ピティナ調査・研究

第34話『鹿と福耳―ヒラー氏の肖像(Ⅲ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。
パリ・サロンデビューをめざしてオリジナル曲を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。ル・アーヴル港ゆきの船内にて、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1の構想は着々と進む。パリ滞在中に書き溜めた備忘メモを整理しながら、鍵一は19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表そうと試行錯誤する。変奏曲の1つ、『ヒラー氏の肖像』の構想を練りつつ、ドイツの音楽家フェルディナント・ヒラー氏がパリへ戻って来た日の出来事が、あざやかに思い出された。
鹿と福耳―ヒラー氏の肖像(Ⅲ)♪

――回想 フェルディナント・ヒラー氏の肖像(1838年6月)

♪ショパン作曲 :エチュード集(練習曲集) 第12番「革命」 Op.10-12 CT25

途中まで弾いて、いたたまれずに鍵一は手を止めた。
「……重要なパートが全然鳴ってないですよね」
「ケンイチ君、すべての鍵盤を同じタッチで弾こうとしてるからじゃない?」
ヒラー氏のふっくらした手が伸びて来て、鍵盤の低音域から高音域まで、さまざまに鳴らしてみせる。
「ほら、鍵盤によって鳴る音と鳴りづらい音がある……だから一音ずつ、微妙に打鍵の力加減を調整しないといけない」
「鍵盤の重さが均一であれば、タッチの調整が比較的しやすいのですが……」
「難しいよねえ。でもケンイチ君は指の訓練がしっかり出来ているから、慣れれば大丈夫だと思うよ。指先の神経をとぎすまして、打鍵の瞬間に音をつかまえる。叩きつけるように強く打鍵しちゃだめだよ。子猫が小さな足で春の野原を駆けまわるように、かろやかに音を踏んで行く」
と、鍵盤に指を置くや、エチュードの冒頭のアルペッジョを世にも澄んだ音色で弾いてみせた。

♪ショパン作曲:エチュード集(練習曲集) 第1番 Op.10-1 CT14

「ヒラーさんが弾くと綺麗に鳴るんですよね……」
「ハハハ、おれが弾いたって、鳴らないところは鳴らない。たとえばこの低音域の近接する和音」
鍵一の目の前でヒラー氏の指が鍵盤を押してみせて、たしかに音は濁った。
「このピアノの弦の張り方の都合上、どう弾いても音が濁るよねえ。おれはこのピアノとは長い付き合いで、このあたりが鳴りづらいのを知っていたから、こないだのね……『猫』がテーマの即興では、弾き語りにして誤魔化したの」
「あッ、なるほど!」
「ハハハ、歌も入れてさらに誤魔化した。高音域はうまく弾けば綺麗に鳴るからね、高音域のタームは、歌も語りも無しでたっぷり弾く。するとパフォーマンスと相まって、なんだかおもしろく聴こえる」
「勉強になります……!」
「曲の流れと構成を考えながらね、鍵盤の鳴りやすいところと鳴りづらいところをうまく探り当てて、鳴るように弾けばいい」
「鳴りづらいといえば全部鳴りづらいのですが……特にオクターブのロングトーンが鳴らないです。響きが止まってしまって。スタッカートで打鍵してすぐダンパーペダルを踏むと音は伸びますが、そうすると曲の流れに合わなくて」
譜面台に楽譜をひろげて、鍵一は問題の箇所を弾いてみせた。

♪カルクブレンナー作曲 :ハンドガイドの補助を用いてピアノを学ぶためのメトード Op.108

「たとえばここです、なんともいえない違和感が」
「ああ、そこね、このピアノで弾くときはオクターブじゃなくてもいいと思うよ。たとえば、こういうアレンジはどう?」
と言うなり、ヒラー氏の肉厚の手が巧みにフーガを織りなしてゆく、それがどうやら即興なのだと、にわかに鍵一には信じられなかった。
「カルクブレンナー氏がドイツのご出身なのでね、ドイツ繋がりでバッハ大先生の『マタイ受難曲』を彷彿とさせる……こんな感じで」
と朗らかに弾き流して、
「あからさまではない感じに織り込むとお洒落だねえ。パリではまだ『平均律クラヴィーア曲集』くらいしかバッハ大先生の作品は知られていないから、古典は却って耳に新しいかもしれない。名曲『マタイ受難曲』さえ、メンデルスゾーン君が百年ぶりに復活させてようやく、その真価が世に知られたのだからねえ」※2
ヴィルトゥオーゾの貴重なアドバイスが、しかし焦る鍵一の耳からこぼれおちてゆく。
「でも、この楽譜にはオクターブと書かれていますので……」
「大丈夫、大丈夫。カルクブレンナー氏自身も、あちこちのサロンでアレンジしながら弾いてるから」
「それはその、作曲者ご本人だからアレンジが許されるのであって、他人が楽譜を勝手に変えて弾くとまずいのではないでしょうか」
「そうだね。もちろん、信念と敬意を以て、先人の楽譜を正確に弾くのは尊いことだとおれも思うよ。楽譜に込められた作者の精神を汲み取るには、まず楽譜どおりに弾けることが必須だと思う。
ただ、音楽家とは優れた弁論家であるべきだからねえ」
「弁論……?」
「説得力をもって、語りたいことを語るために。演奏はあくまでも臨機応変にね。そのための即興だよ。それに、ピアノはまだまだ発展途上で、個体差の大きい楽器だし」
「ピアノの個体差……ですか?」
「行く先々のサロン・ホールにどんなピアノが置いてあるのか、メーカーくらいは事前に知ることができたとしても、弾いてみないとピアノの個性まではわからないからねえ。
始めて招かれた場所でピアノの前に座ったら、まず最初にぱらぱらっと流行曲のさわりなんかを弾き流してみてさ、ピアノの様子を見るんだ。文学作品にちなんだテーマを即興でアレンジしたり、古典を引用するのもいい。そうしてピアノの特徴……低音域のオクターブは伸びないとか、高音域にゆけばゆくほど鍵盤が軽いとか、同音連打がしやすいとか……をつかんだら、そのピアノが鳴りやすいように、即興でアレンジしちゃっていいんだよ。楽譜にない音を足したり、楽譜に書かれている音を削ったりしても、それが音楽的に美しければ、サロンでは誰も咎めないよ」
必死にうなづきながら、鍵一の脳内にはまだ『ピアノの個体差』についての疑問が大音響で鳴り響いている。
「あの、すみません。ピアノが発展途上の楽器で、音楽家とピアノ・メーカーが二人三脚で開発に取り組んでいる……ということは理解できたのですが……その、音楽家の皆さんでアイディアを出し合って、各社のピアノを改良していらっしゃるんですよね」
「そうそう、そのとおりだよ。ショパン君とプレイエル社、リスト君とエラール社みたいに、がっつりとビジネスで組んでいる例もあるし」
「そもそもの疑問なのですが……ピアノってそんなに、個体差の大きい楽器なのでしょうか?多少弾き心地が違うということはあるにしても、その……楽器の特性を、そんなに考慮しないといけないものなんでしょうか」
「そうだねえ。まずメーカーによって構造が違うから、弾くときにはその特性を考慮する必要があるね。
たとえば、プレイエル社のピアノの構造はとてもシンプルだから、打鍵のタッチがそのまま音に反映されるんだ。弱音の美しさを追求するなら、プレイエルのピアノが良いねえ。こぢんまりしたサロンで演奏するのに向いていると思う。
対してエラール社のピアノは、あの技術革新の聖地・ロンドンで初代エラール氏が開発しただけあって、構造がもう少し複雑なんだ。特にイギリス式のアクションの改良がめざましい。速い連打や大音量で大勢の観客を驚かせたければ、エラール社のピアノが良いねえ。
個々の楽器の特性については……ピアノに限らず、すべての楽器はひとつひとつ個性の違うものだと思うけれど。日本ではそうじゃないのかな?」
「ええ、そう、そうですね……ええと……」
口ごもりながら、ここへきて鍵一にもようやく、19世紀パリのピアノ事情が呑みこめてきた。
(1830年代のピアノ改良は、ほんとうに日進月歩の状況なんだ。だからピアノの個体差が大きい。ということは……この時代のピアノを相当弾き慣れた上で、即興のテクニックも身につけないと。貴族や芸術家のサロンで演奏を披露するなんて、夢のまた夢……)
考え込んでいる肩を、ヒラー氏の温かな手がかるく叩いた。
「いや、ケンイチ君、そんなに悩まないで。日本のピアノとパリのピアノが違うのは当たり前だし。
一ヵ月前に聴かせてもらった『猫のワルツ』ね、あれはとても良かったよ。猫に絡めたケンイチ君の物語と、ショパン君の『猫のワルツ』がつながっているのがおもしろかったし。ピアノの腕前は、パリ音楽院の生徒に比べても遜色のないものだと思った。おれもリスト君もアルカン君も、日本人の演奏を聴いたのは初めてだったけれど、海の向こうにもこれだけ真剣にピアノを学んでいる人がいるんだということを目の当たりにしてねえ、良い刺激をもらったんだ。
あとはほら、慣れと場数の問題だから。このレストランでプレイエルのピアノをどんどん弾いてさ、サロン・デビューに備えるといいよ」
焦りの渦巻く鍵一の耳を、音楽家の声がすり抜けてゆく。目の前のプレイエルのピアノの鍵盤は沈黙したまま、ニャンとも鳴かないように思われた。
(どうしよう……19世紀のピアノを弾きこなせないと、まわりに音楽家として認めてもらえない。音楽家として認められないと、サロンに招いてもらえない。上流階級の方や芸術家の方と交流できない。せっかくワープして来たのに、この時代の情報収集をするというミッションが……)
「そういえば、ケンイチ君のオリジナル曲をまだ聴いていなかったねえ。よければ、今ちょっと弾いてみてくれる?」
会話の方向を一瞬見失って、鍵一はあやふやに相手の言葉をくりかえした。
「オリジナル曲……ですか?ぼくの?」
「ほら、こないだ聴かせてもらったのは、ショパン君作曲の『猫のワルツ』だったから。ケンイチ君自身の作品を、聴いてみたいなと。ハハハハ、大丈夫、ここはパリ音楽院のコンクール会場※3でもサロン・ホールでもないから。気楽に、気楽に」
「持……ッてないです」
「楽譜を?」
「いいえ、すみません、ぼくは幼いころからピアノを学んできましたが、作曲家……ではありませんので……自分のオリジナル曲は持ってないのです。師匠のB先生はもちろん、ピアニストでもあり作曲家でもある御方ですが、ぼくは作曲を専門的に教わったことはなくて……
その、日本で練習してきた曲で、楽譜を見ずに弾ける曲なら、少しあります、ベートーヴェン先生のソナタとか、ショパンさんのエチュードとか、リストさんの……ええと、あまりに超絶技巧というのは技術的にまだ無理ですけど、それでもよいでしょうか?」
しどろもどろに言いながら、ひざこぞうの裏を汗が伝ってかゆい。対してこのドイツ出身の、若くして『博学のヒラー』と讃えられるヴィルトゥオーゾは、鍵一の話に福耳を傾け、この世界の謎にみちた事象を了解し、はるか彼方の東方世界に思いを馳せたのち、なごやかにうなづいて、
「日本では、音楽家の分業が進んでいるのだねえ」
と、穏便な感想を述べるにとどめた。
「オリジナル曲がないとデビューは出来ないんですね?」
早口になった鍵一を、「まあ、まあ、ケンイチ君」とピアノ椅子に座らせて、ヒラー氏は殊更ゆったりと話した。
「そうだね、このパリ……少なくともヨーロッパでは、音楽家と名乗るには演奏だけではなく、作曲も出来ることが必要だねえ。サロン・デビューをめざして外国から来る若手音楽家は、かならず自分のオリジナル曲を携えているものだから。ケンイチ君もいずれ、作曲に取り組むことになると思うよ。
オリジナル作品が必要だというのは、文学や絵画の世界でも同じことだねえ。いかにすぐれた文章技術を持っていようとも、書けるものが『ファウスト』の二番煎じでは、本を出版することはできないだろうし。いくら『モナリザ』を上手に模写できても、永遠にローマ賞は獲れない」※4
「でッでは、ぼくも早急にオリジナル曲を創らないといけませんね……!」
「ケンイチ君、作曲の勉強はどの程度?」
「はいッ、理論はざっくりと。対位法も教本だけは持っています。曲を書いたことはありませんけども」
「焦らなくていいと思うよ」
と、向日葵のような笑顔を向けて、ヒラー氏は両手を広げた。
「きみの故郷の日本とこのパリでは、あらゆることが違うんだ。言葉も生活習慣も食事も……カルチャーショックをあなどっちゃいけないよ。そうして、今だという時がきたら創作にとりかかればいい。新しいものを創り出すには体力と気力が要るからね。来るべき時に備えて、じっくりと英気を養っておくことをおすすめするよ」
鍵一が弱々しくうなづくのと同時に、柱時計がボーンと鳴って「オヤッ、もうこんな時間か」、ヒラー氏は天を仰いだ。
「また連絡するよ、ケンイチ君」
「待って下さい」
シルクハットを被ってゆこうとする袖に、思わず鍵一はすがりついた。
「ぼくに課題を与えて下さいませんか」
「課題?」
「リストさんがしばらくお戻りにならないのであれば……その、ぼ、ぼくこれから、どうしたらいいですかね?」
ヴィルトゥオーゾは鍵一の顔を穏やかに見まもると、「課題というほどではないけれど」と、ピアノの燭台置きに手を掛けた。
「このピアノと遊んでごらん」
「遊ぶ……ですか?」
「あと、悪いけど用事を頼んでいいかな?」
整理したばかりのトランクを開けると、中から色々を出してテーブルに並べる、
「この手紙をアルカン君へ、この包みはエラール氏の事務所へ、この楽譜はパリ音楽院のヅィメルマン教授へ。もしショパン君に会う機会があれば、たまには『外国人クラブ』に顔を出すよう伝えておいて。リスト君は放っといていいや。これ、手間賃ね」
鍵一の手にコインをしっかりと握らせて、音楽家は風のように去って行った。呆然と手のひらを見れば、金貨にナポレオン一世の肖像。

(遊ぶ……?)
陽の光にかざしてみたナポレオン金貨を、ぱちりとテーブルに置いた。同時に溜息が漏れた。
(そういえば、リストさんも同じようなことを仰っていた……
『ケンイチ君の演奏はな、まじめすぎやねん。もっと遊び心というか、音のゆとりがほしい』と。
でも、ピアノで遊ぶって何だろう? ぼくにとってピアノは遊び道具じゃないんだ。これでも一応、プロのピアニストを目指して鍛錬してきたんだから……)
テーブルにもたれたまま考え込んでいる鍵一の耳を、明るい薫りがふんわりと吹き抜けてゆく。裏の井戸の傍で、桐の花が吹き揺れている。
……と、勝手口からヒョッと現れた影があった。鍵一の目の前をそれは悠々と横切って、
(フェルマータ!)
跳ね上がるやピアノの鍵盤をたわむれに踏んでゆく。かろやかな足取りが偶然にもペンタトニック・スケール※5らしき音を踏んで、そのままヒョイとテーブルへ、テーブルから窓辺へ跳び移ると、しっぽをふわりと揺らして、外へ出て行った。
あっけにとられて、鍵一はしばらく窓辺を眺めていた。デタラメに、かろやかに踏まれたペンタトニック・スケールが、ふいに陽気な響きを伴って、この初夏のレストランに躍るように思われた。耳たぶをちょっと掻いて、思いつくままに小さく弾いてみる。

♪猫踏んじゃった 猫踏んじゃった
♪猫踏んだらピアノが鳴いちゃった ニャア

「……」
つづきを弾いてみる。

♪猫気にしない 猫気にしない パリの初夏のかほり
♪いつに なれば サロン・デビューできる?
♪いつか ぼくも 楽聖と呼ばれたい
♪猫の眼と手と音にご用心

すると唐突に、アイディアが浮かんできた……!
(このプレイエルのピアノで、近現代の曲を弾いたらどうなるんだろう)
胸が高鳴る。窓辺へ走り寄って耳を澄ませて、人の気配はなかった。思いきって、窓をきっちりと閉めた。扉に錠を下ろす。親に隠れてイタズラをする子供のように、ソワソワと鍵一はピアノ椅子に座った。

♪ラフマニノフ作曲:ピアノ協奏曲 第2番より第1楽章

(やっぱり、このピアノは協奏曲には不向きだなア。オーケストラの音量に負けてしまう。そもそも、大きなホールで弾くことは想定されていないピアノなのかな。こういうレストランや、こぢんまりした空間でこそ活きる)

♪チャイコフスキー作曲 :ピアノ協奏曲 第1番 Op.23 変ロ短調

(悲しいほど冒頭の和音が鳴らない!こんなチャイコフスキーがあるかしら。なんだかもはや可笑しい……)

♪ドビュッシー作曲 :神聖な舞曲と世俗の舞曲

(うわ、和音が濁ると台無し……)

♪メシアン作曲 :鳥のカタログ 第7巻「ダイシャクシギ」

(シギというよりは、ツバメ……? どちらも旅鳥ではあるけど)

♪武満徹 作曲 :雨の樹 素描

(鳴らない……けど、これはおもしろい、かも)
落胆とともに、それでもむずむずと笑いがこみあげた。試しにペダルを踏んでみる。
(うーむ、ダンパーペダルを踏むと幻想的な音の伸び方になるけれど、なにか別の曲になってしまうような。どんな曲なら、このピアノでうまく鳴るかな……?)
ぱらぱらと鍵盤を鳴らしてみていてふと、ひらめいた曲があった。
(B先生が教職を退かれる前、門下生を集めた最後の演奏会のアンコールで弾いていらした)

♪B氏 作曲 :パラパラチャーハン(ピアノ曲集『B級グルメ -中華編-』より)

弾き始めてすぐ、鍵盤が指になついた。
(鳴る……!)
このピアノのやわらかな弦が、初夏の光を映してきらきらと波打つのが見える。
(この低音域の濁りがちな鍵盤を効果的に鳴らすと、重い中華鍋の火力がじわじわ上がって来る感じが出る……!オクターブの連続は、冷蔵庫の残り物の具材のゴチャゴチャ感……アルペッジョはご飯のパラパラ感。見える、見えるぞ……美味しくパラリと仕上がったチャーハンが……!
そうだ、こうしてピアノの特長と曲の特長を噛み合わせればいいんだ。じゃ、たぶんあの曲も)

♪ラヴェル作曲 :水の戯れ ホ長調

(鳴る……!ぼくの技術ではまだ、ゆっくりとしか弾けないけど、ピアノが応えてくれる……!高音域のアルペッジョはヒラーさんの仰ったとおり、一音ずつタッチを調整しながら音をつかまえれば、すごく綺麗に鳴るんだ。じゃ、きっとこの曲も……)

♪ショパン作曲 :幻想即興曲 (遺作) Op.66 CT46 嬰ハ短調

(鳴らない……のは、ぼくの弾き方がまずいせいだな。このピアノならきっと綺麗に鳴るはずだから)
深呼吸してふと、フランクフルトみやげの鉢植えと目が合った。土の中でひょろ長く伸びたホワイトアスパラガスが、鍵盤に置かれた自分のたよりない指に似ていた。
(……つめ、伸びたな)
遠くから水売りの呼び声が、のんびりと届いて来た。……


(あの日以来、プレイエルのピアノを少しずつ弾き慣れて……ぼくはなんとか、エチュードの練習ができるようになったのだった!
いま思えばヒラーさんは、大事なことをたくさん教えて下さっていたな。あのときは、言われたことの半分も吸収できなかったけれど……)
五線紙の上で猫のフェルマータがスヤスヤと寝入っている。その前足を鍵一がチョンとつつくと、この猫はくすぐったそうにくるりと寝返りを打った。
帆船の書斎はすっかり暗くなっていた。
夕闇が沁み込んで湿気てしまった暖炉を覗くと、薪の最後の一本がほそく燃え落ちるところ。鍵一は隣の談話室の暖炉から火種と薪を持って来ると、手際よく火を起こしてデスクの燭台に灯した。夜をすすむ帆船がゆっくりと軋む。ろうそくの明かりが揺らめく。
『1838年6月 ヒラー氏からの聞き書き』
のメモに、鍵一は覚えているかぎりのことを書き加えた。

  • バーデン=バーデンは、ドイツの有名な温泉街
  • ドイツ版『春の七草』で作る緑のソースは、文豪ゲーテ先生の大好物
  • ホワイトアスパラガスは、フランクフルトの春の風物詩
  • バッハの『マタイ受難曲』は、忘れられた幻の名曲だった→メンデルスゾーンが百年ぶりに復活上演→バッハの再評価につながった
  • 19世紀のピアノは発展途上。個体差が大きい。メーカーごとに特徴が異なる(例・プレイエル社とエラール社)
  • 白身魚のポトフは、ショパンさんの大好物
  • レストラン『外国人クラブ』のプレイエルのピアノは、パラパラチャーハン系の曲ならよく鳴る
  • 音楽家は、すぐれた『弁論家』であるべし。説得力をもって、語りたいことを語るために、演奏は臨機応変に→即興のテクニックが必要
  • パリのサロンで若手音楽家がデビューするには、オリジナル曲の作曲が絶対に必要

♪ヒラー作曲 :ワルツ Op.188

書きながら五線紙のそこかしこに、明るいメロディが浮き上がって来る。
(そうか、ワープ初日に見たヒラーさんの即興のパフォーマンスはきっと、サロンで行われていることと同じなんだ……!ぼくもいずれ、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』を携えてサロンに行くときは、ヒラーさんと同じことが出来ないといけない。初めてふれるピアノの特長をさっと見きわめて、即興のアレンジを加えながら、演奏で自分の語りたいことを語る。
即興……あんなに上手くできるかは自信がないけれど。アレンジをあらかじめ数パターン用意して、その場でどれを弾くか決める……のであれば、ぼくにもできるぞ。
たとえば、ヒラーさん作曲のワルツをアレンジするとして。ぼくが演奏で語りたいことは、ヒラーさんの魅力。あの方についての印象的なできごと)
ぐるりと考えを巡らせてみて、『鹿の群が』のくだりを思い出した。1838年6月の晴天の午後、仮眠中のヒラー氏の夢の中に現れた、鹿の群。
(よし、牧歌的な狩の歌にアレンジしてみよう。ヒラーさん、楽しんで下さるかな?)
ドイツの音楽家の豊かな笑い声をなつかしく耳の底に響かせながら、鍵一は『夢の浮橋変奏曲 構成案』に書き加えた。

第?変奏:ヒラーの肖像(音楽家・博学多才のドイツ人)
――狩の歌・鹿・福耳

つづく

◆ おまけ
  • オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』
    19世紀の音楽家・チェルニー氏から贈られたモチーフを活かし、鍵一が作曲するオリジナル曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
    実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。オーディオドラマやコンサート等でお聴きいただけるよう、現在準備中です。
    神山 奈々さん(作曲家)
    片山 柊さん(ピアニスト)
  • メンデルスゾーンと『マタイ受難曲』(J.S.バッハ作曲)
    メンデルスゾーンは14才の時、祖母より『マタイ受難曲』の写本を贈られた事をきっかけに、この曲に関心を持ちました。1829年には『百年ぶりの復活上演』と銘打って『マタイ受難曲』の上演をおこない、文字通りこの曲を復活させます。この演奏会をきっかけに、ドイツ各地でバッハを再評価する動きが起こりました。
  • パリ音楽院のコンクール
    パリ音楽院内で定期的におこなわれていた修了者選抜試験を指します。
  • ローマ賞
    フランスのルイ14世によって1663年に創設された芸術新人賞。1838年当時は、音楽、建築、絵画、彫刻、版画の各ジャンルで、若手芸術家へ賞が与えられました。
  • ペンタトニック・スケール
    5つの音から構成されている音階。民謡などによく用いられます。

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