ピティナ調査・研究

第15回 《踏まれた猫の逆襲》を入り口に

執筆:杉浦菜々子

《踏まれた猫の逆襲》を入り口に――平吉毅州の子どものためのピアノ作品をめぐって

コンクールの課題曲として出会う作品のなかには、その年の一曲としてだけではなく、もっとその先の世界まで連れていってくれるような音楽があります。2026年度ピティナ・ピアノコンペティションB級近現代課題曲となった、平吉毅州《踏まれた猫の逆襲》も、まさにそんな一曲ではないでしょうか。

なんとも強烈で、一度見たら忘れられない題名。けれど、この作品には題名のインパクトだけでは終わらない魅力があります。まず、その題名と冒頭のテーマから、「弾いてみたい!」と思わせてくれますよね。私の生徒たちもこのタイトルとキャッチーな冒頭に惹かれて、積極的に取り組んでくれます。そこには、平吉毅州の子どもたちへのやさしい愛情がにじんでいるように思います。

しかも今年は、ピティナの課題曲収録によって、多くのピアニストたちの《踏まれた猫の逆襲》を聴き比べることができます。同じ楽譜から立ち上がる、さまざまな"猫"たち。その違いに耳を澄ませながら、この一曲の面白さを味わってみたいと思います。そしてそこからさらに、平吉毅州の子どものためのピアノ作品の世界へと、少し歩みを進めてみたいと思います。

平吉毅州 ピティナピアノ曲事典 ピアノ曲事典
今年の課題曲に現れた、みんなの知っている"猫"

今年のピティナ・ピアノコンペティションB級近現代課題曲のなかでも、ひときわ印象に残るタイトルが、平吉毅州《踏まれた猫の逆襲》です。この曲名を目にして、まず思い出すのは、やはり《猫ふんじゃった》ではないでしょうか。

平吉毅州というと、ピアノの世界では子どものための作品で親しまれる一方、合唱の世界でも《気球にのってどこまでも》や《ひとつの朝》などの作品で広く知られる作曲家です。《気球にのってどこまでも》は1974年度のNHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲でもあり、専門の枠を超えて長く歌い継がれてきました。東京藝術大学大学院を修了し、日本音楽コンクール第1位や尾高賞を受けた、確かな西洋音楽の技法を身につけた作曲家でもあります。けれど、その確かさが難しさとして前に出るのではなく、私たちの耳や身体になじんだ音楽へと結びついているところに、平吉ならではの魅力があるように思います。

《猫ふんじゃった》は、多くの人にとって、最も親しみのあるピアノ遊びのひとつかもしれません。私自身にも、一生懸命練習した記憶があります。もちろん、ふつうに楽譜を見てきちんと弾くピアノ曲とは、少し違うんですよね。あの曲は黒鍵が多くて、譜読みをして弾くとなると案外むずかしい。けれど私たちは、目で見て、音で覚えて、手で真似して、いつのまにか弾けるようになっていく。そんな独特の体験をしてきたのではないでしょうか。

だからこそ、《猫ふんじゃった》には、単なる有名曲以上の親しさがあります。譜面の中にある作品というより、耳と身体の記憶の中にある音楽、とでも言いたくなるような存在です。その、とても身近な遊びの音楽を、平吉毅州が《踏まれた猫の逆襲》として、ひとつの"正当なピアノ曲"に仕立てている。そこに私は、平吉の子どもたちへの大きな愛情を感じます。

子どもたちがすでに知っている音、親しんでいる感覚を出発点にしながら、そこに新しい音楽の面白さと、作品としての確かさをしっかり与えているのです。ユーモアがあって、親しみやすい。でも、それだけでは終わらない。そんな平吉毅州らしさが、この一曲にはすでに見事に表れているように思います。

平吉毅州の子どものためのピアノ曲集と、その描写力

《踏まれた猫の逆襲》が収められている《虹のリズム》は、平吉毅州の子どものためのピアノ作品のなかでも、とりわけ親しまれている曲集です。けれど、平吉毅州の子どものための曲集としては、《南の風》《虹のリズム》《春になったら…》という三つの世界があります。

なお、私自身、この三つの曲集を全曲録音し、配信アルバムとしてリリースしています。一曲ずつ親しむのも楽しいのですが、曲集全体を通して聴いてみると、平吉毅州の子どものためのピアノ作品の豊かさが、より立体的に感じられるように思います。全曲はこちらからお聴きいただけます。

【アルバムリンク】平吉毅州: こどものためのピアノ作品集/杉浦菜々子 配信で聴く

これらの作品に触れていると、私はいつも、平吉毅州という作曲家の描写力の豊かさに驚かされます。しかもそれは、ただ景色を描くというだけではないんですね。空気の温度や湿度まで伝わってくるような作品があれば、そこに生きるものたちの動きが、目に見えるように感じられる作品もあるのです。

温度感、湿度感、空気の気配

たとえば《南の風》には、その題名のとおりのやさしさやあたたかさがあります。ただ風が吹いているというだけではなく、その風の温度まで感じさせるようなところがあるんですね。さらに、《四月のセレナーデ》には、やわらかな季節の移ろいのような空気の中に、4月からの新しい出会いに対する期待や不安の気持ちがのって歌われているようです。《潮風のサンバ》には蒸し暑い熱気が、《夏の夜のハバネラ》には湿り気を含んだ夏の夜の生暖かい空気が漂います。平吉のすごさは、風景を"見せる"だけでなく、その場の空気そのものを音楽にしてしまうところにあるのだと思います。

野性味、自然の荒々しさ、そしてミステリアスさ

一方で、その描写力は、自然のワイルドさや荒々しさ、そしてミステリアスな気配にも向かいます。《ジャングルの闇の中に》や《サヴァンナをゆく》、さらに《はるかなるアフリカ》のような曲を思うと、平吉作品には、野性的な力強さと、自然界の壮大さや緊張感があると感じます。

景色の広がり、海や舟のイメージ

平吉毅州の作品には、自然の細部だけでなく、少し大きな景色の広がりを感じさせるものもあります。《海の伝説》《夕映の湖》《秋の光に落葉が舞って》には、それぞれ異なる光や水辺の気配があり、《見捨てられた小舟》や《秋の舟歌》には、舟をめぐる静かな物語のようなものが漂います。

踊り、動き、生きものたちの気配

そしてもうひとつ惹かれるのは、踊りや動きの要素です。《踊り明かそう祭の夜は》《だれと踊ったの?》などを始め、たくさんの踊りの曲があります。平吉の作品には、ただ美しい情景があるだけではなく、そこに何かが動き、息づいている感じがあります。たとえば《骸骨達の陽気な行進》には、どこかユーモラスで不思議な骸骨たちの踊りのような面白さがありますし、《蛙の親子がポカポカ散歩》では、親子がのんびり歩いているような光景が目に浮かびます。《どんぐりが踊ってる》には、小さなものがはずむように動き出す楽しさがあり、《カンガルー一家のピクニック》には、動物たちの擬人化ならではの愛らしさがあります。そうした場面が、説明されなくても自然に見えてくるような楽しさがあります。

ファンタジーの世界――月とこびと

平吉が何度も惹かれていたように思われるのが、月と小人のいる世界です。《赤い月とこびとの踊り》や《月夜のコロボックル》に触れていると、そこには児童文学のような、ひそやかで魅力的なファンタジーが流れているように感じられます。私はこれらからは、子供の頃読んだ佐藤さとるのコロボックルの物語を思い出します。平吉の音楽の中にそうしたもまた、人間の気づかない小さなものの息遣いが感じられます。

子どもの視点

さらに平吉毅州は、花や草木、笹舟のような小さなものにも、やさしく目を向けています。《タンポポがとんだ》《夕顔の花が咲いたよ》《菜の花がゆれる》のような曲を思うと、そこには大きな出来事ではなくても、ふと立ち止まって見つめたくなるような、小さく繊細な世界があります。また、《チューリップのラインダンス》や《ささぶねの航海》のような曲を聴いていると、子どもの視点で世界を見るということの豊かさにも気づかされます。花が並んで揺れている様子を「これは踊っているんだ」と受け取り、ささぶねが川に流れていく様子に小さな旅を感じる。そんな子どもらしい想像力、その視線が、そのまま音楽になっているように思えるのです。

《踏まれた猫の逆襲》――演奏のヒントといろいろな演奏聞き比べ

《踏まれた猫の逆襲》の面白さは、やはり《猫ふんじゃった》との関係の中で聴くと、いっそう鮮やかになります。よく知られている《猫ふんじゃった》では、アウフタクトの8分音符は下行形ですが、この曲ではそれが上行形になっています。つまり平吉毅州は、あの親しい音型をそのまま借りてくるのではなく、冒頭からもう「逆襲」の気配をしのばせているのかもしれません。踏まれて終わるのではなく、ぐっと身を起こして反応するような感じが、最初のひと動きからすでに感じられるのです。

右手の4分音符は、とても軽く弾くのがよさそうです。重たくなってしまうと、この曲のすばしっこさや、ひょうひょうとしたユーモアが少し損なわれてしまうように思います。軽やかに、けれどただ雑にするのではなく、猫の身のこなしのような機敏さを感じさせたいところです。

11小節目では、左手もテヌートの取れたスタッカートになっているのに気がつきます。ここはヘミオラとして3拍子に感じると、猫が突然ワルツを踊り出したような、ひょうきんな面白さが表現できて、とても魅力的です。この曲には、ただ怒っているだけではない、どこか芝居っ気のようなものがありますが、そうした魅力がよく表れる箇所のひとつかもしれません。

15小節目から、そして21小節目からは、重音のバランスもよく考えたいところです。ただ勢いで弾くだけではなく、それぞれの音がきれいに響き合っているかどうかで、音楽の表情はずいぶん変わってきます。ユーモラスな曲であっても、こうした和声の美しさをきちんと感じさせられると、この作品の造形の確かさがより伝わるように思います。

また、25〜28小節に入るまでの休符の扱いも、この曲の大きな魅力です。休符の長さはだんだん変化し、間が少しずつ長くなっていきます。もちろん長さは正確であるべきですが、ただ数えて合わせるというよりは、"間"としてとらえたいところです。演奏者自身が、その時が止まったような感覚を少し楽しみながら弾くと、この曲ならではのユーモアや緊張感が、より自然に伝わるのではないでしょうか。

そして最後のモチーフも、この曲の大事な"オチ"です。どう演奏すると面白いかな、と少し考えてみる。そうした余白を持ちながら、くすっと笑えるようなユーモラスさを含んで終えられると、この作品にはとてもふさわしいように思います。

今年は、この《踏まれた猫の逆襲》をさまざまな演奏で聴き比べられるのも、大きな楽しみです。ぜひいろいろな演奏を聞いて、この曲の面白さを味わってみてください。そして皆さんも、自分なりの《踏まれた猫の逆襲》を見つけていただけたらと思います。

ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏① を聴く
ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏② を聴く
ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏③ を聴く
ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏④ を聴く
ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏⑤ を聴く
ピアニストによる《踏まれた猫の逆襲》聴き比べ 演奏⑥ を聴く
平吉毅州の子どものためのピアノ作品を支える、歌とリアリティ

平吉毅州の子どものためのピアノ作品には、ユーモアも、幻想も、情景も、生命の動きもあります。そうした多彩な魅力を支えているものは何かと考えると、私には「歌」と「リアリティ」という二つの言葉が思い浮かびます。旋律が呼吸するように歌っていること。描かれるものが、ただの空想ではなく、作曲家自身の実感に支えられていること。そのことが、平吉毅州の小さな作品たちを、単なる教育的な小品に終わらせない理由なのではないでしょうか。

西洋音楽の確かな技法と、親しみやすさ

平吉毅州は、西洋音楽の語法を深く身につけ、その技法を自在に扱える作曲家でした。けれど、その確かさは、いわゆる難解さのほうへ向かうのではなく、私たちがすぐに触れられる情景や感情へと結びついています。洗練されているのに遠くならない。むしろ、身近なもの、小さなもの、日々の感覚に寄り添いながら、それを音楽として生き生きと立ち上がらせているところに、平吉毅州の大きな魅力があるのではないでしょうか。

実感に支えられたユーモアとファンタジー

平吉の作品には、ユーモアやファンタジーがたくさんあります。けれどそれは、現実から離れた空想というより、作曲家自身の中でたしかに感じられた感覚に支えられているように思えます。風のあたたかさ、夏の湿気、踊るものたちの足取り、小さなものを見つめるまなざし、あるいは踏まれた猫が身を起こして逆襲しようとする、その気配まで。そうしたものが、ただ「描かれている」のではなく、ほんとうにそこにあるものとして響いてくるのは、平吉毅州が自分の実感に根ざして音楽を書いていたからではないでしょうか。

そのことを考えるとき、私の中で思い出されるのが、第8回で取り上げた田辺恒也先生のお話です。田辺先生は、ご自身の作品を書くうえで大切なこととして、「リアリティ」という言葉を語ってくださいました。自分のリアリティをもとに作品を書く――その姿勢です。そして田辺先生は、平吉毅州と非常に親しく、深い交流があったともおっしゃっていました。お二人で連弾をされることもあったそうで、平吉氏が結婚の相談までしていたというお話も伺いました。そうした近しい交流があったことを思うと、田辺先生の語る「リアリティ」という言葉が、平吉毅州の音楽を考えるうえでも、ひとつの大きな手がかりとして響いてくるように思うのです。

庶民感覚と、同時代のリズム

また、平吉毅州の音楽には、どこか庶民的な親しみやすさがあります。《踏まれた猫の逆襲》がそうであるように、私たちが親しんできた音の記憶や、生活の中にある感覚を取り込みながら、それを作品へと昇華していく。そこには、同時代の空気や、ポピュラー音楽にも通じる感覚が、ごく自然に息づいているように思います。リズムが身体に入ってきて、歩く感じ、踊る感じ、揺れる感じがそのまま伝わってくる。そうしたところにも、平吉毅州の音楽の"生きたリアリティ"があるのでしょう。

たとえば、平吉毅州の代表的な合唱曲《気球にのってどこまでも》にも、そうした親しみやすさや、自然に身体へ入ってくるリズムの魅力が感じられます。山田和樹の指揮、東京混声合唱団によるこの動画でも、その楽しさが生き生きと伝わってきます。

動画《気球に乗ってどこまでも》 YouTubeで観る
歌心、ピアノに宿る"歌"

そしてもうひとつ、大切にしたいのが歌心です。平吉毅州は合唱作品も多く残した作曲家ですが、そのことはピアノ作品にもつながっているように感じられます。たとえば歌の楽譜によく見られる、一つの音符の上に小さなクレッシェンドとディクレッシェンドを付すような記譜法を、平吉はピアノ作品にも用いています。もちろん、ピアノでは一つの音を出したあと、その一音の中で本当にクレッシェンドしてディクレッシェンドすることはできません。それでもなお、そこには、その一音に気持ちを込めたい、その一音をただ鳴らすだけではなく、ふくらみとニュアンスをもって生かしたいという願いが感じられます。まさに"歌うように"音を扱おうとする感覚が、記譜の上にも表れているのではないでしょうか。

【譜例】

《南の風》25-29小節
(カワイ出版『平吉毅州:「南の風」こどものためのピアノ曲集』より、編集部作成)

《南の風》25-29小節の譜例

《ルルの子守唄》5-8小節
(カワイ出版『平吉毅州:「南の風」こどものためのピアノ曲集』より、編集部作成)

《ルルの子守唄》5-8小節の譜例

こうした記譜からも、平吉毅州がピアノという楽器の中にも、できるかぎり"歌"を求めていたことが伝わってきます。そしてその感覚の源にあるものを、やはり合唱作品に聴くことができるように思います。旋律がどのように呼吸し、ふくらみ、言葉とともに生きているのか。そんな平吉毅州ならではの"歌"を、ぜひ実際の合唱曲でも味わってみてください。

【動画リンク】混声合唱曲 《ひとつの朝》 YouTubeで観る
【動画リンク】合唱作品 YouTubeで聴く
子どものための小品だからこそ描ける世界

平吉毅州にとって、子どものための小品は、単にやさしく書くための場ではなかったのではないでしょうか。むしろそこは、小さなものに目を向け、凝縮された世界の中に、自分の感じるリアリティを注ぎ込むことのできる場だったように思います。短い作品だからこそ、情景も、動きも、感情も、曖昧に広がるのではなく、鮮やかに結晶する。そのことが、平吉毅州の子どものための作品を、単なる教育的な小品に終わらせない理由なのかもしれません。

おわりに

《踏まれた猫の逆襲》という一曲を入り口にして平吉毅州の子どものためのピアノ作品を見渡してみると、そこにはユーモアやファンタジーだけではなく、空気の温度、自然の息吹、小さなものへのやさしいまなざし、そして歌うような旋律が、どれも自然に息づいていることに気づかされます。

そしてこうした作品は、子どもが弾いて楽しいだけのものではないのだと思います。大人が弾いても、その中にはどこか懐かしさがあり、いろいろな情感が呼び起こされ、想像力をかき立てられる。そうして音楽の中に、自分の気持ちや記憶がふっと動かされることもまた、大きな喜びなのではないでしょうか。

平吉毅州の音楽に流れている「リアリティ」は、作曲家自身の実感に根ざしたものとして感じられます。けれどそれは、平吉だけのものにとどまらず、私たちにもどこか通じてくるもののように思います。同じ日本人として、同じような風景や空気の中で生き、また同じ時代を生きる者として、そこに強く共感する方も多いのではないでしょうか。私自身もまた、平吉毅州の音楽に触れるたびに、そうした親しさと実感を覚えます。

だからこそ、平吉毅州の子どものためのピアノ作品は、年齢を超えて心に届くのかもしれません。一匹の猫の"逆襲"から始まる、小さくて豊かな音楽の旅。その先には、聴く人、弾く人それぞれの中にある想像力や記憶を、そっと揺り動かしてくれる世界が広がっているように思います。

【出典】

・平吉毅州 作曲『平吉毅州:「南の風」こどものためのピアノ曲集』カワイ出版、2022年、pp.9, 50-51
※本記事内の譜例は、上記出版譜をもとに、編集部が独自に浄書(データ作成)したものです。


武蔵野音楽大学大学院博士前期課程修了。日本人作品の演奏をライフワークとする。委嘱や新作の初演にも積極的に取り組んでいる。2016年よりピティナ公開録音 コンサートで「日本人作品の夕べ」シリーズとし、数多くの日本人作品を演奏、録音している。ピティナピアノ曲辞典には演奏動画と曲解説が多数登録されている。ナクソス・ミュージック・ライブラリーの代表的アーティストに選出されている。レパートリーはバッハから現代曲まで幅広い。
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