてきた。ほのかな薫りにふれた途端、鍵一は我に返った。
(無調音楽で『フランツ・リストの肖像』を書けば、19世紀のみなさんは目新しさに驚いてくれる……。でも、無調音楽で書くことが本当に、『夢の浮橋変奏曲』にとって正解なんだろうか?それに、ぼくが創始したわけでもない無調音楽の技法を、オリジナル曲に堂々と組み込むのはどうなんだろうか。音楽史の未来が変わってしまう可能性もあるし……それは未来人として、やってはいけない事なんじゃないだろうか。仮に少しだけ取り入れるにしても、作曲初心者のぼくが、シェーンベルクの十二音技法を独学で書けるようになるとは思えない……)
溜息をついて、アイディアはたちまち溶けてしまった。五線紙は白紙に戻った。
ふと気配を感じて障子を開けると、誰もいない。沈黙する雪の海に、祖父の水琴窟がぼんやりと漂っている。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
第62話『雪色の日課 ―チェルニー、魯山人、あるいはタヌキ♪』をご参照ください。
石灯籠とは、石造りの照明具。仏教とともに伝来し、社寺に置かれました。茶の湯が流行すると、茶庭(露地)の夜間照明として使われるようになり、さまざまな形が造られました。茶人の古田織部が好んだ石灯籠の形は「織部型」「織部灯籠」などと呼ばれます。
エミール・ガレ(1846-1904)は、フランスのアール・ヌーヴォー様式を代表するガラス工芸家・デザイナー。花瓶やランプなど、優れたガラス工芸品を創りました。
生涯を通じて旅を好み、ドイツ、イタリア、スイスなどに長期滞在しています。ヴァイマールではフランツ・リストやワーグナーの音楽にふれ、創作のインスピレーションを得たといわれています。
第8話『紫の調べ♪』をご参照ください。
北大路魯山人(1883-1959)は京都の芸術家、美食家、料理家、書道家、陶芸家。多彩な顔を持ち、会員制料亭「美食倶楽部」を経営しました。
音楽用語で『気ままに、気まぐれに』の意。
長調・短調に依らない音楽。フランツ・リストが1885年に作曲したピアノ独奏曲『調のないバガテル』は、音楽史上最初に『無調音楽』を宣言した作品といわれています。
長調・短調から構成される音楽。バロック時代に確立されました。
「三全音(さんぜんおん)」または「トライトーン」と呼ばれる音程。増四度・減五度に当たります。バロック期までは「最も響きの悪い不協和音・作曲時に使ってはならない音程」として避けられていました。
シェーンベルク(1874-1951)はウィーンの音楽家。無調音楽の方法論として、十二音技法を確立しました。
第1話 『運命は、かくのごとく扉をたたく♪』をご参照ください。
第17話『前略 旅するあなたへ(Ⅰ)♪』をご参照ください。