ピティナ調査・研究

第17話『前略 旅するあなたへ(Ⅰ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳の新星ピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、1838年のパリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。サロン・デビューをめざす最中、ウィーンの大音楽家・チェルニー氏から贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜の一部だった……!
前略 旅するあなたへ(Ⅰ)♪
19世紀パリの紫式部

親愛なる日本人ピアニスト、ケンイチ君へ

突然のお便りでびっくりさせてしまったかしら。
青く輝く水平線を、この海辺の仮宿のテラスから眺めていたら、どうしてもあなたに手紙を書きたくなりました。なぜって、あなたの髪も瞳も漆黒の夜の色なのに、わたしの心の中のイメージでは、あなたは常に明るい群青色を纏っているのよ。今わたしの目にしている青く暖かな海の彼方から、あなたはパリへ旅して来たんですものね。
そんな訳でインク壺(この地域の風習に倣って、タコの墨)を用意したはいいけれど、さて、何に書くべきか迷ってしまいました。
あなたたち音楽家は五線譜にメッセージをしたためる癖があるけれど、わたしの手元にあるのは某出版社の印の入った原稿用紙だけ。友達に手紙を書くのに、それってとても味気ないでしょう。
……と、わたしが思案していたところへ、フレデリックが南国の大きな葉を摘んで、小さな子供みたいにニコニコと帰って来ました。
(フレデリックは釣りも狩りもしない代わりに、よくこうして花や植物を摘んできます。もし彼が音楽家にならなければ、きっと植物学者になっていたことね)
わたしはその孔雀緑色の葉をいちまい日に当てて乾かして、この手紙をしたためることにしました。この南の島では陽射しがあまりに眩しいので、あっという間に何でも乾いてしまうの。パリでは考えられない事ね。

改めまして、ケンイチ君。
さよならも言わずに旅に出てしまって、ごめんなさいね。
わたしとフレデリックにはいくつかの差し迫った事情と、いくつかの希望に満ちた理由があり、しばらくパリを離れる事にしたのです。
馬車と船の難儀な旅をへて仮宿を転々としたのち、ようやくこのスペイン領・マヨルカ島の『風の家』に落ち着きました。もちろん生活上の困難はあるけれど、わたしたちはこの美しい島の田舎暮らしを pastorale ※1 に楽しんでいます。
この地の色彩の眩しい事といったら、ドラクロワが来たらきっと大喜びね。
ひょうきんな形のサボテンが朝日に透ける色。レモンの花をそよがせる暖かな風の色。ハチドリの低い羽音とともに、緑の小道にたちこめる午睡の色。夕陽が海へ溶ける一瞬、濃く輝き渡る水平線の色……

何より、パリでは決して得ることの出来なかった詩情と静寂が、ここには在ります。
わたしもフレデリックも、パリに居た頃よりずっと深く、創作に打ち込むことが出来そうです。(フレデリックの場合、プレイエル社のピアノがこちらに届きさえすれば……というところだけれど)※2

そういえば、リストから聞きましたよ。
夏の夜、あなたはベルリオーズやドラクロワと一緒に、世にもふしぎな体験をしたんですって?
3人一緒に、夢の中で時空を超える旅をして……さらにあなたが、ウィーンの大音楽家・チェルニー先生から、幻の名曲『夢の浮橋』のワンフレーズを作曲用に贈られただなんて。心躍るファンタジックなストーリーね。

ちなみに、フレデリックはその話を聞いて、とても嬉しそうにしていました。
そのとき彼は、修道院へ続く石ころだらけの山道を歩いたために、身体の調子を崩して臥せっていたのだけれど、
(わたしたちはマヨルカ島に着いてより、快適な住まいを求めて本当に大変な苦労をしたのです……)
その話を聞いた途端に、ふと彼の頬に赤みがさしました。
「ケンイチ君が『夢の浮橋』の変奏曲を作曲する……とね。なるほど」
しきりにそう呟いて、それから起き上がって、別人のように活き活きとした表情で、五線譜に『プレリュード』のアイディアを書き付けていました。わたしの作ったチキン・スープを食べるのも忘れて。
ケンイチ君。あなたが音楽家であるという唯一点においてのみ、わたしはあなたに嫉妬します。
あなたたち音楽家はいつもそうだわ。音楽家同士にしか通じない暗号でひそひそと話し合って、他の者を締め出してしまうのよね。
(わたしが自分の小説に何度も音楽家を登場させる理由も、きっとそこにあるのね。音楽家のセリフを書いている間だけは、わたしも音楽家の一味になれたような気がするから)

それにしてもケンイチ君、『夢の浮橋 変奏曲』の作曲は大丈夫かしら?
リストの話によれば、あなたはここ3ヵ月間、自分の創作はそっちのけで、『外国人クラブ』の音楽家たちの手伝いばかりしているというじゃありませんか。彼らが新曲を弾いて、あなたが楽譜へ書き写す……という、はてしない作業を自ら進んで引き受けたりして。
これは部外者からの余計な忠告だけれど、彼らの仕事を手伝うのもほどほどにね。
作業を通して先人たちの作曲法を学びたい、という意図はわかるけれど、自分の創作の時間も確保しなければだめよ。どれだけ模倣が上達しても、自分の文体を獲得できるわけではないから。むしろ、模倣の腕を上げれば上げるほど、オリジナリティの発揮の妨げになる場合があるのよ。実際、過去の文豪の影響から抜け出せずに筆を折った作家志望の人たちを、わたしはたくさん見て来たわ。……まあ、聡明なあなたなら分かっているでしょうけど。
いつか、あなたの作曲した『夢の浮橋 変奏曲』を聴かせてね。

長くなってしまいました。そろそろ筆を置きます。
ケンイチ君へのちょっとした贈り物を、この手紙に同封しますね。パルマ港で手に入れた、ローズウッド※3の栞。わたしの故郷・ノアンに咲く野生のバラに薫りが似ているわ。この樹でピアノを造れば、きっと音色までも良い薫りがするでしょう。
(それにしても、プレイエル社のピアノの到着はまだかしら。わたしはこの地で手を尽くしてピアノを探し回りましたが、フレデリックを満足させるものは見つけられませんでした。
プレイエルがフレデリックの依頼をおろそかにするとは思えないから、きっとピアノは今頃、地中海の波間を漂っているのね。海の神トリトンがその音色に魅せられて、海底へピアノを沈めることがありませんように……)

1838年11月吉日 スペイン・マヨルカ島『風の家』にて
あなたの友 ジョルジュ・サンドより

珈琲エスプレッソと砂糖菓子

手紙は紫の薫りがした。油を染ませた南国の葉は、この十数日間の船旅で変色していたものの、艶やかな筆跡に鍵一は、差出人の心のみずみずしい動きを感じた。鼻先に押し戴いて朝の窓を仰ぎ見ると、パリの空は明るく凍っている。遠く海を渡って、ショパンのプレリュードの響いて来る気がする。

♪ショパン作曲: 24のプレリュード(前奏曲集)Op.28-2、Op.28-4

ホッと息が白い。鍵一は黒い筆ダコの出来た指をすりあわせて、自分の仕事机に座った。淹れたばかりの珈琲をひとくち飲むと、湯煎で溶かしておいたインクをいつもの要領で羽ペンに馴染ませる。真あたらしい五線譜をいちまい取ると、鍵一は返事を書き始めた。

つづく

◆ おまけ
  • pastorale(パストラーレ)
    音楽用語で『牧歌的に、のどかに』の意。
  • なかなか届かなかったプレイエル社のピアノ
    ショパンはパリ出立時、ピアノ・メーカーのプレイエル社にピアノを送ってくれるよう頼みましたが、なかなかショパンの手元には届きませんでした。
    それでも現地で借りたピアノで、ショパンは24のプレリュード(前奏曲集)Op.28-2、Op.28-4を作曲しています。
  • ローズウッド(Rose wood)
    日本語では『紫檀』。古来より、楽器や家具等の木材として珍重されてきました。
    『ローズウッド』命名の由来は、バラのような香りを持つことから。