第43話『ピタゴラスへ橋を架ける♪』
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の謎を追い続けてきたエラール氏は、その秘密を鍵一に話して聞かせるのだった……!
ふと視線を感じて顔を上げると、エラール氏が面白そうに鍵一を眺めている。心を見透かされた気がして、
subito
※2で鍵一は話の角度を変えた。
「それにしてもエラールさん。幻の名曲『夢の浮橋』の作曲者は、いったいどんな人物だったのでしょうか」
「文献をかなり調べてみたがね。作曲者については未だ謎に包まれている」
「作者不詳ですか……!」
「さして驚くことでもないだろう。作者不詳のまま、時代を経て受け継がれて来た作品は世に多くある。たとえば伝承の類だ。きみはドクトル・ファウストの伝説を知っているかね」
「『ファウスト』といえば、ゲーテ先生のオリジナル作品ではありませんか?」
「あれは中世のドイツに実在したとされる錬金術師、ドクトル・ファウストの伝説を、ゲーテ氏が再構築したものだ。以来、多くの芸術家に創作の動機を与え続けている。後の世にもファウストの物語は受け継がれてゆくだろう」
(そういえば、リストさんたちが即興で弾いていらした)
鍵一はレストラン『外国人クラブ』で音楽家たちが戯れに弾いていた、『ファウスト』の劇音楽を思い出した。巨大な戯曲から湧き出された着想は鍵一の記憶に折り重なり、21世紀へ伝わる有名なワルツに集約された。
♪リスト作曲 :歌劇 「ファウスト」のワルツ(グノー) S.407 R.166
「ゲーテ先生は、伝説の錬金術師ドクトル・ファウストを『復活』させたのですね。他にもそういった、『復活』の事例はあるのでしょうか」
「きみは『マタイ受難曲』を知っているかね」
「ええ、キリスト教の聖書の『マタイによる福音書』を元に、J.S.バッハが創った壮大な曲ですよね」
「そのとおり。あれはまさに『復活』の好例だな。復活の担い手は、ドイツの音楽家のメンデルスゾーン君だった。18世紀の初演以来忘れ去られていた幻の名曲を、彼は現代によみがえらせたのだ」
「すばらしいお仕事ですね……!それにしても、メンデルスゾーンさんはどうしてそんなことが出来たのでしょうか」
「メンデルスゾーン君は14歳のクリスマス・プレゼントに、お祖母様からその曲の自筆譜の写本を贈られたのだよ。壮大な構想を読み解き、いくつかのパートに手を加えて、1829年にはとうとう、上演まで漕ぎ着けた。『百年ぶりの復活公演』と銘打って大々的に上演した甲斐あって、以後ドイツを中心に、バッハの演奏機会は着実に増えている。
同じくドイツ出身のヒラー君など、古典に造詣が深く、優れた演奏技術を持つ音楽家も、そういった曲の復活を担う人間といえるだろう。つまるところ、バッハのような玄人向けの作品が後世に聴かれるためには、メンデルスゾーン君やヒラー君のように、若くして古典に通じた音楽家の手が要るのだ。彼らは熱心に教職も行なうのでね。彼らの弟子たちが、後世に永くバッハの曲を弾き継いでくれるだろう」
(そうか、ぼくが21世紀でバッハを聴けるのは、この時代の人たちが曲を『復活』させて、次の代に繋いでくれたからだ……)
思わず鍵一は天を仰いだ。1839年の冬空は白い光に満ちて、やわらかな陽射しが手の甲に温かい。
「リスト君は『夢の浮橋』について、さほど興味を示さなかっただろう」
寛いだ口調で、エラール氏は食後の温かな紅茶をすすった。
「はい、夢の中でチェルニー先生から楽譜をいただいた、とお話ししましたら、
『チェルニー先生は、よく弟子に楽譜をくれはるんや。夢の中でも変わらんなあ。まあ、あれやな。古典を学びなさい、というチェルニー先生からのメッセージや』と笑っていらっしゃいました。
リストさんは12歳でチェルニー先生の門下を離れるとき、餞別にトランク3個分の楽譜をいただいたそうです。フーガ※3の曲集や、ベートーヴェン先生のピアノ・ソナタの校訂版など。その中に『夢の浮橋』の楽譜もあったような気がする、と仰っていました」
「他の音楽家たちはどうかね」
「ヒラーさんは『夢の浮橋』について、ピタゴラスの天球音楽説※4を忠実に具現化した曲ではないか、と仰っていました」
「『博学のヒラー』らしい考察だな。『夢の浮橋』上演の目的は、宇宙の音楽的調和を実現し、人々の魂に平安をもたらすこと……か」
「『夢の浮橋』は宗教音楽なのでしょうか」
「大彗星の降る夜に演奏すべし、という上演のルールを鑑みると、宗教音楽の一種とも考えられる。清らかな魂を持つ音楽家だけが奏し、星へ祈りを捧げることができる……」
エラール氏が腕組みをして何事か考え込むあいだ、鍵一は『外国人クラブ』の一場面を思い出していた。暖炉の前でカートッフェルズッペを掬いながら、ドイツの音楽家は目を輝かせてこう言ったのだった、
『ケンイチ君が夢の中で楽譜の一端を得たというのは、きっと日本人特有の霊感が働いたのだねえ。神秘的で興味深い事象だ。年明けに故郷のフランクフルトへ帰ったら、おれも幻の名曲について、少し調べてみよう』
その斜向かいの席でアルカン氏が音楽雑誌をひらいたまま、
『日本人特有の霊感、ね』
皮肉っぽく友の言葉を繰り返して、また読書に戻って行った。
「アルカンさんは……あまり興味がなさそうでした。昨年の6月に『夢の浮橋』について伺ったとき、『強度のある魅力的なテーマだ』とは仰っていたのですが、その後はなにも……」
「ベルリオーズ君はどうかね。以前、個人的に話したとき、彼は『夢の浮橋』に非常な興味を抱いていた。できることなら楽譜を集めて、壮大な物語に関わりたいと」
「ああ、どうりであの歌は……!ベルリオーズさんが夏の夜に歌っていらしたのを聴きました、※5
いろはにほへと ちりぬるを
我が世たれそ 常ならむ
夢の浮橋 けふ越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
いちはいちいち 星と音とのマリアージュ
恋は実らず 実るは葡萄ばかりなり……」
「私も聴いたことがある。彼が『夢の浮橋』に着想を得て、ギターで創った歌曲だろう」
「じつはベルリオーズさんとは夏の夜以来、きちんとお話し出来ていないのです。ドラクロワさんと一緒に、何度かレストラン『外国人クラブ』にいらしたのですが、たいていお酒に酔っていらっしゃるか、構想中の劇的交響曲※6についてアルカンさんたちと熱心に議論していらっしゃるので」
「ベルリオーズ君は今、シェイクスピアに夢中なのだね」
「『ロミオとジュリエット』を題材として、劇的交響曲を書くつもりだと仰っていました」
「彼の興味はいつも一点に集中する。複数の物事を同時に進めるということが苦手な男だ」
「でも、ベルリオーズさんが好みそうなテーマですよね、幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演!」
「フム」
エラール氏は溜息をついて、額を撫で上げた。
「『夢の浮橋』の楽譜を収集することは、やはり容易ではないな。『夢の浮橋』への興味の度合いは人によって異なる上、『夢の浮橋』以外にも、魅力的な創作のテーマはこの世にあふれている。
かくして、幻の名曲は夢のまにまに消え去る」
「過去の上演記録を調べてみるのはいかがでしょう?当時の音楽家の方々が、『夢の浮橋』の上演について、日記や手紙に書いていらっしゃるかもしれません。そこから辿ってゆけば、演奏者の名前がきっと分かります。演奏者の記録をさらに辿れば、楽譜も見つかるのでは」
話しながら勢いづいて来た鍵一へ、にやりとエラール氏は笑ってみせた。
「そのとおりだ、ケンイチ君。そして我がエラール社は、『夢の浮橋』の過去の上演記録をひとつ握っている。私がきみに話しておきたいエラール社の秘密とは、まさにそのことだ」
「えッ」
「来たまえ。楽器庫へ案内しよう」
立ち上がったエラール氏に付いて、鍵一も急いでトランクを持って後へ続いた。
「7年前の夏、私は叔父のセバスチャンの死期に際して、エラール社の事業のすべてを受け継いだ。叔父から渡された膨大な資料の中で最も重要だったのは、エラール社の製造した楽器の目録だ。製造年、構造、所有者など、それぞれの楽器の情報がすべて詳細に記してある。
中に1台だけ、記録が白紙の、謎の楽器があった。製造ナンバーは『1811』。叔父がその楽器について私に打ち明けたのは、息を引き取る数日前の事だった」
レストランの中を足早に通り抜けながら、エラール氏は話を続ける。聴きながら鍵一の脳裏を、大いなる直感が光の尾を引いて横切った。
「1811……『大彗星のヴィンテージ・ワイン』の年号ですね?」
「そうだ。どこかで見聞きしたことがあるかね」
「レストラン『外国人クラブ』で、皆さまが飲んでいらしたのです。昨年の春、ぼくがリストさんに拾われてあのレストランへ伺った時に※7……そうです、そのとき、ヒラーさんが確かに仰っていました、
『おれとリスト君の生まれ年・1811年は、なぜかヨーロッパ全土で葡萄が豊作だったんだよ。同じ年に巨大な彗星が現れたことから、この年につくられたワインを彗星年のワインというんだ。彗星と葡萄の関係は定かではないけれど、なにか我々の想像を超えた宇宙の法則を見出せるような、おもしろい現象だよねえ』と……」
音楽家の言葉をなぞりながら、鍵一はこの数ヵ月に見聞きした淡い謎の端切れが縫い合わされてたちまち、巨大な絵巻物として空にたなびくのを感じていた。
「1811年、大彗星の降る夜に、『夢の浮橋』は上演されたのですね!そして上演用の楽器を創ったのが……」
エラール氏はうなづいて、レストランの奥の扉へ手を掛けた。
「製造ナンバー『1811』の楽器について、叔父のセバスチャンはこう言っていた……大彗星の飛来した年・1811年に、さる音楽家に頼まれて、『夢の浮橋』上演用に創った。最高の出来栄えだった、と」
重い扉が押し開かれると、眩しさに鍵一は息を呑んだ。
つづく
第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
19世紀の音楽家・チェルニー氏から贈られたモチーフを活かし、鍵一が作曲するオリジナル曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
初演は2021年2月『片山 柊ピアノリサイタル in 京都』にて♪
神山 奈々さん(作曲家)
片山 柊さん(ピアニスト)
音楽用語で『すぐに、ただちに』の意。
対位法の書法による楽曲形式。J.S.バッハ作曲の『平均律クラヴィーア曲集』などが有名です。
第12話『文学×音楽×幻想=??♪』をご参照ください。
シェイクスピアの戯曲『ロメオとジュリエット』を題材とした、合唱付きの交響曲。1839年11月に、パリ音楽院のホールにて初演されました。
連載の第2話~第5話をご参照ください。