ピティナ調査・研究

第3話 ねこのワルツ♪

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
ねこのワルツ♪

「『Le Club des étrangers(外国人クラブ)』へようこそ、ケンイチ君♪」
リストがレストランの扉を押しひらくや、琥珀色の湯気が流れてくる。
鍵一が伸び上がってその薄暗い店内を覗きこむと、ふたりの紳士と目が合った。
(!)
「遅いよリスト君」
「ふたりとも、すまんなあ。そこの音楽院で、素敵なアクシデントに遭ってしもてな♪」
「あやうくきみを待たずに『大彗星のヴィンテージ※1』を開けちゃうところだったよ♪」
大柄の紳士が向日葵(ひまわり)のように明るく笑うと、細身の紳士が紫陽花(あじさい)色の瞳でふわりと鍵一を見遣って、
「リスト君は音楽院の悪魔に呪われてるんだよ。おでこに魔除けのお札でも貼っておいたら?※2
いたずらっぽく微笑んでいる。
鍵一は緊張しながら、そっと店内を見渡してみた。
(19世紀パリの外国人の音楽家は、こういうところで音楽談議に花を咲かせるんだな。
先客はふたりだけ……まさに秘密の隠れ家!
でもこのおふたり、誰なんだろう??)
「この子、日本人ピアニストのケンイチ君ていうねん♪」
と、ふいに名前を呼ばれて鍵一の心臓が1オクターブ跳ねる。
「パリの芸術事情を勉強するために、はるばる旅して来よってん。でも目下、ねこ探し中やねん。仲良うしたって♪」
「け、鍵一と申しますッ」
鍵一が勢いよくお辞儀すると、大柄の紳士は「おお、初めて見た!日本人のおじぎ」めずらしそうに身を乗り出して、細身の紳士はそっと鍵一に椅子をすすめてくれる。
「よっしゃ、今夜はケンイチ君の歓迎会や♪」
リストはシャンパーニュ・ボトルのコルクをスポポーンと抜くと、皆のグラスになみなみと注ぎ始めた。金色の泡がきらきらと華やいでいる。
「ケンイチ君、あんたほんまにラッキーやで。パリに来て初日に、当代一流の音楽家ふたりとテーブルを囲めるなんて♪」
「はいッ、光栄です……!」
(この人たち、きっと有名な音楽家なんだ!でも誰なんだろう?
うう、音楽史はまじめに勉強したはずなのになあ)
鍵一の困惑をよそに、リストは大柄の紳士の肩へヒョイと手をかけて、
「紹介したる♪まずはこの猫だるまみたいな太っちょの好青年! 会いたかったやろ?」
と、 giocoso ※3で紹介してくれようとする。
(うう、これは難問だ!)
鍵一の全身から agitato ※4で汗が噴き出しはじめた。
(この時代の有名な音楽家というと、ロッシーニ?にふくよかさは似ているけれど、お顔立ちが違う。メンデルスゾーン??みたいな品の良さもあるけれど、この人はもうすこし庶民派?? うう、誰だか本当にわからない、けど『知りません』とは言いづらい……ッ)
「すみません!緊張のあまり、お名前を失念いたしましたッ」
「だいじょうぶかケンイチ君。この御方こそ『多芸多才の万能ドイツ人♪』、フェルディナント・ヒラー君※5やん♪」
(初耳!)
「ハハハ、おれの名前なんて覚えなくていいよ。それでなくとも、外国人の名前って覚えにくいよなあ」
「い、いえいえいえ、いまいま思い出しました!」
おおらかに笑うその音楽家の名前を、鍵一は胸に刻み込んだ。
「ヒラーさん、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」
「いいね、初々しいね。おれが初めてパリに来たのは、ケンイチ君と同じくらいの歳だったよ。
なんてったって最初に驚いたのは、パリの物価が高いこと!
だって、カートッフェルズッペ※6がレストランで10フランもするんだよ?
ドイツの実家では湯水のように飲んでいたあのカートッフェルズッペが、パリに来ると高級料理としてメニューに載ってるんだからねえ、本当にびっくり。
こーんな上等なスープ皿にちょーっとだけ、お洒落にパセリなんか散らしちゃってさ、銀のスプーンでちまちま掬うの。
いやいや違うでしょ!って。カートッフェルズッペってのは、お椀にたっぷりよそってグイグイ飲むもんだっつの!ハハハハ!
ま、そういう食事ひとつ取ってもさ、パリでの10年間は大冒険だったよ。
ケンイチ君もいろいろカルチャーショックがあるかもしれないけど、頑張ってね。
困ったときは、おれたちが相談乗るからさ」
「あ、ありがとうございます」
(カートッフェルズッペといえば、B先生の得意料理!ドイツの方にとっては、お味噌汁みたいなものなんだな)
allegria ※7で差し出された肉厚な手を握ると、まるでアツアツのスープのように、この紳士の手は熱かった。
「ケンイチ君♪」
と、リストは楽しそうにバゲットをかじっている。
「そのシャルトリュー猫※8みたいなスレンダーな美青年も、日本で有名やろ?♪」
紫陽花色の瞳が静かな光をたたえて、鍵一を見つめている。焦りながら鍵一は必死に音楽史の知識を探った。
(わああ、いよいよ難問だ! シューマン?にしては線が細いし、ベルリオーズ?にしては落ち着いた雰囲気。誰かに似ている気がするけれど……)
「すみません!さっき転んだときに記憶が飛びましたッ」
「だいじょうぶかケンイチ君。あんたもおでこに魔除けのお札貼っときなはれ。
何を隠そうこの御方こそ、『フランスの至宝!ほほえみの修行僧♪』こと、アルカン シャルル=ヴァランタン君やで♪※9
(こちらも初耳!)
「初めましてケンイチ君。僕はパリ生まれ、パリ育ちの音楽家だから、本来は『外国人クラブ』に入会する資格は無いのだけど。
ショパンのすすめでここへ来たら、この隠れ家みたいなコミュニティが気に入った。
サロンより落ち着けて、音楽院に居るより楽しい。ここなら世間の垢にまみれずに、純粋に芸術のことだけを考えていられる。シェフの創作料理も興味深いしね。
きみも入会希望なら、リスト君に頼んでごらん」
「はいッ、ありがとうございます……!」
gentile ※10で差し出された手はひんやりとなめらかで、鍵一はふと、ショパンの白絹の手袋を思い出した。
(それにしてもびっくりした! B先生の仰ったとおり、1830年代のパリにはショパンやリスト以外にも、凄い音楽家が居たんだ。まさに『歴史の空白地帯』……!
よし鍵一、これは大チャンスだ。ヒラーさんとアルカンさんに、ぜひインタビューを……!)
鍵一の足が8分の3拍子で小躍りしかけたそのとき、湯気立つ大皿がテーブルの真ん中にドドンと置かれた。
(ナマズ!?)
「出たっ!シェフ自慢の創作料理♪」
「ねこの話題にあやかりまして」
と、笑顔のシェフがキッチンミトンで汗をぬぐっている。
「今夜のメイン料理は、セーヌ川で釣り上げた巨大キャット・フィッシュ※11
ジャガイモとニンニクと香草を詰めて、まるごとオーヴンで焼き上げてみたよ。
これだけデカけりゃ、4人掛かりでちょうどいいでしょ。甘酸っぱいオレンジ・ソースにたっぷり浸して召し上がれ」
「いただきまーす♪」「乾杯!」「ケンイチ君のねこが早く見つかりますように」
音楽家たちがフォークを差し入れると、こうばしい湯気がたちのぼる。
ほっこりと分厚い白身に爽やかなソースが沁みて、なるほどパリの初夏にふさわしい一皿なのだった。

(よし、インタビュアーとしての初仕事だ!)
ケンイチが「あの」言い掛けると同時に、リストが振り向いた。
「せっかく音楽家が4人そろったんや。ここはひとつ、趣向を凝らそうやないか♪」
(!?)
リストは立ち上がると、店の奥のカーテンをサーッと引き開けた。
「どや♪」
(ピアノ……!)
「リスト君がショパンから買わされたやつね♪」
現れた琥珀色のピアノは、このパリの夜の片隅でひっそりと輝いていた。
現代のピアノより随分小さく、屋根は飴細工のように薄い。緻密な唐草模様の施された胴から、華奢な脚がすらりと伸びている。
「ショパン愛用のピアノメーカー・プレイエル社の新作や♪※12
エラール※13の華やかで頭の回転の速い子に比べると、ウチとしてはちょっと物足りひんけど。素直でおとなしくて、ええ子やで。気長に育てていくつもりや」
リストが両側の燭台に火を灯すと、譜面板の細工の影が大屋根に映った。
(なんて美しい……!)
「どや。自己紹介がてら、このピアノでそれぞれ演奏を披露しようやないか♪」
(ええっ!)
音楽家たちは「いいね!」「やろうか」と言い合って、腕を軽く伸ばしたりしている。
「ケンイチ君がテーマを決めてええで」
「ええと、そうだな、どうしましょう」
慌てて鍵一が見回すと、大皿のナマズ料理に目が留まる。
「テーマは『ねこ』でどうでしょう?」
「いいね♪」
「じゃ、一番手はケンイチ君♪」
「は、はいッ」
(弾くしかない……!でも……)
おそるおそるピアノの前に座るものの、目の前の鍵盤が波打って見える。
(どうしよう、音楽家の方々の前で失敗するわけにはゆかない……!
ふるえよ止まれ!頼むから汗も止まってくれ!)
「ケンイチ君」
「ヒャイッ」
鍵一が振り向くと、リストが気楽にウインクする。
「うまく弾こうと思わんでもええよ♪」
音楽家ふたりも笑顔でうなづいている。
(そ、そうだよね。この人たちが知りたがっているのは、ぼくの音楽家としての個性……)
鍵一もうなづいて、あらためてピアノに向き直った。
(自分がどんなふうに弾きたいのか、が大事なんだ。まずは、このピアノに相談してみよう)
そっと鍵盤にふれてみる。途端に音が鳴る。鍵一のこめかみに衝撃が走った。
(なんて繊細なタッチ!ふれただけなのに音が……いつも弾いているピアノよりずっとキーが浅い。それに、なんてやわらかな音!まるでふわふわの子ねこのしっぽのような……
ショパンがこの繊細な音色を愛しているのも、わかる気がする。
このピアノで『ねこ』を表現するなら……それから、自己紹介……そうだ!)
鍵一は深く息を吸うと、鍵盤に指を置く。ふるえは止まっていた。そのまま、やさしく鍵盤をなでる。ニャーン、とピアノが鳴く。
「……吾輩は猫である。名前はまだ無い」※14
おお?と、3人の音楽家がテーブルから伸び上がる。
「日本で生まれ、海をはるばる渡り来て、どこへ行くべきかとんと見当がつかぬ。
薄暗いパリの夕暮れをむやみに駆けたらゴツンと音がして眼から火が出た。
ニャーニャー泣いているところをリストさんに拾われ」
リストが笑ってうなづく、いいぞその調子♪の掛け声。
「付いてゆくと音楽家の集会所らしき邸宅へ着いた。ここで吾輩は初めて、パリの音楽家というものを見た。しかもそれは、音楽家の歴史の中で一番高貴な種族であるようだ。
この邸宅のうちでしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運命が運転し始めた……!
若輩者の吾輩はご指名にあずかり、3人の偉大なる音楽家の御前にて、3拍子のワルツを奏するのである……♪」

ショパン作曲・ワルツ第4番ヘ長調 Op.34-3 通称『ねこのワルツ』※15

つづく

◆ 注釈

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