第53話『夢の浮橋♪』
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年元旦の京都へワープした鍵一は、山深き貴船※2)の叔父のアトリエ兼住居に身を寄せる。春までに『夢の浮橋変奏曲』を創り上げ、19世紀パリへ戻ることを目標に、鍵一の創作の日々が始まる。
鍵一は夢と現実を行きつ戻りつしていた。山深き貴船に到着した元旦、叔父のアトリエで寝入った翌朝から高熱が出た。それから10日ほど、臥せったまま多くの夢を見た。
夢のなかには必ず大きな川が流れ、数多の橋が架かっていた。対岸には19世紀パリのなつかしい人たちがいる。ところが、鍵一が渡ろうとすると橋は虹に変わり、すうっと消えてしまうのだ。
あるいは、夢うつつにすすった七草粥から、19世紀ドイツの音楽家・F.ヒラーの明るい声が思い出されることもあった。
「ケンイチ君。フランクフルト名物・春の七草※3を覚えてるかい。パセリ。アサツキ。ミツバグサ。チャービル。クレソン。ソレル。ルリチシャ。さあ、即興でメロディをつけてみよう。大丈夫。ここはヅィメルマン家のサロン※4でも、パリ音楽院のコンクール(修了者選抜試験)※5の場でもないんだから。気楽に、気楽に……」
かと思えば、鍵一は舟に揺られてLargo※6でセーヌ川をくだっている。春。両岸にミモザが眩しい。舟の舳先には猫のフェルマータが丸まって、すやすやとうたたねをしている。
トゥールネル橋※7の上では、ドラクロワとベルリオーズが楽しそうに餅つきをしている。杵と餅の変拍子。鍵一が舟から伸び上がって声を掛けると、彼らはタイミングよくなにかを投げてくれた。手のひらに受けとめて、見れば星付き餅※8。
——京都の正月の風習を、なぜフランス人のあなた方がご存じなのか。
笑ってそう言おうとすると、舟は橋の下に潜った。この石橋の橋脚に目盛りが刻まれている理由を、鍵一は知っていた。18世紀以来、パリではセーヌ川の水位をこの橋で測るのだと、『外国人クラブ』のシェフが教えてくれた。幾たびもセーヌ川に洗われてきた橋脚には苔が生えつき、高みには小さな赤い花まで咲いている。……ふいに水の流れに乗って、舟は
Allegletto
※9で進みを速めた。のどかな餅つきのリズムはたちまち遠のいた。
さて、ルイ・フィリップ橋※10の上では、フランツ・リストとエラール氏が熱心に相談中。
「ドナウ川の氾濫を鎮める曲を創りたいねん※11」とリストが熱心に話せば、エラール氏はうなづいて、
「リスト君の言うとおりだ。世のため人のため、エラール社の最高傑作、『1811』※12に匹敵するピアノを造ろう。まず音域だが、7オクターヴのグランド・ピアノでさえも、きみには物足りないとすると……」
鍵一が呼び掛けるも、ふたりは議論に夢中で鍵一の存在に気づかない。舟が流れゆくままに、『栄光の三日間』※13を象徴する橋はたちまち、木立の陰に隠れた。
ノートルダム橋※14の上にはウィーンの音楽家、チェルニー氏と『楽聖』ベートーヴェン※15がいた。ふたりの持っている絵巻物のようなものは、どうやら幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜らしい。ふたりの音楽家は息を合わせると、その楽譜を橋の上からふわりと投げおろした。長大な楽譜は川面にゆらめいて、まるで友禅流し※16の風情。セーヌ川に洗われて音符は浮き上がり、瞬く間に小さな渦に巻かれゆく。慌てて鍵一が、
「先生方、やめてください、それは貴重な楽譜なんです。音符が散らばってしまうと、復活上演ができません……!」
必死に叫ぶも、鍵一の声は届かない。なぜかふたりの音楽家は満足げに、流れゆく音符を見送っている。もどかしい鍵一の舟が
Vivace
※17でノートルダム橋の下をくぐると、にわかに空が曇ってきた。ルイ14世の王妃マリー・テレーズを讃えて改築されたこの橋は、たちまち鼠色に翳った。
ふと、珈琲の薫りが川風に混じって、振り向けば『外国人クラブ』のシェフが船尾に腰掛けている。
「シェフさん、いらしたんですか」
駆け寄ろうとすると、「おまえはそこにいろ。舟が傾く」と制された。鍵一はおとなしく船首に座った。
「ケンイチ、珈琲淹れてやるよ。どんなのがいい」
「珈琲ですか。はいッ、なんでもいいです」
「おい、『なんでもいい』はダメだろ」
からっと笑って、シェフは珈琲豆の瓶を掲げてみせた。
「このパリじゃ、自分の意思をハッキリと言葉にしなきゃダメだ。たとえ珈琲一杯のことでもさ。だいいち、珈琲大国フランスでは星の数ほど珈琲豆の種類があるんだから。うちの店だって 30 種類は常備してる」
「えッ、そんなにたくさん。あの、ぼく、珈琲にまったく詳しくなくて……」
「今の気分を好きに言えばいいんだよ。それに合わせて、俺がベストな一杯を創ってやる。
たとえばカンカン照りの夏に飲みたい珈琲と、雪のちらつく冬に飲みたい珈琲は違うだろ。
これからオペラ座に繰り出してド派手なグランド・オペラを楽しむぞというときの珈琲と、
格調高いイタリア座で古典の名作に聴き入った後の珈琲は違うしさ」
「そ、そうですね、ええと、ちょっと待って下さい。ええと、19世紀パリから21世紀に帰って来て、まだ少し眠たくて……でも、わくわくしてます」
「よしわかった!」
シェフは大きくうなづくと、さっそく数種類の珈琲豆をブレンドして、ごりごりとミルを曳き始めた。
さて、セーヌ川はたっぷりと緑色に濁って、先ほどより水量が増えたような気がする。
行く手に妙な建物が見えて、鍵一はこれが夢のなかの出来事だと気づいた。ノートルダム大聖堂のあるべきところに、なぜか平等院鳳凰堂が建っていたからである。……ただし、目覚める気にはなれなかった。金銅鳳凰の鈍い輝きを眺めながら、鍵一はシェフ特製の珈琲を待った。
「なあ、ケンイチ」
と、シェフは銅製のやかんで湯を沸かしている。
「うちのレストランに飾ってある肖像画。みんな、いい顔してるだろ」
「はい、まだお名前を存じ上げない方もいらっしゃいますが……」
「みんな、俺の店を気に入ってくれた芸術家の連中だ。若くて才能があって、野心とエネルギーに満ちてる。俺の店にはそういう奴らが集まる」
「レストラン『外国人クラブ』は、芸術家の集会所なんですね」
「最近じゃ『フェルマータ(fermata)※18』……芸術家の『停留所』、というべきかな。才能ある奴らがそれぞれの旅路で途中下車して、俺の店に集(つど)って、また旅立ってゆく。気づけばみんなスターになってる。
ケンイチ、おまえは『外国人クラブ』の久々の新顔なんだ。おまえがこれからどんなふうにパリを開拓してゆくのか、楽しみだよ。まずは、オリジナル曲の作曲だな」
「『夢の浮橋変奏曲』を携えてサロン・デビューできるよう、がんばります」
「その意気!さあ、飲め。『希望に満ちた猫舌のための一杯』」
「ぼくが猫舌だと知っていてくださったんですね」
「だッておまえ、8か月もうちに居候してりゃア、それくらいはわかるよ」
差し出された珈琲をひとくち飲むと、なるほど、パリッと背筋が伸びる。
「今の気分にぴったりです。なんだか、勇気が湧いてきました……!」
そのとき、舟がポン・ヌフ※19に差し掛かった。シェフは手を止めて、「これは俺のご先祖様が造った橋なんだ」と誇らしげに仰いだ。
「俺にはわかる。橋を渡る顔ぶれが変わっても、橋そのものは残るんだ。二百年先もきっと、この橋はある」
「千年先もでしょう」と鍵一は反射的に答えた。シェフは目尻に笑みを滲ませて、やはり嬉しそうにポン・ヌフを仰いだ。鍵一も黙って仰ぎ見た。橋脚に水の輪が映って揺らめいている。ふと鍵一は、この料理人の家系に先祖代々受け継がれたという、セーヌ川の砂を思い出した。
「シェフさん、あの砂は……」
言いながら振り向くと、シェフは居なかった。辺りが急に暗くなる。フェルマータがひざに乗って来るのを、急いで鍵一は抱き上げた。
♪ショパン作曲 :ノクターン(夜想曲) 第1番 Op.9-1 CT108 変ロ短調
ピアノの涼やかな音色が、すぐにショパンの演奏だとわかる。薄暗いポン・デ・ザール(芸術橋)※20を透かし見れば、柳の樹の下でピアノを弾いているのは、ショパンその人であった。舟から伸び上がって物を言い掛けた鍵一は、しかし演奏の邪魔をするのが憚られた。しかたなく心の内で話しかけてみる。
(ショパンさん。あなたがぼくに贈ってくださった謎の言葉『夢の浮橋』は、幻の名曲のタイトルだったのですね。あなたがぼくの手袋に興味を示したのも、秘曲『夢の浮橋』に関係があることなのですか)※21
するとショパンがピアノ越しに、ちらりと鍵一へ目を遣った。どきりと心臓が跳ねる。続けて尋ねたいことがたくさんあるのに、鍵一には言葉がみつからない。霧がたちこめてきた。ポン・デ・ザール(芸術橋)もショパンの姿も、夕霧に隠れてたちまち遠のいてしまう。ノクターンの残響だけが夕闇に舞っている。
花のような香りがする。振り向くと、船尾に薄紅色の着物を着た女性が佇んでいる。顔は夕闇に溶けて見えない。まろやかな声に聞き覚えがある。
「ケンイチ君、あなたの『夢の浮橋変奏曲』はどんな曲なの?」
「19世紀のみなさんの肖像を音楽で描いた曲です。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かして、12の変奏曲を創りたくて」
「みなさんって誰?」
……
目が覚めた。『みなさん』は二百年も前の人々であった。
耳元でフェルマータが小さく鳴いて、黄金色の瞳が鍵一を覗き込んでいる。その猫背をフサフサと撫でて、鍵一は深い溜息をついた。明るい雪見障子の向こうから、叔父の淹れる珈琲の薫りが漂って来る。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
第32話『鹿と福耳―ヒラー氏の肖像(Ⅰ)♪』をご参照ください。
パリ音楽院のピアノ科教授・ヅィメルマン氏が自宅で開催していたサロン。
詳細は、上田泰史著『ショパン時代のピアノ教育』第24回をご参照ください。
パリ音楽院内で定期的におこなわれていた修了者選抜試験を指します。
音楽用語で『幅広く、とてもゆるやかに』の意。
パリのサン=ルイ島とトゥールネル河岸を結ぶ橋。1759年以来、パリのセーヌ川の水位はこの橋で測られています。
京都の正月飾りの一種。小さな鏡餅です。
音楽用語で『やや速く』の意。
パリのセーヌ川右岸とサン=ルイ島を結ぶ橋。七月革命(1830年)により王座に就いた、ルイ・フィリップ王の名を冠した橋。施工の際には、ルイ・フィリップ王自身が礎石を据えたと言われています。1848年の二月革命時に焼失後、再建されました。
1838年にドナウ川が氾濫した際、フランツ・リストはチャリティー・コンサートを開催し、故郷のハンガリーに多額の災害救助金を寄付しました。
幻の名曲『夢の浮橋』の上演に使われた楽器。セバスチャン・エラールが創った製造ナンバー『1811』のエラール・ピアノ。
第45話『時の旅人♪』をご参照ください。
1830年7月27日から29日にかけて起きた、フランスの市民革命。フランスでは『栄光の三日間』とも呼ばれます。この七月革命ののち王座に就いたのが、ルイ・フィリップ王でした。
パリのジェスヴル河岸とコルス河岸を結ぶ橋。1660年、『太陽王』ルイ14世の王妃となるマリー・テレーズを讃えるために改築されました。
19世紀ウィーンで活躍した音楽家・チェルニー氏は、『楽聖』ベートーヴェンの弟子でした。ベートーヴェンからチェルニー氏へ、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜が引き継がれた経緯については、第15話『橋守♪』をご参照ください。
音楽用語で『快速に』の意。
イタリア語で『停留所』、音楽用語では『音符や休符を充分に伸ばす』の意。
パリのシテ島の西端を挟んで、セーヌ川左岸と右岸を結ぶ橋。パリに現存する最古の橋です。
パリのフランス学士院とルーヴル宮殿を結ぶ橋。ルーヴル宮は第一帝政時代に『芸術の宮殿』と呼称されていたため、橋の名はPont des Arts(芸術橋)となりました。
第2話 『令和(Beautiful Harmony)♪』をご参照ください。