第47話『そうだ、京都ゆこう(Ⅱ)♪』
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年の京都へワープすると、意外にも京都駅構内から、ピアノの音が聞こえてきた……!
目が眩む。ひざこぞうが軋む。呆然と鍵一は立ち尽くした。
(21世紀のピアノ曲……!)
JR京都駅の中央改札口からショッピング・モールへ通じる広場に、見事なグランド・ピアノが据えてある。傍の立看板に、
『こちらの駅ピアノは、どなたでも自由に弾いていただけます』
との但し書きが読めた。ひとりの奏者が今、流れるように弾いていた。
耳が惹かれるほどに、心を揺さぶられるほどに。自分の立っている空間が深く、高く広がるように感じられる。ひらかれた耳に、蜜のような沈黙がとろりと流れ込んでくる。鍵一は息をひそめた。
ゆらめきわたる水の影。
琥珀色の沈黙を破って躍り出た羽音。舞い降り、ひるがえり、闇の中を探し求めるように翔けてゆく。
音の行方を目で追いながら、鍵一はふしぎな感覚にとらわれた。
京都駅構内を行き交う人々……福袋を提げてゆく人。コインロッカーにスーツケースを入れようとする人。窓口で駅員に切符を見せる人。売店でペットボトルを買う人。JRの改札を通って来る人。……無数の人々が皆、この世ならざる人に見える。何百年も何千年も前に生きた人たちが、かりそめの身体を纏って現れたように思う。よくよく見れば皆、遠い昔に親しかった人たちに似ている。なつかしい瞳の瞬き。見覚えのある足取り。いつか握った手のやわらかさ。……中に、紅色の花束を抱えた人がいた。JRの改札をゆっくりと抜けて来たその人は、世にもあざやかな花束を携えて、ピアノの前を横切って行く。大事な誰かに似ている気がする。ずっと昔に言葉を交わし、心を結んだ誰か。
鍵一の伸び上がって眺めるままに、その人の姿が滲んでたちまち、巨きな樹のかたちになった。黒い枝から滴るように紅色が芽吹く。甘い薫りが、鼻先に濃く漂って来る。……
……きよらかな余韻をのこして、奏者はそっと立ち去った。
途端、駅構内の雑多な音が一気に押し寄せて来る。JR発車のメロディが、列車遅延のアナウンスが、人々のざわめきが、視界をごちゃまぜに彩る。目をぱちぱちさせながら、それでも鍵一は吸い寄せられるようにピアノの傍へ寄った。
見れば見るほど、21世紀のグランド・ピアノは巨大だった……!
燭台のあるべきところには、京都駅の天窓が映って平らに艶めいていた。内部を覗き込むと、まるで宇宙船の構造のように、それは奇妙に美しかった。ボルトで留められた無数の弦は、銀色と赤銅色に輝きながら張りつめている。その張力の物凄さを、巨大な金属製のフレームが制御している。側板から伸びる頑丈な脚が、この工業製品の三百キロ以上の重みを支えていた。
(なんて巨大な楽器……!19世紀にワープする前には、ぼくもこのサイズのグランド・ピアノを当たり前のように弾いていたんだ。なんだか信じられない)
はやる心を抑えて、鍵一はピアノの前に座った。試みに、両手を鍵盤に置いてみる。7オクターブと3鍵、計88鍵の鍵盤から、無限のハーモニーが湧き出して来る。
数小節も弾かないうちに、鍵一は唸った。
(このピアノ、弾きづらい……!鍵盤が重くて、深くて、指にすごく力を籠めないと音が鳴らない。ロングトーンが響きすぎる。19世紀のピアノより、ピッチがずっと高い……)
戸惑いながらも鍵一は、鍵盤のリアクションの速さと響きの明るさに、19世紀のエラール・ピアノの面影を感じていた。※2約200年にわたるピアノの進化の過程を、鍵一は今、懐かしさとともに理解していた。同時に、鍵盤を確かめる指はこうも考えた。
(ぼくがいずれ、『夢の浮橋変奏曲』を披露する事になるのは、19世紀パリのサロン。ピアノはプレイエルか、エラールだ。……でも、せっかくならこの、21世紀のピアノでも弾ける曲を創りたい。19世紀でのミッションを終えた後にぼくが生きてゆくのは、やっぱり21世紀だから)
すると駅構内のざわめきが転調※3して、鍵一は辺りを見回した。状況はすぐ呑みこめた。
前の奏者があまり見事に弾いたので、京都駅構内にはピアノを囲む人の輪が出来つつあるのだった。人々は電光掲示板を見上げながら、スマートフォンを手にしながら、何となく次の名演を待つ顔つきで、鍵一の動向を見守っていた。
(演奏……?)
一瞬怖気づいた心を、鍵盤のなめらかな感触が引き戻した。
先ほどの奏者にまた会えるかしら。と鍵一はピアノに尋ねた。
会える。と明快な返事が来た。ピアノを弾き続けていれば、きっとまた会える。
(……ヨシ。なにを弾こうか)
天窓を仰げば、古都の薔薇色の夕雲が『サテ、どないする』と微笑んでいる。手元を見れば88の鍵盤が『サア、どうする』と澄まして整列している。
思案の耳たぶを掻いてふと、フェルマータと目が合った。この相棒はルイ・ヴィトンのトランク※4の上にくつろいで、ふんわりとアクビをした。19世紀パリ・オペラ座の広場で初めて会った時よりも、猫はぜんたいに丸くなったように見える。レストラン『外国人クラブ』に居候していたおかげだな、と鍵一は可笑しくなった。途端にひらめいた。
(そうだ、19世紀パリへワープして初めて弾いた曲。あれを今、この場にふさわしいように、即興でアレンジしてみようか)※5
鍵一はすばやく構想をめぐらせた。鍵盤に両手を置くと、無数の視線がスッと自分へ集まるのを感じた。
♪ショパン作曲・ワルツ第4番ヘ長調 Op.34-3 通称『猫のワルツ』
鍵盤が重い。手首が痛い。もつれる鍵一の指をすり抜けて、19世紀パリの夕暮れを猫走る、猫走る。8分音符の生け垣を突っ切り、へ音記号をかろやかに飛びこえ、三和音の角で猫耳をぴんと立てるや、心地よさそうに夕風を聴く。花と葉巻の薫り。馬車のひづめの音。蒸気船の汽笛……
たっぷりとテンポ・ルバート※6をふくらませながら鍵一は、19世紀の音楽家・F.ヒラー氏との会話※7を思い出していた。……
『そうだねえ、ケンイチ君。もちろん、信念と敬意を以て、先人の楽譜を正確に弾くのは尊いことだと思うよ。楽譜に込められた作者の精神を汲み取るには、まず楽譜どおりに弾けることが必須だからねえ。ただ、音楽家とは優れた弁論家であるべきだよ』
『弁論、ですか……?』
『説得力をもって、語りたいことを語るために。演奏は臨機応変にね。それに、ピアノはまだまだ発展途上で、個体差の大きい楽器だし』
『あの、ピアノというのは、それほど個体差のある楽器なのでしょうか?』
『そうだよ。行く先々のサロン・ホールにどんなピアノが置いてあるのか、メーカーくらいは事前に知ることができたとしても、弾いてみないとピアノの個性まではわからないからねえ。
初めて招かれた場所でピアノの前に座ったら、まず最初にぱらぱらっと流行曲のさわりなんかを弾き流してみてさ、ピアノの様子を見るんだ。文学作品にちなんだテーマを即興でアレンジしたり、古典を引用するのもいい。そうしてピアノの特徴……低音域のオクターブは伸びないとか、高音域にゆけばゆくほど鍵盤が軽いとか、同音連打がしやすいとか……をつかんだら、そのピアノが鳴りやすいように、即興でアレンジしちゃっていいんだよ。楽譜にない音を足したり、楽譜に書かれている音を削ったりしても、それが音楽的に美しければ、サロンでは誰も咎めないよ』……
……
legato
※8にポン・ヌフ※9を渡りきった猫は茜色の土手を駆け下りて、セーヌ川の岸辺をかろやかに走り出した。船の帆が揺らめく。水鳥の立てる白波がきらきらとさんざめく。ノートルダム大聖堂の鐘が薔薇色の大気をふるわせる。人々の影を飛び越え、舞い散る葉に戯れながら、猫走る、猫走る。さらさら揺れる葉音の下を走り走ればいつのまにか、川沿いの樹々は柳に変わっている。ヴィスワ川の岸辺を猫走る、猫走る。人々の影を飛び越え、ワルシャワの土の匂いを聴きながら、猫走る、猫走る。薔薇色の船の帆が揺らめく。きらきら薫る水際を走り走ればいつのまにか、景色は京都に変わっている。ぼんぼりの灯が川面に映る。柳がさらさらと揺れている。鴨川の岸辺を猫走る、猫走る。行く手に架かる数多の橋に巨きな一本を見つけるや、茜色の土手を
animato
※10で駆け上った。三条大橋の真ん中にはなぜかコタツが据えてある。コタツの上には京御膳。猫はふわりとアクビをすると、
『これは吾輩の寝床および食卓である。証拠はまだニャい』
悠々とコタツに入って丸くなった……
まばらな拍手が起きて、鍵一は我に返った。鍵盤から指を離した途端、手首がジンとしびれる。どんどんと冷たくなる指先を急いで擦り合わせて、ひざこぞうのふるえが止まらない。
そのとき。ふいに近寄って来た誰かがトランクの傍で屈むようなしぐさをしたのを、鍵一は目の端で捉えた。ふりむくと人影はすぐ京都駅の喧騒に紛れた。フェルマータが金色の眼をきらめかせて、トランクの上に置かれたものを眺めている。
(投げ銭……?)
いかにも、真あたらしい十円玉であった。
拾い上げると、平等院鳳凰堂の絵柄が輝いている。裏返せば『令和元年』の刻印。
鍵一は天を仰いだ。暮れゆく21世紀の空へ、飛行機雲がまっすぐに光の尾を引いていた。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
第44話『エラール・ピアノの歴史♪』をご参照ください。
音楽用語で『楽曲の途中で調を変更する』の意。
F.ヒラー氏が鍵一に貸したトランクは、若き日のルイ・ヴィトンが創ったものでした。
過去の登場シーンについては、第29話『ウルトラマリン・ブルー♪』をご参照ください。
第3話『ねこのワルツ♪』をご参照ください。
音楽用語で『楽曲のテンポを保ったまま、音符の長さを適宜変化させて演奏する』の意。
第34話『鹿と福耳―ヒラー氏の肖像(Ⅲ)♪』をご参照ください。
音楽用語で『音をつなげて演奏する』の意。
セーヌ川に架かる、石造りの橋。フランス語でポン・ヌフ(仏: Pont Neuf)は、『新しい橋』の意。パリに現存する最古の橋とされています。
音楽用語で『活き活きと速く』の意。