第2話 『令和(Beautiful Harmony)♪』
緑の風が吹いている。音の実がきらきらと揺れている。大切なことをささやくように。
次第にその音は高く響き、五線譜はうねり、数々の美しいメロディが絡まりながら吹き抜けてゆく。
思わず手を伸ばした鍵一の指をすり抜けて、それらは遥か未来へ飛び去った……!
鍵一はゆっくりと目をひらく。途端、まぶしさに息を呑んだ。
目の前にそびえ立つ壮麗な建物の天窓に、黄金色の夕焼けが映り込んでいる。テラスから人々の優雅にさんざめく気配がする。頬をなでてゆく夕風に、花と葉巻の薫りが入り混じっている。石段を上って行く紳士淑女を、ドアマンがチョコレート色の扉をひらいて迎えている。その扉の上のアーチのレリーフに、
『Académie royale de musique(パリ・王立オペラ座)』※1
の文字。
ふりむけば噴水が高く吹き上がり、明るい夕空には茜雲が
legato
※2にたなびいている。馬車の行き交う大通りは土埃にかすみ、家路を急ぐ人々の影が賑わしい。
鍵一は呆然と額に手をかざし、ふるえるひざこぞうをたたき、むずむずと小躍りすると、
appassionato
※3でコブシを天へ突き上げた。
(すごいぞ、ここは本物のパリだ! ぼくはパリにワープしてしまった!
……でも、でも、待てよ。おちつけ鍵一。ここは本当に、ぼくの目指して来た19世紀パリかしら)
高鳴る鼓動をおさえて鍵一はオペラ座を振り返り、いつか教科書で学んだ知識を必死に思い起こしながら、その外観を眺めた。
(なるほど、この建物はオペラ座にちがいない。でも、あの有名なガルニエ宮とは明らかに違う。ガルニエ宮のシンボルの、二対の黄金の彫像、『詩情(La Poésie)』と『ハーモニー(L'Harmonie)』が見当たらないし……それに、もしガルニエ宮なら、ファサードに音楽家の胸像が据えてあるはずだ。ロッシーニ、モーツァルト、それにベートーヴェン……も見当たらないな。ガルニエ宮の建設が始まったのは、たしか19世紀後半。ということは……)
手のひらにじわりと汗がにじむのを、鍵一は強く握りしめた。
(B先生。ぼくは本当に、19世紀のパリにワープしてしまったようです……!
よ、よし、まずは、ショパンに会わなくちゃ。フランス語は好きで勉強してきたけれど、うまく通じるかな?21世紀から来た人間だと悟られないように気を付けないと)
すると数台の馬車がつらなって、大通りから広場へと入って来た。馬たちのゆるやかな沓音が噴水の周りをゆっくりと巡って来ると、鍵一の目の前を通り過ぎて、オペラ座の正面に次々停まる。光に満ちたこの夕暮れに、馬車から降りてくる紳士淑女の姿は一様に茜色に染まり、オペラ座の建物の影に入っては白く霞む。ふんわりと石段を上ってゆく乙女たちは、まるで花の妖精のように儚く美しい。
(あの方々はきっと、B先生の仰っていた社交界の皆さまだ。なんて華やかなんだろう。紳士もお洒落だな。あのステッキにきらめいたのは宝石かしら。なるほど、あいさつの時には、シルクハットは脱いで胸に当てるのか)
紳士のしぐさをまねて自分のカンカン帽を取ってみて、ふと鍵一は顔を赤らめた。
(羽織袴にブーツ、手袋、カンカン帽!B先生が『民族衣装こそ最高のお洒落じゃ♪』と言って貸してくださった衣装だけれど、なんというかぼく、浮いてるよね……うん、さっきからこの薔薇の植え込みの端っこで目立たないようにしてるのに、オペラ座のドアマンの人がずっとこっちを見てるし。馬も見てるし。心なしか、テラスからも視線を感じるけれど、うん、気のせいだよね、きっと気のせい……)
鍵一が深呼吸をした、そのとき。
「今夜のオペラ座では、仮装舞踏会は開催されないよ」
おそるおそる、鍵一がふりむくと、蒼い瞳がほほえんでいる。夕暮れの風がブロンドの巻き毛を揺らして、絹の手袋はあくまでも白い。
「ショパン……!フレデリック・ショパン……!」
「おや、僕の名前を知ってくれているのかな」
反射的にうなづいて、しばらくぽかんと鍵一は口をあけていた。
肖像画の中の人が目の前に立っている。
食い入るように眺めていると、自分自身も絵の中に塗りこめられてゆく気がする。大ぶりの刷毛で描かれたような茜雲が、たなびいたまま静止している。あらゆる音が油彩絵具に練り合わされて、噴水の白いきらめきと、馬車の赤褐色の影との対比になる。……
すると蒼い瞳が、ゆっくりとまばたきをした。鍵一は我に返った。途端、19世紀の音がなだれ込んでくる。馬のいななき。樹々のざわめき。開演前のオペラ座の華やぎ。つられてくちびるから言葉があふれだした。
「もちろん存じ上げています……!1810年ポーランド生まれ、ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンでの演奏活動を経てパリ・デビュー、『ピアノの詩人』こと、フレデリック・ショパンさんですよね!ぼくもピアニストの卵なので、ショパンさんは神様のような存在なんです。子どもの頃からあなたの曲に憧れてきましたし、ショパン国際ピアノコンクール※4は毎回……あッ、いえッ、お会いできて光栄ですッ」
夢中で鍵一が言いつのると、この19世紀パリ社交界の花形は目をほそめて頷いた。
「それはどうもありがとう。7年前に初めてこの地を踏んだときには、パリの人々に僕の音楽をここまで理解してもらえるとは、思ってもみなかったけれどね。運命とはふしぎなものだよ。
……さて、きみは?」
「はいッ……」
(ピアノの音がする。この人の言葉は、この人の創り出した音楽と同じだ。歌うような、優美な響き……)
鍵一もつとめて相手の言葉をまねて話そうとして、しかし意思に反して激しく吃った、
「にッ、日本から音楽の勉強に来た、鍵一と申します」
「日本……?」
相手の怪訝なまなざしを受けて、焦る鍵一の脳裏に彗星がひらめく。
(そうか、ここは19世紀……日本はまだ鎖国をしているから、ヨーロッパの人たちは日本のことをよく知らないんだな)
「あの、ショパンさん。日本というのは、太平洋の東の果ての島国です。文化芸術の薫りの豊かさでは、フランスやポーランドにも負けていません。時代を象徴する元号は『令和(Reiwa)』、『美しい調和(Belle Harmonie)』という意味です」
「『美しい調和』……なるほど」
折しも今、西の方角では黄金色の夕焼けと群青色の夜空とが入り混じって、美しい調和をなしている。
ショパンはしばらく彼方を眺めると、やがて謎めいたほほえみを浮かべて鍵一のほうをふりむいた。
「いいね。よき音楽家を輩出しそうな国だ。きみもいつか、『楽聖』と呼ばれる日が来るのかな」
「えッ、『楽聖』? はいッ、ありがとうございます」
「それで?」
「?」
「ケンイチ君、きみは何の仮装をしているの?」
「えッ?いいえ、あの」
「きみがあまりに奇妙な格好をしているものだから、オペラ座の紳士淑女の皆さまの注目の的だよ。まだ子供みたいだし、かわいそうだから、僕が忠告に来てあげた。今夜のオペラ座では仮装舞踏会は開催されないよ、わかったら暗くならないうちにお帰り、ってね」
「お、お、お言葉ですが」
耳たぶに火が付く。額から汗が噴きだす。記憶の底から掴みだした言葉を、鍵一は必死につなぎあわせた、
「仮装じゃありません!これはキモノといって、日本の伝統的な民族衣装なんです。民族衣装こそ、最高のお洒落かと思いまして」
「そうなの?フフ、きみのお洒落をよく見せておくれ。おや、上等のシルクだねえ。このカフスはなぜこう四角い形なのかな。襟元が寒そうだけど大丈夫?パリの夜は冷えるよ」
「よしてください、ぼくは」
……と、ふいにショパンの目が見ひらかれた。
「きみ……この手袋は?教えてくれないか、この手袋をどこで手に入れた?」
「手袋、ですか?ええと、これは」
面食らいながら鍵一は、とっさに考えを巡らせた。
(B先生が貸して下さったこの手袋、確かに美しいものだけれど、ショパンがこんなに真剣に興味を示すなんて!……待てよ、これはチャンスかも)※5
「い……いいですよ、教えます。ただし、条件があります」
「金か」
「いいえ」
「サロンへの紹介状?」
「いいえ」
ショパンはすらりと腕組みをして、訝しげに鍵一を見つめている。
(お金は必要だし、サロン……についてはよく分からないけれど。せっかく会えたからには、あれをお願いするしかない)
鍵一は深く息を吸うと、思いきり頭を下げた。
「ぼくをあなたの、弟子にしてください……!」
pause
※6。
さざ波のような笑い声がすこしずつ広がり、やがてオペラ座の広場いっぱいに満ちた。そっと鍵一が顔を上げると、ショパンは天を仰いで大笑いしている。
「あ、あの、ショパンさん?」
「弟子入りの志願者はたくさん見てきたけれど、きみみたいな子は初めてだ。サロンへの紹介状が要らないだって?手袋の情報と引き換えに弟子入り?……フフ、つくづく、パリは面白い街だ。きみみたいな型破りな子に会うのが楽しくて、僕はパリを離れられない。
いいよ、弟子にしてあげよう」
「えッ、本当ですか」
「ただし、最初の一回だけね。一回だけ、レッスン料を免除してあげる。二回目以降は、他の弟子と同じように支払ってもらうよ。僕のレッスンは、一回につき二十フラン。それが払えないならお断り」
(二十フラン!たしか聞いたことがあるぞ、ショパンのレッスンは、日本円にして一回約五万円だったって……!でもぼく、お金も持っていないし、19世紀パリで稼げるかどうかもわからない)
「せっかくですが、継続的にレッスンしていただけないのなら、手袋のことは教えられません……!」
「フフ、じゃ、弟子入りの話も無しだね」
「そ、それは……」
そのとき一台のひときわ豪華な馬車が、夕闇をギャロップで駆けて来るや二人の傍に停まった。「失敬」とショパンは鍵一へ目配せして、馬車の中へと手を差し伸べる。困惑しながらも鍵一は、ステップをゆっくりと降りてくる美しい婦人に、目を奪われた。
(この人の肖像画を見た事がある。ショパンの年上の恋人、作家のジョルジュ・サンドだ……!)
その瞳は黒曜石のように強い輝きを放ち、紅いくちびるはユーモアを湛えて、この19世紀パリの何者よりも堂々と存在していた。漆黒のドレスと艶やかな黒髪は、夕闇の中でも際立って美しい。
「お待たせ、フレデリック。今日はなんだか嬉しそうね」
「あたらしいお友達と楽しい時間を過ごしてたから、退屈しなかったよ」
「あら、可愛いボウヤ。中国人?」
「紹介するよ。今夜のオペラ座の公演を仮装舞踏会と勘違いして来ちゃった、日本人のケンイチ君」
「ち、違いますッ、ぼくはその、あの」
「うちのフレデリックがごめんなさいね。私に免じて、今日のところは許してあげて」
ジョルジュ・サンドは鍵一に近づくと、うすむらさき色のハンカチの包みを、鍵一の手のひらへそっと載せた。
「うらやましいわ」
と、まろやかな声が
dolce
※7でささやく。
「人見知りのフレデリックが、自分から声をかけるなんて。あなた、彼に相当気に入られているのね」
「そ……うなんですか?」
♪19世紀ロマンティック・バレエの名作 ラ・シルフィード(La Sylphide)※8
「もうすぐ開演だ。じゃ、ケンイチ君。楽しい時間をありがとう」
「待ってください、ショパンさん!……ぼく、何度でもあなたに会いに来ます。ぼくには大切なミッションがありますので、このまま日本に帰るわけにはゆかないんです……!」
ショパンは足を止めてふりむくと、鍵一をじっと見つめた。そしておもむろに、懐から五線紙と鉛筆を取り出すと、何事かを書いて鍵一へ示した。走り寄って鍵一が受け取ると、そのメッセージは夕闇に溶けてよく見えない。
「手袋の秘密について話す気になったら、その場所へ来たまえ。また会おう、ケンイチ」
「ショパンさん……!」
石段を上ってゆくふたりの後ろ姿は、夕陽の最後の光を受けて、遠く未来のオペラ座・ガルニエ宮のシンボル、二対の黄金の彫像の印象と深く結びついた。……
夜風に乗って、オペラ座の華やかな光が19世紀パリの街へと吹き流れてゆく。
ガックリとひざから力が抜けて、鍵一は石段にしりもちをついた。
(ああ、頭がクラクラする!ぼくは夢を見ているのかしら?さっきまで目の前にいたのは、ショパンとジョルジュ・サンドの幻なのかしら……)
呆然と夜空を眺めて、ふと、ジョルジュ・サンドのくれた包みが気になる。結び目をほどいてみれば、ハート型のハンカチに『フーシェ(FOUCHER)』の刻印のチョコレート。溜息とともに、鍵一の口の中に薔薇の薫りが広がった。
(それにしてもショパンは、五線紙に何を書いてくれたんだろう?)
鍵一はそのメッセージを星明りに透かし見ようとして、ところが涼しく吹き寄せた夜風が、五線紙をたちまち攫って行った……!
(しまったッ)
慌てて手を伸ばす鍵一の鼻先を何かが横っ跳びにかすめて、空中で五線紙をキャッチする。しなやかに着地したそれは、ふわりとしっぽを揺らした。
(猫……?)
いかにも猫であった。つまさきの白い、しっぽのフサフサした猫が五線紙をくわえて、
『これは吾輩の獲物である。証拠はまだニャい』
と言わんばかりに落ち着き払って、金色の眼で鍵一を見つめている。
「猫、返しておくれ。それはショパンさんから頂いた大事なものなんだ」
鍵一が近づくと、猫はひょいと跳び退る。焦る鍵一が「やっ」と飛びかかれば、猫はひらりと身をかわしてそのまま、全速力で走り出した!
「まッ、待て猫、猫猫!」
猫速い。猫速い。生け垣を突っ切り、ぬかるみをかろやかに飛びこえ、19世紀パリの夜を駆け抜けてゆく。こけつまろびつ追う鍵一が、街灯にすねをぶつけ、ぬかるみに足を突っ込み、つんのめっては人にぶつかりそうに息せききって走る走る。猫に続いて
presto
※9で建物の角を曲がろうとして、鍵一は誰かにぶつかッた拍子にスッ転んだ……!
「あいたた……す、すみません!」
「あいたたた……ウチときたらほんまに、音楽院に近づくとアクシデントが多いわ。あんた、大丈夫?」
「はいッ、音楽院……?ッて、あなたはもしや……!」
その大きな手につかまって立ち上がりながら、鍵一には相手に後光が射しているように見えた。
「リストさん……リストさんじゃありませんか!1811年ハンガリー生まれ、8才でプロ・デビュー、11才でウィーン音楽院に入学、12才でベートーヴェンに演奏を披露、以来ヨーロッパ各地で大活躍のスーパースター、フランツ・リストさん!」
「はい、そやけど。あんたは?」
(すごいぞ!ショパンとリスト、まさかこの二大ピアニストに、19世紀パリ初日に出会えるなんて)
鍵一は転んだ痛みも忘れて、「ファンです!」心の湧き立つまま勢いよく両手を差し出した。リストは笑って、気楽に握手してくれる。
「ついに男の子にまでモテてしもた。ウチのこと、よう知ってくれてるねんな」
「もちろん存じ上げております!『ピアノの魔術師』あるいは『鍵盤の王者』もしくは『交響詩の創始者』こと、フランツ・リストさんといえば、ピアノを学ぶ世界中の人々の憧れですから」
「おおきに、おおきに。あんたもピアノ弾くんやね」
「えッ?」
「手を見ればわかる。フシがふとい。指先がひらたい。爪が短い」
鍵一は急に恥ずかしくなって、手を隠した。
「たいした手じゃありません」
「中国人かな。名前は?」
「日本から来ました、ピアニストの卵の鍵一と申します。日本人としては指が長いほうなんですが……リストさんに比べると、まるで子供の手ですね、お恥ずかしいです」
「ええやんか。賢そうで、チャーミングな手や」
「そう……でしょうか?」
「ケンイチ君。生まれつきの手の大きさや指の長さなんぞで、音楽の優劣は決まらへんよ。大事なのは、自分の手の個性を愛することや」
うなづきながら、鍵一はフランツ・リストの言葉を注意深く聴いていた。この音楽家の話す言葉はフランス語というよりは、なにかこの人独特の言語のように思われた。
(でも、わかりやすい。心にまっすぐ届いてくる……)
「自分の手の柔軟性、敏捷性、そして耐久性。それらをよう見極めて、自分のハンドパワーを最大限に引き出せるような選曲とパフォーマンスを組み立てる。そこから、ピアニストひとりひとりの個性を活かした音楽づくりが始まるんや。ほら、あのショパンかて、ウチより手は小さいけど、ショパンならではのチャーミングな音楽を創りよるやん?」
「確かにそうですね。ショパンさんも……あッ、しまった!」
「どないしたん」
「じつはさっき、オペラ座の前でショパンさんにお会いしたんです。ぼくのこの民族衣装を仮装だとからかわれたり、なんだか散々だったんですけれど。最後に、ショパンさんが五線紙に何かを書き付けて、ぼくに下さったんです」
「あの気難しいショパンが、初対面のあんたにそないな事を?……で、なんやったん。その書き付けというのんは」
「それが、通りすがりの猫に取られちゃって」
「ム?」
「通りすがりの猫に取られちゃったんです」
「五線紙がサーモンで出来てたんか?」
「わかりません。とにかく猫がその五線紙をくわえて逃げてしまって。金色の眼の、つまさきの白い、フサフサの猫。ついさっきまで追いかけていたんですけど、見失っちゃって」
「そら大変やな。待てよ。金色の眼の、つまさきの白い、フサフサの猫やろ?ウチの行きつけのレストランに出入りしてる猫かもしれへん。
よければ、今からそのレストランに案内するわ。ついでに夕食、一緒にどや?ぶつかってしもたお詫びに、ごちそうさしてえや」
「えッ……いいんですか?」
「ええねん、ええねん。外国人の音楽家同士、困ったときはお互いさまや。ごめんやけど、裏道を通って行くで。ご婦人方に見つかると大変やから」
リストはシルクハットを目深に被ると、馬車を一台やり過ごしてから裏通りへ入った。はやる気持ちをおさえて、鍵一も足早に付いてゆく。細い路地裏には月明かりが射して、ふたりの影が長く伸びている。夜風に額をさらして歩きながら鍵一は、ようやく頭のなかが落ち着いて来るのを感じていた。
「あの、リストさん。今日は西暦何年の、何月でしたっけ?」
「1838年の4月やで。だいじょうぶかケンイチ君。時差ボケとちゃうか」
「1838年!よかった……すみません、今日パリに着いたばかりなので」
「そらそうや、長旅は疲れるわな。日本て、海の向こうの遠い国やろ?」
「リストさんは、日本をご存知なんですね」
「何を隠そう、マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、ウチの愛読書やからな。子供のころ、ヨーロッパじゅうを旅しながら、よう読んだもんや。たしか、日本人はみな黄金の竹から生まれて、いずれは羽衣を纏って月に還るねやろ?ロマンティックやわ」
(うーむ、ロマン主義の時代らしい勘違い♪)
「それにしてもケンイチ君は、どうしてパリに来たん?このパリには、メジャーデビューを夢見て世界中から若手の音楽家が集って来るけど、あんたもそのクチ?」
「いいえそんな、滅相もない……!ぼくは、パリにどんな音楽家の方がいらっしゃるのかを知りたくて、こちらへやって来たのです。音楽家の皆さまにインタビューをして、いろいろとお伺いできれば幸いです」
「なるほどな。それならなおのこと、『外国人クラブ』に来るべきやで」
「『外国人クラブ』?」
「これから行くレストランや。ウチら外国人の音楽家がパリで成功するために結成した、秘密のアジトの本拠地」
「音楽家の方々の集まるレストランなのですね。ぜひ、お邪魔させてください。リストさんって、仏様のように優しい御方ですね……!」
「さアて、どうやろね。ご婦人方に悪魔となじられる日もある」
「へ、へえ……?あッ、ところでリストさん。さっき、音楽院について何か仰っていませんでしたか?『音楽院に近づくとアクシデントが多い』って」
「せやねん。さっき、ケンイチ君とウチがごっつんこしたとこな。あれは、パリ音楽院の建物の角や。12才のときにウチが入学拒否されてしもた、パリ音楽院」
「リストさんほどの方が、音楽院に入学拒否されるなんて。一体どうしてですか?」
「ウチがハンガリー出身の、外国人やからや。当時は院長の方針で、外国人の入学は許可されへんかった。フランスの国営組織は、フランス人のためだけに活動すべきや、という考えでな。ウチもまだ子供やったから、ほんまにショックでなあ。神童リスト、初めての挫折」
「パリ音楽院とリストさんに、そんな歴史があったのですね」
「でも今思えば、入学を断ってもろて、むしろ良かったかもしれへん。パリ音楽院に入学できひんかったからこそ、ウチはフリーの音楽家として身を立てる決心が出来たからな。それに、今回ケンイチ君とごっつんこしたのは嬉しいアクシデントやったから、昔のことは帳消しや」
「さすがリストさん、ポジティヴですね!やっぱり仏様だ」
笑い合いながらふたりが路地の角を曲がると、一軒のレストランが現れた。小さな窓辺にランプが一つ。看板は出ていない。
「さて、ケンイチ君。『外国人クラブ』へようこそ♪」
つづく
1838年当時は『サル・ド・ペルティエ (w:Salle Le Peletier)』という愛称で知られた。
七月王政(オルレアン朝)の時代であったため、国立(national)ではなく、王立(royale)として運営されていた。
音楽用語で『音をつなげて演奏する』の意。
音楽用語で『情熱的に』の意。
第1話『運命は、かくのごとく扉をたたく♪』をご参照ください。
音楽用語で『休符』の意。
音楽用語で『甘く柔らかに』の意。
『白鳥の湖』『ジゼル』に並ぶ、ロマンティック・バレエの名作。
当時大成功をおさめたオペラ『悪魔のロベール』がきっかけとなり、制作された。
初演は1832年3月12日パリ・オペラ座。振付は、マリー・タリオーニの父フィリッポ・タリオーニ。音楽はジャン・マドレーヌ・シュナイツエッフェール。
音楽用語で『きわめて速く』の意。