第49話『プロフェッショナルになるためのB級3ヶ条♪』
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年の京都へワープした鍵一は、駅構内のピアノで即興演奏を披露する。山深き貴船の叔父の家に到着すると、日はすっかり暮れていた。
夏目漱石著、『吾輩は猫である』。
思わず「なつかしい……!」と声を上げた鍵一を、叔父はおもしろそうに見た。
「うちの本棚に挟まってた」
「むかしB先生がくださった本です、どうしてここに」
「やっぱり、おまえが忘れて行ったんだなア、最後にうちへ来た時。小学校の最後の夏休みだったかな」
「そうですね、B先生のレッスンに通っていたころは、ずっとこの本を携えていましたから……」
笑ってその表紙に指をすべらせたとき、ひらめくものがあった。
(忘れて行ったんじゃない、置いて行ったんだ)
11歳の夏、たしかに鍵一は貴船の家から出るとき、叔父の書斎の本棚にそっとこの本を置いて行った。母親の意向でB先生のレッスンをやめることが決まっていた。貴船※2の家にも当分来られそうになかった。愛読書の背表紙を本棚の奥深くに押し込んだとき、蝉の声が一気に遠のいた……
胸に沁みるような哀しさがよみがえって、鍵一はひざこぞうを掻いた。表紙に描かれた猫が、金色の眼で鍵一をじっと見つめている。「ニャア」とフェルマータはアクビ混じりに鳴いて、段ボール箱に丸まったまま庭の夜を見遣った。雪は止んだらしかった。かわりに風が出ていた。凍ったガラス障子が
mormoroso
※3に鳴っている。
叔父はコタツに入って、例の17世紀の土瓶※4で蕎麦湯を注ぎ足した。
「それにしても、どうしてB先生のレッスンで『吾輩は猫である』を読むことになったんだっけか。ピアノ教室ッていうのは、ピアノの弾き方を教わるところじゃないのか」
「そこがB先生のユニークなところです。音楽だけでなく、文学や美術や自然科学や、いろんなジャンルを学ぶようにというのが、B先生の教えでしたから」
「はア、なるほど」
「B先生のレッスンに通い始めてすぐの頃……ぼくは5、6歳だったと思います。いつものようにレッスンに行ったら、ピアノの譜面台に『吾輩は猫である』が置かれていて。B先生が、よければ進呈するから読んでみなさいと仰ったんです。ありがたく頂いて、帰りのバスの中で読み始めたらおもしろくて。数章を読んで、翌週のレッスンに本を持って行ったら感想を聞かれました。ぼくも話したかったのですが……うまく言葉にならなかった。そうしたらB先生が、じゃあ感想をピアノで弾いてごらんと」
「へえ」
「ピアノの前に座って、30分ほど考えました」
「随分考えたな」
「そんなことを言われたのは生まれて初めてだったので」
「何を弾いたんだ」
「『ド』の音を弾きました」
「どの音?」
「『ド』。ドレミファソラシド、のなかで、ぼくの読書感想文にいちばん近い音はどれだろうと考えたんです。それで、『ド』の音を」
「ど、ど、ど?」
叔父は笑って言葉を続けた、「どうなったんだ、それで」
「『Bravo!』と褒めて下さいました。それから『ド』を主音にして、いろいろな和音を弾いて下さって。どの和音がぼくの言いたい事に近いかと尋ねて下さいました。そのとき、和音にもいろんな種類があるんだと知りました。和音が見つかると、B先生は即興でメロディをつけて弾いて下さいました。ぼくの心がそのまま流れ出たような音楽で、どうしてもそれを書き留めたくなりました。それで楽譜の書き方を教わりました。ト音記号の書き順、音符の長さ、音の聴き取り方……など、など。
そのうち毎週、『吾輩は猫である』を数章ずつ読んでは、感想を8小節くらいの曲に書いて、B先生のレッスンへ持って行くようになりました」
「読書感想文ならぬ、読書感想『曲』!」
「『吾輩は猫である』を読み進めながら、和声や対位法※5も教わったんです」
「するとおまえは小学生のころから、作曲をしてたんだなア」
「いいえ、あれはあくまでもB先生との遊びで。今思えば、西洋音楽の基礎訓練でしたけど……
そういえばレッスン中、五線紙やピアノにいちどもさわらない事もありました。『吾輩は猫である』のなかに、『トチメンボー』という架空の料理が出て来るシーン※6があって。B先生の台所で一緒に『トチメンボー』を作ってみたんです」
「へえ、どんなだ」
「洋食の煮込み料理だという意見は一致していて、でも議論しながら調理しているうちに、なぜかカートッフェルズッペ※7が出来上がっちゃいました。楽しくて、気づいたら日が暮れてました」
「へへへへ、琴子さんが怒るはずだ」
「ピアニストを目指すという名目でB先生のレッスンへ通っていたのに、ピアノの弾き方はあんまり習いませんでしたからね……」
「おまえの父ちゃんは喜んでたけどな。B先生のレッスンに通い出してから、おまえが楽しそうだッて」
鍵一は両親の顔を思い浮かべた。ひょうきんな公務員の父(親族内コードネーム『だるまちゃん』)。一人息子の行末を案じる母(アマチュアのピアノ愛好家。親族内コードネームは本名『琴子』)。
(19世紀パリでのミッションを終えたら、横浜の実家に帰ろう。謝りたい事も、話したい事も、聴いてほしい曲もたくさんある……)
さて、なつかしい文庫本を繰ると、ぱッと真ん中あたりでページがひらいた。黄ばんだ五線紙が挟まっている。どきりとした鍵一の手元をすかさず、叔父が覗いた。
「それはなんだ」
「なんでしょう」
鍵一は五線紙をそっとひらいてみた。筆圧の濃い、子供の字であった。
1. 計画を立てる
2. 毎日一歩ずつ前に進む
3. 博学になる
日付は鍵一が5歳の年であった。そのタイム・カプセルのような五線紙を、鍵一は呆然と眺めた。
「なんだ、なんだ」
「……13年前のぼくが書いたメモです。B先生に教わった、『プロフェッショナルになるための3ヶ条』……」
言いながら温泉を掘り当てたように、温かな記憶がどっと湧き出して来る。恩師からいちばん初めに学んだ事が、まさにこの3ヶ条であった。
……当代一流のピアニスト兼作曲家の邸宅は、横浜から電車で1時間、さらにバスに揺られて初夏の木漏れ日をゆるゆると上った先の、緑豊かな風景に聳えていた。洋館3階のレッスンルームの前に着くと、中からベートーヴェンのピアノ・ソナタが聞こえていた。
♪ベートーヴェン作曲 :ピアノ・ソナタ 第15番 「田園」 Op.28 ニ長調
母親に促されて、鍵一はごくひかえめに、扉をノックした。
と、と、と、とん
するとピアノが応えた。
トトトトン!
父が「おっ」と小躍りして母に睨まれた。やがて扉がひらいた。つい1週間前に京都のコンサートホールで喝采を浴びていた人が、目の前に気楽な格好をして微笑んでいた。
両親をまじえてひととおりの挨拶が済むと、師は鍵一だけをレッスンルームに残した。(両親は別館の楽器博物館を見学に行った。当時、B氏の邸宅の一部は楽器博物館として一般に公開されており、薔薇の庭とティールームが併設されていた)
『21世紀の楽聖』は鍵一を猫脚のダイニングチェアに座らせ、手ずから煮込んだカートッフェルズッペをすすめて言った。
『さて、鍵一君。ワシがこれから長い時間をかけてきみに教えるのは、ピアノの弾き方ではない。プロフェッショナルになるための方法じゃ。
一般に、プロフェッショナルという言葉の定義はさまざまではあるが。このレッスンルームでは、人生を誠実に生きる人、徳を積む人……といった意味だと思ってもらえばよい。
したがってきみは、ワシの門下に入ったからといって、必ずしもピアニストや作曲家を目指さなければならない、というわけではない。ワシのレッスンに通いながら、音楽以外の道を志してもよい。小説家を目指してもよいし、宇宙飛行士を目指してもよい。未だこの世にない新しい仕事や生き方を創り出し、探究するのもよい。
ただし、きみが成りたいものに成るためには、プロフェッショナルであることが絶対に必要なのじゃ。今は分からなくともよい。いずれ、時が来れば、このレッスンルームでの学びがジワジワと効いて来る事と思う。
ではさっそく、プロフェッショナルになるための3ヶ条を教えよう。
第1条、計画を立てること。第2条、毎日一歩ずつ前に進むこと。第3条、博学になること。』……
「へえ、B級門下の3ヶ条か。どれ」と、叔父は五線紙を覗き込んで、ゆっくりと読み上げた。
「第1条……『計画を立てる』?」
「B先生いわく、物事を達成するためには、上手に計画を立てることが肝心で、計画の立て方にはコツがあるのだそうです。
B先生のレッスンルームでは毎週、『計画ノート』を書いていました。次のレッスンまでに達成したい目標と、それを達成するための具体的な計画を、ノートに書き出すんです。翌週のレッスンでは、その振り返りをします。計画どおりにできたこと、できなかったことをB先生に話して、計画の立て方のアドバイスを頂いていました」
「そういや、おまえが輪廻転生※8について熱心にしゃべったことがあったな」
蕎麦湯をすすって、叔父は楽しそうに宙を仰いだ。
「うちへ来るなり、『ぼくは計画的に、輪廻転生について考えることにしました』なんてわけのわからん事を言って、俺のアトリエで六道絵巻※9の写本をずーッと眺めてたことがあった。さすが俺の甥ッ子、順調に育ちつつあるぞと思って俺はニンマリしてたのさ。へへへ。あれはB先生に習った『計画の立て方』になにか関係あったのか」
「ありました、ありました……!」
手を打って鍵一は、この叔父が案外、むかしの出来事を覚えてくれていることに驚いていた。
「そのときの目標はたしか、1週間のうちに『吾輩は猫である』の読書と、漢字テストのための勉強を並行して進めることでした。やるべきことを『計画ノート』に細かく書き出して、それを1日のうちどの時間帯に、どれだけやるかを決めたんです。毎朝、学校へ行く前に、『吾輩は猫である』を1ページずつ読み進めて、漢字ドリルを毎日、夕ご飯のあとに2ページずつ進めるとか。そういった計画を立てたと思います。
でも実際はうまくゆきませんでした。漢字テストの勉強はできたけれど、『吾輩は猫である』の読書がどうしても進まなかったのです。翌週のレッスンでB先生にそう言うと、
『なぜ、鍵一は読書ができなかったのかな?』
先生は独り言のように仰いました。ぼくは叱られると思って、ごめんなさいと謝りました。すると先生はぼくをまっすぐ見て、こう仰ったんです。
『謝らなくてもよい。鍵一がワシに謝ったところで、物事はなにも解決せんのじゃ。計画どおりにゆかなかった原因を明らかにし、改善策を見出せれば、それでよい』と。
ぼくは恐る恐る、先生の質問に答えることにしました。
『朝起きられなかったからです』
『なぜ、朝起きられなかったのかな』
さらにB先生は尋ねました。ぼくは考えました。じつのところ、朝30分早く起きて本を読もうとしたけれど、眠くて起きられなかったのです。正直にそう言いました。するとB先生は質問を重ねました、
『なぜ、そんなにも鍵一は眠かったのかな』
『前の晩に……あまり眠れなかったからだと思います』
『なぜ眠れなかったのかな。フトンに入った時刻が遅かったのかな』
『フトンに入る時刻はいつもと同じだったんですけれど、なかなか眠れなかったんです』
『では、なぜ眠れなかったのかな』
……と、そんな調子で、先生は何度でも同じ質問を繰り返しました」
「お互い根気が要るなア。それで?」
「何度も質問されるうちに、ぼくは原因に思い当たりました。そのころ、ぼくは父から借りた手塚治虫の漫画『火の鳥』を読んだばかりで。フトンに入って真暗な部屋で、時計の針のコチコチと時を刻む音を聴いていると、『火の鳥』に描かれていた輪廻転生の話を思い出してしまうんです。因果のために永遠に苦しみ続ける人々の話を……。それで、ぼくの前世は何だったんだろう、とか、来世はどうなるんだろう、とか、どうすれば輪廻の輪から抜け出せるんだろう、などと、ぐるぐる考えて怖ろしくなってしまって。なかなか眠れませんでした」
「鍵一らしいな」
「B先生はぼくの言う事をよく分かって下さいました……そうして、そういったときの対処法について、アドバイスを下さいました。漢字テストで良い点を取ることも、『吾輩は猫である』を読むことも、輪廻転生について考えを巡らせることも、すべて人生において重要なことじゃ、と。でも1日は24時間しかないし、身体は1つしかない。だから優先順位をつける必要があるのじゃ、と。輪廻転生のことはいったん脇へ置いて、まず漢字テストと読書に取り組む。それらを終えてから、輪廻転生についてはゆっくりと考えを巡らせればよい、と。
それでもどうしてもぐるぐると輪廻転生のことが頭を巡ってしまうなら、意図して考えをそらせばよいとB先生は仰いました。時計を廊下へ出して、眠るときはショパンの『華麗なる大円舞曲※10』を流す。あるいは、勉強机に香しい薔薇を飾って、心身を美しい夢へと導く……つまり、自分の心と身体を計画的にコントロールする工夫が必要なのじゃ、と。B先生ご自身も、コンサートの出演前には計画的に心身を整えていらっしゃるそうです」
「輪廻転生についてはどうなったんだ」
「そのときB先生が詳しく教えて下さいました。インド哲学や東洋哲学によくみられる思想のひとつで、古今東西の芸術家を惹きつけて来たテーマなんですね。夏目漱石の『夢十夜』という作品に、やはり輪廻転生の因果をテーマにした短編があるということも教えて下さいました※11。
そうして説明されると、輪廻転生への恐怖がふわっと薄れたんです。数ある思想のひとつなら、それが絶対の真理というわけでもないですし。もし、輪廻転生が本当に起こるのだとしても……日々を良く生きれば明るい未来が必ず巡って来るということですから。……B先生と話していて、そう思いました」
「それで六道絵巻を、おまえにしちゃア平然と見てたわけか。B級レッスンはなかなか興味深いな」
うなづいて鍵一は蕎麦湯を飲んだ……拍子に、壁掛けの時計と目が合った。時計のふちが鈍い金色の輪を描いている。
(今この瞬間、B先生はどこで何をされているんだろうか)
恩師の存在に思いを巡らせると、あの初夏の日にレッスンルームの扉を叩いた、運命の明るい音が脳裏を照らした。
つづく
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪
第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
音楽用語で『ささやくように』の意。
江戸時代に活躍した京焼の陶工、野々村仁清の作。
第48話『作曲入門 B級ブックガイド♪』をご参照ください。
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』に登場する料理名。「美学者・迷亭が西洋料理店でトチメンボーなる架空の料理を注文し、給仕を困惑させた」というエピソードに拠ります。
ドイツの伝統料理、かつ、プロフェッサー・B氏の得意料理。濃厚なじゃがいもスープ。
霊魂が何度も生まれ変わる、という死生観。『天球音楽説』を提唱した古代ギリシャの哲学者・ピタゴラスも、輪廻転生の思想を持っていたと言われています。
仏教において、衆生が輪廻転生する6つの世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道)を描いた図。