ピティナ調査・研究

第29話『ウルトラマリン・ブルー♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。様々な困難にぶつかりながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。
サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、1838年の大晦日、ひとり船旅に出た。ジヴェルニーで『名無しの詩人』と別れたのち、ル・アーヴル港ゆきの船※1にて、さらにセーヌ川を下ってゆく。
ウルトラマリン・ブルー♪

 『三種の神器』は無事だった。
ホッと溜息を吹いて、鍵一はトランクを絨毯にひろげたまま、談話室のソファに深く沈み込んだ。大理石の暖炉のぱちぱちと燃え弾ける音が、凍った耳をやわらかくほぐしてゆく。
(しっかり仕舞っておいてよかった。ヒラーさんが貸して下さった、このトランク……ちょっと重いけど、頑丈で美しいや。さすが、一流のヴィルトゥオーゾの旅道具。これなら不安定に揺れる船でも、デコボコ道を走る乗合馬車でも、安心して旅して行ける)※2
「ニャニャン」
フェルマータがしきりにトランクの留め具のあたりを掻くのを「だめだよ、お借りしたものだから」と止めようとして、鍵一はその香ばしい色の焼印に気づいた。
『Louis Vuitton 1838』
(ルイ・ヴィトン! この時代の人だったのかしら?)
驚いて覗き込んだそのとき、鍵一の耳が深い響きを捉えた。
フェルマータの猫耳越しに外を窺うと、ルーアンの大聖堂※3が夕暮に遠のいてゆきながら、その鐘の音が八重九重に帆船を見送っている。……じつに、早朝にパリを出発した帆船はゆるやかに午後を過ぎて、さきほどルーアンの港で多くの乗客と荷をおろした。鍵一とフェルマータが食堂で遅い昼食を済ませ、一等客専用の部屋で仮眠をとり、さてこの談話室へ戻るころには、美しい彫像のごとき貴婦人と紳士も、水色の絹靴下の主も、影もかたちもなかった。ただ、花のような残り香だけが、この八角形の豪奢な部屋に漂いつ、パリ社交界の記憶をくゆらせつ、天井のシャンデリアに朧げな薄紅色の光を灯していた。
(あの人たちもいつか、『惑星の庭』の評判を聞くことになるかしら……)※4
唐突にそんな考えが浮かんで、鍵一は背筋をのばした。雨に洗われた茜色の夕空に、ナマズのかたちに似た雲がひとつ浮かんでいる。

さて、 薄葉紙 に包まれた餞別の品々を、あらためて鍵一はトランクから取り出してみた。
(皆さんのお心遣いが嬉しい♪ それに、B先生への良いおみやげができた)
鍵一の急な出立に際して音楽家たちが掻き集めてくれた、アルカン作曲の『12か月集』が、ヒラー作曲の『妖精の踊り(作品9)』が、リスト作曲の『旅人のアルバム』が、凧糸できちんと綴じられている。ベルリオーズの『アイルランド歌曲集』の後ろには、なつかしい曲の初版本も挟まっていた。

♪ベートーヴェン作曲 :ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」 第1楽章 Op.73

(あの夏の夜、ベルリオーズさんが鍵盤ハーモニカでこの曲を吹いちゃって。ぼくとドラクロワさんも、楽聖ベートーヴェンの仕事部屋へワープすることに……! それにこの曲。たしか発表当時、チェルニー先生がベートーヴェンの弟子として、ウィーンで初演したのだった)
膝の上で華やかな cadenza ※5の音符をひとつ、ひとつ、弾いてみながら、鍵一はあの夏の夜の不思議なできごとを、温かく思い出さずにはいられない。※6

(ピアノを本格的に習い始めてからずっと、学校やコンクールの課題曲の練習に精一杯で、自分から『この曲を弾きたい』と思った事なんて無かった。でも今は、弾きたい曲がたくさんある。19世紀の音楽家の皆さんが下さった、この楽譜……! 遠く離れていても、曲を弾けば時空を超えて、あの人たちの心に会える気がする)
その考えは、鍵一を心からホッとさせた。楽譜を大事に包み直そうとして、ふと他の品々にも気づいた。19世紀パリの最新式の、ステッドラー社の鉛筆。天然ゴムで出来た、高価な白い消しゴム。※7そして、
(帆立貝……?)
その二枚貝の側面に、踊り出さんばかりの陽気な筆跡のメッセージが書きつけてある。
『ウルトラマリン・ブルー※8。その名のとおり、海を越える色よ。日本に帰っても、アタシのこと忘れちゃイヤッ』
(ドラクロワさんだ♪ するとこの中身は)
貝殻をひらいて、はッと鍵一は目をみはる。あざやかなその青色の絵具の奥に、ジョルジュ・サンドから贈られた手紙の一節がたゆとうた。※9
『突然のお便りでびっくりさせてしまったかしら。青く輝く水平線を、この海辺の仮宿のテラスから眺めていたら、どうしてもあなたに手紙を書きたくなりました。なぜって、あなたの髪も瞳も漆黒の夜の色なのに、わたしの心の中のイメージでは、あなたは常に明るい群青色を纏っているのよ。今わたしの目にしている青く暖かな海の彼方から、あなたはパリへ旅して来たんですものね。……』
……じつのところ、鍵一はこの帆船の最終目的地、ル・アーヴル港まで乗ってゆくかどうか、今まで考えあぐねていた。パリから順当に進んだとして一日半、下手をすれば三日はかかる行程を待たずとも、鍵盤ハーモニカを吹きさえすれば、すぐさま現代日本へワープ出来るからである。
しかし今、この青を見てハッキリと気が変わった。
(海の色をこの目で見てみたい。行ってみよう、ル・アーヴル港まで……!)

つづく

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