ピティナ調査・研究

第15話『橋守♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳の新星ピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、1838年のパリへとワープする。サロン・デビューをめざす最中、ひょんな事から画家ドラクロワ&音楽家ベルリオーズ&相棒猫フェルマータとともに、19世紀ウィーンへワープしてしまい……!?
橋守♪

♪ ベートーヴェン作曲:ソナタ 第14番 「月光」 Op.27-2 嬰ハ短調

青ざめながら鍵一は、チェルニー氏の顔をできるだけ視界に入れないように、猫背になって弾いていた。
(リストさんに師事しています、だなんて言わなけりゃよかった)
鍵一は心の底から悔やんでいた。ひどい演奏だった。鍵一の胸にたゆたう月光の静けさを、肌に沁み込んだ幻想の夜の色を、鍵一の指はなにひとつ表現することが出来なかった。己の内に在るものを表現しようとすればするほど、テンポは乱れ、フレージングは破れ絡まり、いったい何の曲を弾いているのか、鍵一自身にもよくわからなくなってきた。
(あの時のほうがまだマシだった、半年前、19世紀パリにワープして来た初日に『外国人クラブ』で演奏したときのほうが……!)
鍵一は con malinconia ※1にくちびるを噛みしめる。とにかく早く弾き終えてしまいたかった。
(今思い出しても顔から火が出るほど恥ずかしい、あの稚拙な試み……『吾輩は猫である』のパロディ!あの時のぼくは無我夢中で、『猫のワルツ』をメチャクチャに突っ切って弾いた……それでも、今よりは100倍ましだ)※2
鍵盤を這いまわる自分のひょろ長い指先がしらじらと冷えてくるのを、鍵一は呆然と眺めてふと、
(アスパラガス)
と思う。春先に出回る、白いアスパラガス。B氏の得意料理(通称『B級グルメ』)・カートッフェルズッペ※3の具材としてよく用いられた。スープに半ば沈み、半ば浮き出た筏のような、そのたよりない白さを思い浮かべた途端、鍵一の指は鍵盤を踏み外した。とんでもない不協和音が響き渡る。暖炉の火が笑った。
(だめだ。これ以上お聞かせするのも申し訳ない)
3楽章の冒頭で鍵一の指が止まりかけたのを、
「続けたまえ」
鋭い声が飛ぶ。びくりと鍵一が振り向くと、チェルニー氏は穏やかに鍵一を見つめている。その膝で、猫のフェルマータがしっぽをフワリと揺らした。
「弾き続けなさい。きみがひとたび舞台に上ったなら、誰もきみを助けることはできないよ。さあ。続きを」
(ぼくはあと何年……)
つんのめりながら鍵一は弾き続けた。
(あと何十年、こうしてピアノを弾き続けるんだろう)
毛糸玉がコロコロと鍵一の足元に転がってくる。鍵一は弾き続けた。猫たちが毛糸を追ってヒョンと跳んでくる。鍵一は弾き続けた。ペダルを踏む鍵一の足首を猫たちがフサリと取り巻き、鳴き交わしながらじゃれあっている。鍵一は弾き続けた。

「ケンイチ君。きみはすでに、ピアニストに必要な資質を備えているね。天国でベートーヴェン先生も喜んでいらっしゃるだろう」
絨毯にぺたりと座り込んだまま、鍵一は耳を疑った。チェルニー氏はフェルマータに煮干しを食べさせてやりながら、悠々と微笑んでいる。
「でもチェルニー先生、ぼくは……」
「生徒の本質を見極めるのが教師のつとめだ」
と、大きな指が煮干しをつまんでは、寄って来た猫たちへ順々に与える。
「きみの演奏は清潔だ。ひとつひとつの音に誠実であろうとする姿勢がいい。技術的には相当な訓練を積んでいるね。いくつかの難点は、今後の鍛錬で充分に補えるものだ。
……ただし」
鍵一はちからなく首を垂れた。『ただし』の先に来る言葉を想像すればするほど、喉の奥に氷の玉のつかえたような心地がする。『ただし、音楽の道はあきらめたほうがいい』?『ただし、きみにはパリのサロン・デビューは無理だろう』……?
ところがチェルニー氏はこう続けた、
「きみの備えている資質は、芸術本来の目的の『手段』に過ぎない。……わかるね?」
ケンイチはたっぷり三拍ほど沈黙した。……それから半拍のちには、耳を真っ赤にして恥じた。猫たちを背中に乗せ、煮干しの缶を抱えたこのウィーンの大音楽家の精神は、はるか高みを飛んでいた。
「『芸術の真の目的とは、』」
鍵一は赤面しながら、ゆっくりと記憶を読み上げる。子供のころから毎日使い古してぼろぼろになった(時にはその表紙を見るのも嫌になった)チェルニー教則本の一文が、あざやかに鍵一の胸へ鳴り響いていた。
「『演奏に精神と魂を吹き込み、聴き手の情緒と理性を揺さぶること』……」
「そのとおり。音楽とは、聴き手をより善い方向へ変化させるものだと私は思う。しかるに我々音楽家は、己の魂を磨き続けねばならん」
(我々音楽家)
と、鍵一は口の中でくりかえした。『我々』。その言葉は夜に燈る月灯りのように、真っ直ぐに鍵一の心を導いた。

「きみにひとつ、贈り物をしよう」
猫たちに煮干しをやってしまうと、チェルニー氏は書物机から楽譜の束を出した。うち一枚を選び出すと、真珠貝のペーパーナイフをつかって、楽譜の一部を丁寧に切り取る。チェルニー氏が手を動かすたびに、真珠貝の表面に暖炉の火が映じてきらきらした。やがて8小節ほどの楽譜の紙片が鍵一に手渡された。
「このフレーズを元に、変奏曲を創ってみなさい」
「これは……?」
「『夢の浮橋』という、幻の名曲の一部だ」
そのフレーズは五線譜に美しい弧を描いて、中空へ飛び出さんばかりに活き活きとたなびいている。鍵一の手が震えた。
(ショパンさんがくれた謎のキーワード『夢の浮橋』※4は、この曲の名前だったのか……!)
「チェルニー先生、教えてください。これはどういった曲なのですか?」
「かつて私がベートーヴェン先生から引き継がれた曲の一部だよ。ベートーヴェン先生も、さる御方から引き継がれたそうだ」
「その、お手元にあるものが総譜ですか……?」
「いや」
チェルニー氏は分厚い楽譜の束をぱらぱらとめくってみせて、愉快そうに微笑んだ。
「これは一部のパートのみだ。総譜はまるで天の川のように巨大で、一人の音楽家に御しきれるものではない。次世代へ密かに受け継ぐべきこの曲を、私は数人の仲間と分け持つことにした」
「ショパンさんですか?チェルニー先生が『夢の浮橋』を分け持っていらっしゃる仲間というのは」
前のめりに尋ねる鍵一を、相手は「ぜひ直接に尋ねてみたまえ」やわらかく避けて楽譜を仕舞った。
「音楽家同士の事だ。彼がきみを信頼していれば、教えてくれるだろう」
(あのときショパンさんは、ぼくの嵌めていた白絹の手袋を見て仰った、『手袋の秘密について話す気になったら、夢の浮橋へ来たまえ』と……。あれはB先生が貸してくださった手袋。幻の名曲『夢の浮橋』と、一体どんな関係が……?)
鍵一は幻の名曲の断片をじっと眺めた。謎は解けるどころか、猫の遊ぶ毛糸玉のように、ますます複雑に絡まってゆくように思われる。
「いわば、私は『橋守』だ」
チェルニー氏はふたたび気楽に長椅子に腰掛けると、まどろむフェルマータの猫背をやさしく撫でた。
「私は『夢の浮橋』の煌めきを少しずつ掬い取っては、若い音楽家たちに渡しているのだよ。多くの音楽家がこの曲を後世に受け継いでくれるように、と願いながら。……ケンイチ君。私の教えを求めて来たならば、きみも『夢の浮橋』の継承者のひとりだ。まずは、このフレーズを元に変奏曲を創ってごらん」
「作曲……ですか」
「苦手かね?」
鍵一が答えるまでもなかった。チェルニー氏は眼鏡の奥からすべてを見透かしていた。窓の外で、夜の鳥がホウと鳴いた。

つづく

◆ おまけ
  • ※0 橋守
    橋の守護職。古くは『古今和歌集』収録の和歌にも詠まれました。