ピティナ調査・研究

第2話 『令和(Beautiful Harmony)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
令和(Beautiful Harmony)

緑の風が吹いている。
音の実がきらきらと揺れている。大事なことをささやくように。
次第にその音は高く響き、風音は強くなり、きらめきながら大きくうねり、五線譜はたわみ、数々の美しいメロディが絡まりながら吹き抜けてゆく。思わず手を伸ばした鍵一の指をすり抜けて、それらは遥か後方へ飛び去った......!

鍵一はゆっくりと目をひらく。途端、まぶしさに息を呑んだ。
目の前に聳え立つ壮麗な建物の天窓に、黄金色の夕焼けが映り込んでいる。テラスから人々の優雅にさんざめく気配がする。頬をなでてゆく夕風に、甘い花の匂いと葉巻の薫りが混じっている。石段を上って行く紳士淑女を、ドアマンがチョコレート色の扉をひらいて迎えている。
扉上部のアーチのレリーフに、
『Académie royale de musique(パリ・王立オペラ座)』※1
の文字。
(オペラ座......!)
ふりむけば噴水が高く吹き上がり、明るい夕空には茜雲が legato ※2にたなびいている。遠く広場の向こうにオベリスクの尖塔が輝く。馬車の行き交う大通りは土埃に霞みながら、家路を急ぐ人々が賑わしい。
鍵一は額に手をかざして呆然と天を仰ぎ、8分の7拍子で小躍りすると、飛び上がらんばかりにガッツポーズした。
(すごいぞ、ここは本物のパリだ! ぼくはパリにワープしてしまった! 
......でも、でも、待てよ。おちつけ鍵一。『21世紀の楽聖の後継者』と呼ばれる18才よ。まずは史実を思い出して状況把握だ。ここは本当に、ぼくの目指して来た1830年代のパリかしら?)
高まる鼓動をおさえて鍵一はオペラ座を振り返り、その外観を眺めた。
(なるほど、この劇場はオペラ座にちがいない。でも、あの有名なオペラ座・ガルニエ宮とは様子が違う......。
まず、ファサードの装飾彫刻が極端に少ない。ガルニエ宮のシンボルたる、あの二対の黄金の彫像、『詩情(La Poésie)』と『ハーモニー(L'Harmonie)』もない。
それに、ガルニエ宮ならファサードの円柱に、偉大な音楽家たちの胸像が据えてあるはず。ロッシーニ、モーツァルト、それにベートーヴェン......も見当たらないな。
17世紀、ルイ14世の時代に創設以来、パリ・オペラ座の劇場はフランスの歴史と深く絡んで、移転と再建をくりかえしてきた。ガルニエ宮はたしか13代目だ。この劇場が何代目かはわからないけれど、少なくともガルニエ宮着工の1862年以前のものにちがいない。
そして、あのオベリスク)
鍵一はもういちど、夕陽を透かして広場の方角を眺めた。
(あのオベリスクがエジプト国王からフランスに贈られ、コンコルド広場に建てられたのは1836年のこと。
つまり、ぼくのワープしたこの時代は、1836年から1862年の間のどこかなんだ)
手のひらにじわりと汗がにじむのを、鍵一は強く握りしめた。
(B先生。ぼくは本当に、19世紀のパリにワープしてしまいましたよ......!)
そのとき数台の馬車がつらなって、大通りから広場へと入って来た。
馬たちのゆるやかな沓音が、噴水の周りをゆっくりと回って来る。紋章入りの豪華な馬車たちは鍵一の目の前を通り過ぎると、劇場の正面に次々止まる。
光に満ちたこの夕暮れに、馬車から降りてくる貴婦人たちのドレスは一様に茜色に染まり、そしてすぐ劇場の影に入って白く霞む。優美な手でドレスの裾をつまみ、ふんわりと石段を上ってゆく乙女たちは、まるで花の妖精のように儚く美しい。
(あの人たちはきっと、B先生の仰っていた社交界の紳士淑女だな。なんて華やかなんだろう! 
おや、劇場から紳士たちが出て来た。ご婦人たちをお迎えに......わっ、紳士もお洒落だなあ。ステッキにきらめいたのは宝石かしら。あの細身のシルエットも格好良いな。
なるほど、シルクハットはああして、あいさつの時には脱帽して胸に当てて......)
紳士のしぐさをまねて自分のカンカン帽をヒョイと取ってみた鍵一、自分のいでたちに気づいて額を赤くした。
(羽織袴にブーツ、手袋、カンカン帽! B先生が『民族衣装こそ最高のお洒落じゃ♪』と言って貸してくださった衣装だけれど、なんというかぼく、浮いてるよね......うん、さっきからこのバラの植え込みの端で目立たないようにしてるのに、来る馬車来る馬車、御者さん全員と目が合うし......! あのドアマンの人もちらちらこっちを見てるし......! 馬も見てるし。心なしか劇場のテラスからも視線を感じるけれど、うん、気のせいだよね、きっと気のせい)
鍵一が深く息を吸ったそのとき。
「今夜のオペラ座では、仮装舞踏会は開催されないよ」
(......!)
背後からまろやかな声が、鍵一の心臓を射抜いた。
おそるおそるふりむくと、青い瞳がほほえんでいる。憂いを帯びた面長の顔だち。くちびるに皮肉をこめてなお、独特の気品が漂っている。群青色の夕風がブロンドの巻き毛を揺らして、絹の手袋はあくまでも白い。
「ショパンさん......!」
「おや、僕の名前を?」
(どうしよう、生ショパンだ!憧れの生ショパンだ!
肖像画でもない、伝記物語の中の人物でもない、この人は今、ぼくの目の前で生きてる......!)
「もちろん存じ上げています!
1810年ポーランド生まれ、ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンでの演奏活動をへてパリ・デビュー、『ピアノの詩人』こと、フレデリック・ショパンさんですよね......!」
鍵一が appassionato ※3に言い募ると、この19世紀パリ社交界の花形は目をほそめて、にっこりとほほえんだ。
「僕のことをよく知ってくれているんだね」
「あなたは世界中のピアニストの憧れですから!
ぼくもピアニストの卵なので、ショパンさんは神様のような存在なんです。その証拠に、ショパン国際ピアノコンクール※4のレベルの高さたるや......! 
2020年の第18大会、ぼくも出場できたらと思うんですが、あの牛田 智大先輩※5が出場されるかもしれないと思うと」
「コンクール?」
(しまった! ショパン国際ピアノコンクールが始まったのは1927年、この人が亡くなった後のことだ......)
「......などという妄想をしてしまうくらい、とにかくショパンさんを尊敬しております! お会いできて光栄です......!」
耳まで真っ赤になった鍵一を見つめて、ショパンは笑いを滲ませた。
「それはどうもありがとう。
7年前に初めてこの地を踏んだときには、僕の音楽がパリの人々にここまで理解してもらえるとは、思ってもみなかったけれどね。運命とはふしぎなものだよ。
さて、きみは?」
「はいッ、日本から音楽の勉強に来た、鍵一と申します」
「日本......?」
「Japonです、日本」
焦る鍵一の脳裏にふと、彗星がひらめいた。
(そうか! 今この瞬間、日本はまだ江戸時代で鎖国中。
正式に国交を結んでいるのは朝鮮国と琉球王国だけ。中国とオランダ以外の商船は、長崎に入港すらできない。
この時代のヨーロッパの人たちにとって、日本は未知の国なんだ......)
「ショパンさん。日本というのは、太平洋の極東に浮かぶ島国です。
小さな国ではありますが、文化芸術の薫りの豊かさでは、フランスやポーランドにも負けていません。
このたび、時代を象徴する新しい元号が『令和』に決まりました。『美しい調和(Beautiful Harmony)』という意味です。フランス語では、『belle Harmonie』」
「belle Harmonie(美しい調和)......」
折しも今、西の方角では金色の夕陽と群青色の夜空とが入り混じって、美しい色の調和をなしている。
ショパンはしばらく彼方を眺めて、やがて「いいね」と鍵一をふりむいた。
「とてもいい。よき音楽家を輩出しそうな国だ」
(なんて優しい笑顔! 肖像画で見るよりずっと話しやすい人だ。
もしかすると、このまま気に入られて弟子入りできるかも? 
それどころかショパンさんの推薦で、いきなりパリ・デビューも有り得るかも?? わあ、どうしよう)
思わず小躍りしかけた鍵一を、ショパンはにっこり笑って覗き込んだ。
「で?」
「?」
「ケンイチ君、それは何の仮装?」
「え?」
「きみがあまりに奇妙な格好をしているものだから、紳士淑女のみなさまの注目の的だよ。まだ子供みたいだし、可哀想だから、僕が忠告に来てあげた。
今夜のオペラ座では仮装舞踏会は開催されないよ、わかったら暗くならないうちにお帰り、ってね」
(フギャッ)
「お、お言葉ですが、これは仮装じゃありません」
「そうなの?」
「これはキモノといって、日本の伝統的な民族衣装の一種なんです。
民族衣装こそ、最高のお洒落かと思いまして」
「フフフ、どれ、きみのお洒落をよく見せておくれ。ほほう、上等のシルクだねえ。このカフスはなぜこう四角いかたちなのかな。襟元が寒そうだけど大丈夫? パリの夜は冷えるよ」
(この人、ぼくをからかいに来たんだ......自分がお洒落さんだからって、うう。いや、優しさなのかな? いやいや、完全におもしろがってる顔つきだ、うう)
「よしてください、ぼくは」と鍵一が言い掛けたそのとき、ショパンの顔に驚きがあらわれた。
「きみ......この手袋は?」
「え?」
「教えてくれないか、この手袋をどこで手に入れた?」
(B先生から譲り受けたこの手袋、たしかに美しいものだけれど、ショパンさんがこんなに真剣に興味を示すなんて!本当に手袋にこだわりがあるんだな、この人。
......待てよ、これはチャンスかも)
「いいですよ、教えます。ただし、条件があります」
「金か」
「いいえ」
「サロンへの紹介状?」
「いいえ」
ショパンはすらりと腕組みをして鍵一を見つめている。
鍵一は深く息を吸うと、
「ぼくをあなたの、弟子にしてください......!」
思いきり頭を下げた。
pause。 ※6
さざ波のような笑い声がすこしずつ広がり、やがて劇場前の広場いっぱいに満ちて、鍵一の額から大量の汗が噴き出る。そっと鍵一が顔を上げると、ショパンは天を仰いで大笑いしている。
「あ、あの、ショパンさん?」
「アッハハハハ! 胸が苦しい、フフフ、僕としたことが、笑い死にしそうだ!弟子入りの志願者はたくさん見てきたけれど、きみみたいな子は初めてだよ。
サロンへの紹介状が要らないだって?
手袋の情報と引き換えに弟子入り?
フフフフ。つくづく、パリはおもしろい街だ。きみみたいな型破りな子に会うのが楽しくて、僕はパリを離れられない。
いいよ、弟子にしてあげよう」
「ええっ、本当ですか!」
「ただし、最初の1回だけね。初回だけ、レッスン料をタダにしてあげる。
2回目以降は、他の弟子と同じように支払ってもらうよ。
僕のレッスンは、1回につき20フラン。それが払えないならお断り」
「日本円にして約5万円! あのショパンさんのレッスンが受けられるなら安いかも......でもぼく、お金も持っていないし、パリでは仕事をするあてもないし......うう。
継続的にレッスンしていただけないのなら、手袋のことは教えられません......!」
「ハハハ、じゃ、弟子入りの話も無しだね」
「うう」
すると一台のひときわ豪華な馬車が、夕闇のなかをギャロップで駆けて来た。
噴水の周りをぐるりと回ってそのまま、ふたりの傍に急停車する。
「失敬」とショパンは鍵一へ目くばせして、馬車の中の婦人へと手を差し伸べる。
困惑しながらも鍵一は、馬車のステップをゆっくりと降りてくるその婦人に、目を奪われた。
(なんて美しい人......!ショパンの年上の恋人、才色兼備の女流作家、ジョルジュ・サンド!)
漆黒のドレスと艶やかな黒髪は、この夕闇の刻でも際立って美しい。
その瞳は黒曜石のように強い輝きを放ち、紅いくちびるはユーモアを湛えて、この街の何者よりも堂々と存在していた。
「お待たせ、フレデリック。今日はなんだか嬉しそうね」
「あたらしいお友達と楽しい時間を過ごしてたから、退屈しなかったよ」
「あら、可愛いボウヤ。中国人?」
緊張のあまり跳ねた鍵一を、ショパンは優雅なしぐさで示してみせる。
「紹介するよ。今夜のオペラ座の公演を仮装舞踏会と勘違いして来ちゃった、日本人のケンイチ君。
ぼくが声をかけなかったら、あやうくパリ社交界の出入り禁止になるところだった」
「ち、違いますっ、ぼくはその、あの」
ジョルジュ・サンドは陽気なほほえみを浮かべて、そっと鍵一に近づいた。
「うちのフレデリックがごめんなさいね。私に免じて、今日のところは許してあげて」
と、ハンカチ包みを鍵一の手のひらに載せる。
絹のなめらかな質感にたじろぐ鍵一を、ジョルジュ・サンドはおもしろそうに見つめて、
「うらやましいわ」
と、鍵一の耳元でささやいた。
「人見知りのフレデリックが自分から声をかけるなんて。あなた、相当気に入られてるのね」
「そ......うなんですか?」
そのときオペラ座から「まもなく開演でございます、お早く、お早く」の呼び声。
ショパンはつと踵を返して、
「じゃ、僕らはこれで。ケンイチ君、楽しい時間をありがとう」
ジョルジュ・サンドと腕を組んで歩いて行く。
思わず鍵一は、
「待ってください、ショパンさん!」
声を振り絞った。
「ぼく、何度でもあなたに会いに来ます......! 
ぼくには大切なミッションがあるので、このまま日本に帰るわけにはゆかないんです!」
ショパンは足を止めてふりむくと、謎めいたほほえみを浮かべて、鍵一をじっと見つめた。そしておもむろに懐から紙片とペンを取り出すと、何事かを書いて鍵一へ差し出した。
走り寄って鍵一が受け取ると、字は夕闇に溶けてよく見えない。
「手袋の秘密について話す気になったら、その場所へ来たまえ。
また会おう、ケンイチ」
「ショパンさん......!」
石段を上ってゆくふたりの後ろ姿は、夕陽の最後の光を受けて、
(『詩情(La Poésie)』と『ハーモニー(L'Harmonie)』......)
遠く未来のオペラ座・ガルニエ宮のシンボル、二対の黄金の彫像の印象と深く結びついた。

チョコレート色の扉が閉まると、辺りはたちまち夜に沈む。
星の瞬きと響き合うように、オペラ座に光が燈る。
途端、ガックリとひざからちからがぬけて、鍵一は石段にしりもちをついた。
(ああ、頭がクラクラする! ぼくは夢を見ているのかしら?
さっきまで目の前にいたのは、ショパンとジョルジュ・サンドの幻なのかしら......
たとえそうだとしても、ぼくはなんて間の抜けたインタビュアーなんだろう!
ショパンさんには聞きたいことがたくさんあったのに......!
ショパンさん、どうしてご自身の創った曲にタイトルをつけたがらないんですか? 
J.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』に影響を受けて『24の前奏曲(プレリュード)』を作曲したという説は本当ですか? 
同時代のライバル、リストさんとはどういったご関係ですか? 
『サロン』って何ですか? 
どうしてそんなに手袋にこだわるんですか......?
それに......それに、服装の件! ああ、もっと言い返しておけばよかった! 
着物のことを『仮装』だなんて、いくらショパンさんでも失敬じゃないか。B先生が聞いたら、何と仰るかしら。
次にお会いしたら、日本を代表してぼくは抗議をしよう。
そして日本の美しい風物について、ショパンさんが『もう結構、もう勘弁!』というほどに、語り聞かせてあげよう......!)
鼻息荒く、鍵一は夜空を仰いだ。猫の眼のような三日月が、金色に輝いている。
(でも、会えて嬉しかった......)
ほっと溜息をつくと、ジョルジュ・サンドのくれたハンカチ包みが気になる。
ほどくと甘い香りがひらいて、『F』の刻印のチョコレート。バラのジャムは口の中で dolce ※7にとろけた。
オペラ座から漏れ聴こえてくる音楽が、夜風に乗ってパリの街へ吹き流れてゆく。

♪ 19世紀ロマンティック・バレエの名作、『ラ・シルフィード(La Sylphide)※8

(それにしてもショパンさん、何を書いてくれたんだろう?)
鍵一がメモを透かし見ようとしたそのとき。
「あっ」
ひときわ涼しく吹き寄せた夜風にメモがさらわれた......! 
慌てて手を伸ばす鍵一の鼻先を何かが横っ跳びにかすめて、空中でメモをキャッチする。
「!?」
しなやかに着地したそれは、ふわりとこちらを向いた。
(ねこ......?)
白黒のねこがメモをくわえて、金色の眼でケンイチを眺めている。
「ねこ、返しておくれ。それはショパンさんから頂いた大事なメモなんだ」
ケンイチが近づくと、ねこはひょいと跳び退る。しっぽをふわりと揺らして、
『これは吾輩の獲物である。証拠はまだニャい』
と言わんばかりに、ちょっと前足を上げてみせる。
焦るケンイチが「やっ」と飛びかかれば、白黒ねこはひらりと身をかわしてそのまま、全速力で走り出した!
「待てねこ、ねこねこ!」
ねこ速い! ねこ速い! ドブ板をかろやかに飛びこえ、人々の足の間をすりぬけ、パリの夜道を presto※9駆け抜けてゆく。
こけつまろびつ追う鍵一が、ドブ板を踏み抜き、街灯にすねをぶつけ、つんのめっては人にぶつかりそうに「すみません!」息せききって走る走る。
ねこに続いて建物の角を曲がろうと、
「ヒャッ」
「あたッ」
鍵一は誰かにぶッつかッて、前のめりにスッ転んだ......!
「あいたた......す、すみません!」
「あいたた......ウチときたらほんまに、音楽院に近づくとアクシデントが多いわ。あんた、大丈夫?」
鍵一が顔を上げると、華やかな美青年が苦笑いしながら、手を貸そうとしてくれている。
「あ、あなたはもしや......!」
その大きな手につかまって立ち上がりながら、鍵一には相手の姿に後光が射しているように見えた。
「リストさん......!リストさんじゃありませんか!?
1811年ハンガリー生まれ、8才でプロ・デビュー、11才でウィーン音楽院に入学、12才でベートーヴェンに演奏を披露、以来ヨーロッパ各地で大活躍のスーパースター、フランツ・リストさん!」
「はい、そやけど。あんたは?」
(どうしよう、生リストだ!生リストだ!
ショパンとリスト、まさかこの2大ピアニストに、パリ到着初日に出会えるなんて......!)
鍵一は転んだ痛みも忘れて、スタッカート※10さながら跳ね上がると、
「ファンです!!」
勢いよく両手を差し出した。リストは笑って、
「あらー、ついに男の子にまでモテてしもた♪」
気楽に握手してくれる。
「ウチのこと、よう知ってくれてるねんなあ、嬉しいわ」
「もちろん存じ上げております! 
『ピアノの魔術師』あるいは『鍵盤の王者』もしくは『交響詩の創始者』こと、フランツ・リストさんといえば、世界中の少年たちのアイドルですから♪」
「おおきに、おおきに。あんたもピアノ弾くんやね。手を見ればわかる」
「えっ? ええまあ、その」
鍵一は急に恥ずかしくなって、手を隠した。
「いちおうピアニストの卵の、鍵一と申します。
日本人としては指が長いほうなんですが......
リストさんに比べると、まるで子供の手ですね、お恥ずかしいです」
「ええやんか。賢そうで、チャーミングな手や」
「そう......でしょうか?」
「ケンイチ君。生まれつきの手の大きさや指の長さなんぞで、音楽の優劣は決まらへんよ。大事なのは、自分の手の個性を愛することや」
「愛?」
「自分の手の柔軟性、敏捷性、耐久性 etc――
それらをよう見極めて、自分のハンドパワーを最大に引き出せるような選曲とパフォーマンスを組み立てる。
そこから、ピアニストひとりひとりの個性を活かした音楽づくりが始まるんや♪
ほら、あのショパンかて、ウチより手は小さいけど、ショパンならではのチャーミングな音楽を創りよるやん?」
「たしかに......たしかにそうですね♪ショパンさんも......あっ!」
(しまった!)
「ねこ!ぼく、ねこを追いかけていたんです。ああ、見失っちゃった......!
金色の眼をした、フサフサの白黒ねこ......」
「どしたん」
「じつは、ショパンさんからもらった大事なメモを、そのねこがくわえて逃げちゃったんです」
「そら大変やな。待てよ、金色の眼の白黒ねこやろ? 
ウチの行きつけのレストランに出入りしてるねこかもしれへん。
よければ、今からそのレストランに案内するわ。
ついでに夕飯、一緒にどや? お詫びにごちそうさしてや」
「いえいえそんな! ぶつかったのはぼくのほうなのに」
「ええねん、ええねん。外国人の音楽家同士、困ったときはお互いさまや。 
ごめんやけど、裏通りを通って行くで。ご婦人方に見つかると大変やから♪」
リストはシルクハットを目深に被ると、馬車を一台やり過ごしてから、ひょいと裏通りへ入った。鍵一も足早に付いてゆく。
細い路地裏には月明かりが射して、ふたりの影が長く伸びている。
「ところで、リストさん。きょうは西暦何年の、何月ですか?」
「1838年の5月やがな。だいじょうぶかケンイチ君。時差ボケとちゃうか」
「すみません、今日パリに着いたばかりなので......」
「そらそうや、長旅は疲れるわな。Japonて、太平洋の向こうの遠い国やろ?」
(1838年......! フランスはナポレオン・ボナパルト失脚後、王政復古時代を経て、1830年から七月王政の時代に入っているはず。
一方、日本は江戸時代。凶作による百姓一揆が多発して、幕府は1830年から天保の改革の真っ最中。※11
この世の変革期というのは、遠く離れた国々でも連動するものなのかしら......)
「リストさんは、日本をご存知なんですね」
「何を隠そう、マルコ・ポーロの『東方見聞録』※12は、子供のころのウチの愛読書やからな♪ 
パパに連れられてヨーロッパを旅しながら、馬車の中でよう読んだもんや。
たしか、日本人はみな黄金の竹から生まれて、いずれは羽衣※13を纏って月に還るねやろ? ロマンティックやわあ♪」
(さすがロマン主義の代表選手、リストさん♪ 日本はそういうイメージなのね)※14
「それにしてもケンイチ君は、どうしてパリに来たん?
このパリには、メジャーデビューを夢見て世界中から若手アーティストが集って来てるけど、あんたもそのクチ?」
「いいえそんな、滅相もない......!
ぼくは、この時代のパリにどんな音楽家の方々がいらっしゃるのかを勉強するために、パリへ来たのです。
日本は遠すぎて情報が入ってこないので、いっそ現地で皆様にインタビューをして、情報を集めようと思いまして」
「なるほどな。あんたみたいな勉強熱心な子、ウチは好きやで♪」
「でも、ショパンさんにはうまくインタビュー出来ませんでした。
弟子入りも断られてしまって......ふがいないです」
「あらら。どないしたん?」

「......なるほどな、ようわかった。ショパンらしいわ」
鍵一から事情を聴いたリストは笑って、チョコレートをぱくぱく食べる。
「これはフーシェ(FOUCHER)のショコラ※15やな。王室御用達の上物やで。
きっと、ヅィメルマン先生のサロンでサンドさんが入手しはったんや。
あのサロンは、いろんな意味でゴージャスやから」
(サロン??)
「リストさん、『サロン』って、どういう場所なんですか? 
ショパンさんも、サロンの紹介状について何事か仰っていたんですが、ぼくにはよくわからなくて......」
「さてはあんた、サロン初心者やな? 
それならなおのこと、ウチらのアジトに来るべきやで♪」
「アジト?」
「ウチら外国人の音楽家がパリで成り上がるために結成した、秘密のアジト。
その本拠地が、これから行くレストランや。味付けは濃いけどな。住めば都というとおり、慣れればなかなか美味いもんやで。
この大都会パリで外国人が成功するためには、そういう場が必要なんや。
情報交換したり、グチ言うたりな」
「音楽家の集まるレストラン......!ありがとうございます、ぜひお邪魔させてください。
リストさんって、本当に仏様のような御方ですね......!」
「そんなたいしたもんちゃうわ。パリに居座ってるのかて、ただしぶといだけやねん。
12才のときパリ音楽院に入学拒否されて、それが悔しくてなあ。
絶対パリで成功したろと思って、今に至る」
「リストさんほどの方が、入学拒否されるなんて!一体どうしてですか?」
「ウチがハンガリー出身の、外国人やからや」
「!」
「当時の音楽院長の方針で、外国人の入学は許可されへんかったんや。
フランスの国営組織は、フランス人のためだけに活動すべきや、という考えでな。
ウチも若かったから、ほんまにショックでなあ。神童リスト、初めての挫折」
(名門たるパリ音楽院に、そんな歴史があったなんて......)
「でも今なら、院長先生の考えもわかる。
パリ音楽院は国営組織や。国からお金をもらってる以上、国の利益になるように行動するんは、音楽院長として当たり前のことや。
それに今思うと、入学を断ってもろて、むしろ良かったかもしれへん♪
パリ音楽院という箱に入れへんかったからこそ、ウチはフリーの音楽家として身を立てる決心ができたからな」
「さすがリストさん、ポジティヴですね......!」
「ちなみにさっき、あんたとウチがごっつんこしたとこな。
あれは、パリ音楽院の建物の角や♪」
「リストさんの運命の曲がり角! ぼくにとっては、幸運の曲がり角です♪」
笑い合いながらふたりは、一軒のレストランの前に到着した。
看板は出ていない。小さな窓辺にランプが1つ燈っているだけ。
リストが扉を押し開きながら、鍵一にウインクする。
「『Le Club des étrangers(外国人クラブ)』へようこそ♪」

つづく

◆ 注釈
  • 『Académie royale de musique(パリ・王立オペラ座)』
    1838年当時は『サル・ド・ペルティエ (w:Salle Le Peletier)』という愛称で知られた。
    七月王政(オルレアン朝)の時代であったため、国立(national)ではなく、王立(royale)として運営されていた。
  • legato(レガート)
    音楽用語で『音をつなげて演奏する』の意。
  • appassionato(アパッショナート)
    音楽用語で『情熱的に』の意。
  • ショパン国際ピアノコンクール
  • 牛田 智大先輩(バイオグラフィーインタビュー
    2019年現在、牛田さんは20才。鍵一は18才。
    同じ時代を生きるふたりが、相まみえることはあるのだろうか?
  • pause(ポーズ)
    音楽用語で『休符』の意。
  • dolce(ドルチェ)
    音楽用語で『甘く柔らかに』の意。
  • ラ・シルフィード(La Sylphide)
    『白鳥の湖』『ジゼル』に並ぶ、ロマンティック・バレエの名作。
    当時大成功をおさめたオペラ『悪魔のロベール』がきっかけとなり、制作された。
    初演は1832年3月12日パリ・オペラ座。振付は、マリー・タリオーニの父フィリッポ・タリオーニ。音楽はジャン・マドレーヌ・シュナイツエッフェール。
  • presto(プレスト)
    音楽用語で『きわめて速く』の意。
  • staccato(スタッカート)
    音楽用語で『音を短く切って演奏する』の意。
  • 天保の改革
    江戸時代の天保年間(1830年-1843年)に、幕府財政の立て直しを目的として行われた政治改革。
    主導は老中の水野 忠邦。また、同じ時期に、日本各地の大名家にて藩政改革も行われた。
  • マルコ・ポーロ著『東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』
    13世紀に編纂された旅行記。
    イタリア人のマルコ・ポーロがアジア諸国への航海で見聞きした内容を、
    ルスティケロ・ダ・ピサが編纂したもの。
    『黄金の竹、羽衣で月へ......』のくだりは、リストのロマンティックな間違いである。
  • 羽衣
    羽衣伝説は世界各地に存在する。日本では謡曲『羽衣』が有名。
  • ロマン主義
    18世紀後半~19世紀前半にかけて、ヨーロッパのみならず日本でも流行した思潮。
    芸術分野では、夢・幻想・神秘・オリエンタリズムといった主題が流行した。
    ショパンとリストは、フランスにおけるロマン主義の代表選手。
    なお、日本文学においては、ロマン主義の始まりは森鴎外の『舞姫』とされている。
  • フーシェ(FOUCHER)のショコラ
    1819年パリ創業の老舗洋菓子店。日本では松風屋が提携し、大手デパートにも出店している。
    2019年現在、『惑星チョコ』など新作チョコが東京のOLさんに大人気。

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