ピティナ調査・研究

第50話『B級リベラルアーツ♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年の京都へワープした鍵一は、駅構内のピアノで即興演奏を披露する。山深き貴船の叔父の家に到着すると、日はすっかり暮れていた。
B級リベラルアーツ♪

1. 計画を立てる
2. 毎日一歩ずつ前に進む
3. 博学になる

日付は鍵一が5歳の年であった。タイム・カプセルのような五線紙を、コタツの上に広げてみる。筆圧の濃い字を眺めていると、この『プロフェッショナルになるためのB級3ヶ条』を書いたときの感触がよみがえってきた。……『21世紀の楽聖』こと、プロフェッサー・B氏のレッスンルームには、どっしりとした一枚板のテーブルが在った。物を書くときは師と並んで座った。艶々としたテーブルの表面に五線紙をのせると書き味がなめらかで、途端に字が巧くなった気がした。
(あの美しいテーブルは……もしかすると、19世紀で弾いたプレイエルのピアノと同じく、ローズウッドから造られていたのかもしれない)※2
馨しい木材の思い出は、時空を Adagio ※3に溶かして、鍵一の脳裏にマーブル模様を描いた。B氏のレッスンルームのテーブル。19世紀パリでようやく弾き慣れた、プレイエルのピアノ。B氏の邸宅に隣接する薔薇の庭。薔薇のジャムを練り込んだ19世紀のチョコレート。旅先のジョルジュ・サンドから贈られた、ローズウッドの栞※4。……

「なかなかおもしろいもんだなア」
にわかに響きを増した薫りは、さて、叔父の声に遮られた。部外者の気楽な手つきで、叔父は五線紙を雪見障子へかざし見た。
「B先生の『プロフェッショナルになるための3ヶ条』。第1条『計画を立てる』、第2条は……毎日一歩ずつ前に進む』?」
「探究したいジャンルに、毎日すこしずつでよいから継続してふれるように、という教えです。ぼくの場合は『吾輩は猫である』を読み進めることと、ピアノにふれることでした。B先生いわく、文字どおり『毎日一歩ずつ』でよいそうです。物語に出てきた熟語の意味を1つだけ調べる。1つの調だけ音階練習をする。1つでよいから音楽記号の意味を覚える。など、など……。そうした日々の積み重ねが未来を照らすのだと、B先生がよく仰っていました」
「未来を照らす光、か……フム!それから第3条、『博学になる』?」
「当時は『博学』という言葉の意味が、あんまり呑み込めていませんでしたが……今思えば、いろんなことを教えていただいたと思います。『吾輩は猫である』を読み進めながら……たとえば測量です」
「測量?」
「『吾輩』なる猫が日課の運動で、竹垣の上を歩くシーンがあるんです。ご主人の苦沙弥(くしゃみ)先生のお宅の庭が、竹垣で四角に仕切られていて。縁側と平行している長辺は八九間……短辺は四間ほど。『間(けん)』という単位がわからなくてB先生に尋ねたら、明治時代の測量単位について教えてくださいました。1間は6尺、約1.82メートルのことなんですね。メジャーを持ってB先生と庭へ出て、『吾輩』の歩いた竹垣の長さを再現しました。ぼくの足だとすぐ一周できてしまいますが、猫の足だと確かに『運動』だなと思ったのを覚えてます」
クシャッとくしゃみをして、鍵一は笑ってしまった。春の庭を踏んだときの、若草色のやわらかな感触を足の裏に思い出していた。
「地球儀で遊んだこともありました。『吾輩は猫である』に出て来るイタリア・ルネサンス時代の画家の……アンドレア・デル・サルトと同時代の地球儀を、B先生が持っていらして。現存する一番古いタイプの地球儀※5だそうです。現代の地球儀を隣に並べて、どこが違うかを当てるゲームをしました。15世紀の地球儀には、まだアメリカ大陸が描かれていないんですよね。マルコ・ポーロの『東方見聞録』を参考に造られたので、日本は『黄金の国ジパング』として、東の果てに小さく描かれていました」
「フムフム、フム」
叔父は何度もうなづきながら火鉢の傍へ寄った。火箸で炭の小さく砕けたのをつまんで、ピラミッドのように器用に積み上げて、それから顔を上げた。
「なア鍵一。B先生はおまえに、リベラルアーツに基づいた教育をしてたんじゃないか」
「リベラルアーツ……?」
「人間を真の意味で自由にするための学問。古代ギリシャ哲学を源流としてなみなみとヨーロッパを浸し続けた『教養』の概念。文科系3科目、理科系4科目の計7科目。
中世ヨーロッパの大学では必修の教養科目だった。だから当時は、博学の人が多いんだな。俺の感覚では、その『教養』の概念てのは19世紀半ばにいちど引いて、19世紀末にまたグワッと盛り返した印象。
なぜかッて産業革命以後はイギリスを中心に、ヨーロッパ全土へ工業製の粗悪品が大量に出回って、人間の思考も分業型・量産型・歯車型に振り切れたからね。その揺り戻しで19世紀末には中世の手仕事へ回帰しはじめた。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動※6とかさ。生活に根ざした芸術。あるいは芸術に根ざした生活。そのあたりの美術品にふれると、リベラルアーツへの回帰や古代ギリシャへの憧れが、きわめていびつな形で見られることがある。可愛いんだよな、その時期のぎこちなさというか。手探りの佇まいが」
(たしかに19世紀のみなさんは博学だった)
身内のおしゃべりを聞き流して、鍵一は19世紀パリで出会った芸術家たちの顔を思い起こしていた。
(レストラン『外国人クラブ』に集っては、みなさんいろいろなジャンルの話をされていた。人間を真の意味で自由にするための学問……リベラルアーツが、あの食事中の会話や、日々創り出される作品に活きていたとすると……)

鍵一の思案をよそに、叔父は箪笥の上からカレンダー(まだ前年のものであった)を取って来た。ぺろりと数枚をめくると、「これだ、これ」と、7月の絵柄をコタツの上へ広げてみせる。
「これは12世紀に描かれたリベラルアーツの図解。尼僧院長のランツベルクが書いた『歓楽の庭』(Hortus deliciarum)という本の挿絵だそうだから、若い修道女向けの教科書だったんだな」※7
「情報量の多い絵ですね……!」
「哲学と7科目が擬人化されてるんだ……ほら、哲学は最高位の学問だから、冠を被った女王だ。女王をぐるりと囲む美女たちが、哲学に従属する7つの科目。真上から時計回りに、文法、修辞学、弁論術、音楽、数学、幾何学、天文学」
「『音楽』が弾いているのはハープの一種ですね?」
「楽器演奏は古代ギリシャ人の嗜みだからな。古代ギリシャ美術の鑑定をしてると、リラを弾く像なんてのがごろごろ出て来る。
そういや、こないだ俺のところに持ち込まれたタナグラ人形※8の団体御一行様はおもしろかった。プラトンのアカデミア※9の様子をあらわしたシリーズ。だからタナグラには珍しく、ぜんぶ青年像。身体を鍛え、饗宴に臨み、議論し、質素な食事を楽しみ、詩を歌い、楽器を弾く。アテネの青年のあるべき姿だ。
まア、鑑定したところ、そいつは古代ギリシャ時代のタナグラじゃなくて、タナグラが流行った19世紀にパリで造られた模造品だった。二束三文で買って馴染みの古道具屋に卸したよ。それでも大金を積んで手に入れたいッていうタナグラ蒐集家はいるからね。あれなら一体三百万円は下らんだろうな。古道具屋と俺で折半。へへへへ、安く買って高く売る。これが商売の基本だよ」
「このふたりは誰ですか」
鍵一は女王(哲学)の足元で読書している人物画を指さして尋ねた。叔父が想定したよりもよほど強く、鍵一はこの絵に惹かれていた。
「左がソクラテス、右がプラトン。古代ギリシャを代表する賢人だな。ふたりとも多かれ少なかれ、先人のピタゴラスの足跡を踏んでる」
「えッ」
「なんだ」
「いいえ……あの、ピタゴラスは相当古い時代の人なのですね」
「古いなんてもんじゃないよ、おまえ。紀元前6世紀だよ。古代ギリシャ哲学年表の1ページ目に名前の載る人だよ。まア、伝説の類ばかりで実像はつかみづらいけどな。古美術商泣かせの謎多き御人だ」
曖昧にうなづいて鍵一は、その謎めいた人の体温を間近に感じた。
(ピタゴラス……!ぼくの行く手にはいつもピタゴラスの姿が見え隠れするんだ。ヒラーさんもエラールさんも、幻の名曲『夢の浮橋』の起源は、ピタゴラスの提唱した『天球音楽説』じゃないかと仰っていた……)※10

♪ヨーゼフ・シュトラウス作曲:天体の音楽

折しもブラウン管テレビの中では元旦恒例、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団・ニューイヤーコンサート※11の曲目が、『天体の音楽』に変わった。甘く揺らぎ、輝いて透きとおり、画面からゆるやかな曲線を描き出した黄金色のワルツに、鍵一は見入った。

「それにしても」と、叔父は笑って、食後の菓子のために湯を沸かし始めた。
「『計画を立てること』を3ヶ条のひとつめに入れたわりには、パリへの音楽留学は無計画じゃないか。B先生もおまえも。親にも俺にも何の相談もなしに急に留学を決行してさ、あれやこれや事後報告で」
鋭いことを言った。鍵一は肩をすくめて、「たしかにそうですよね」と、ひらがなをならべてコタツにもぐりこむほかない。
(昨年の……あの春の日。ぼくは迷子の子猫だった)※12
あの日、B氏のレッスンをやめてから7年の月日が経過していた。目標としていたコンクールでは優勝を果たした。途端、鍵一は進むべき方角を見失ってしまった。慌てて手に取った小説は、哲学書は、自然科学の図鑑は、かすかな喜びを与えてくれたものの、羅針盤には程遠かった。無限にひろがる知の大海が、却って鍵一を戸惑わせた。
気づけば電車に飛び乗っていた。車窓が田園風景に変わりつつあるのを呆然と眺めていた。麓のバス停でバスを待ちきれずに、若草の斜面を Prestissimo ※13で駆け上った。洋館3階のレッスンルームの扉を叩いた先に、ひとすじの光が見えた。鍵一は衝動的に、師の提案に乗ったのだった。
(でも、B先生がぼくを19世紀パリへ送り出したのは、前々から計画されていた事なのかもしれない。あの『三種の神器』※14だって、あらかじめ用意されていたみたいだった……)
師から贈られた箱一杯の作曲資料※15と、かつての愛読書『吾輩は猫である』を見比べながら、鍵一はそう思わずにはいられなかった。

つづく

◆ おまけ