第8話『紫の調べ♪』
師匠のB氏より『過去の時代にワープし、音楽史を完成させる』という極秘ミッションを引き継がれたことから、鍵一の運命は一変する。
19世紀パリの一流の音楽家たちと交流するため、サロン・デビュー修業を開始した鍵一だったが……!?
(残暑お見舞い申し上げます、B先生。お元気ですか?ぼくは1838年のパリでひとり、落ち込んでいます……)
鍵一は手早く調律を済ませると、ピアノの前に座った。真夏のパリの陽光が、エチュードの楽譜に明るい影を伸ばしている。鍵盤に指をすべらせると温かい。そっと弾き始めた音楽は風にさらわれて、19世紀パリの遥かな青空へと流れてゆく。
ヅィメルマン(ジメルマン)作曲 :24の練習曲 3. アレグロ ノン トロッポ Op.21♪
(19世紀パリでの生活は、順調……とはいえません。衣食住はなんとかなりましたが、肝心のミッションが難航しています。夏はパリ社交界が閉じてしまうので、音楽家はみな外国へ行ってしまって。ぼくは誰にも会えていません。毎日毎日、ひとりでエチュードを練習するのみです)
リスト作曲 :すべての長・短調の練習のための48の練習曲(24の練習曲) 第6番 S.136 R.1 ト短調♪
(リストさんは、懇意のご婦人とともにイタリアへ旅行中です。パリ到着2日目、リストさんがエチュードのレッスンをつけてくださる……と思いきや、さる伯爵夫人のお使いの方が迎えにいらして。
『しもた、忘れとった! すまんなケンイチ君、また今度』
と仰るなり、あのスーパー・スターは大急ぎで出掛けてしまいました……!今年の夏はイタリアで活動されるそうです。
フェルディナント・ヒラーさんも……次はいつパリにいらっしゃるのか分かりません。6月にフランクフルトからお戻りになった時、ピアノの奏法についてアドバイスを下さったのがとてもありがたくて、ぜひまた教わりたいのですが。
そういえば先日ヒラーさんがお送り下さった暑中見舞いには、ピアノの上で遊ぶ4匹の猫の絵とともに、
『奏でるや 歌うや猫の夏一夜』
と詩がしたためてありました。さすが博学多才のヒラーさん……!秋のオペラ・シーズンになれば、またお会いできるでしょうか。
アルカンさんは時々おひとりでレストランにいらっしゃるのですが、物静かな方で……じつのところ、話しかけづらいのです。食事の合間にずっと音楽雑誌を読んでいらして、食事が済むとサッと帰って行かれるので。
6月にヒラーさんから頼まれてお届け物をしたとき、アルカンさんとお話しする機会がありまして、少し打ち解けたと思ったのですが……数日経つと、また話しかけづらい人に戻ってしまいました。ピアノと作曲を教わりたいとお願いしたこともあったのですが、はぐらかされてしまって。流れる水のようにつかみどころのない、謎めいた方です。
……ひとまず今は、独りで修練を積む時期ですね。また皆様に演奏を聴いていただけるよう、できるかぎりの努力をしたい、と、思いますが)
思わず大きな溜息がこぼれて、鍵一は弾く手を止めた。
シェフ不在のがらんとしたキッチンに、今日はフェルマータのしっぽも見えない。
(シェフは食材調達でイタリアへ。ああ、ぼくも付いて行けばよかったな。
……えい、くさくさしていても仕方ない。街へ出よう、誰かに会えるかもしれない)
鍵一はカンカン帽をひっつかむと外へ出た。光が目にしみる。熱気が肌を焼く。汗が噴き出す。風の吹く方角へむやみに歩き出すと、自然にオペラ座へと足が向いた。
仰ぐほどにオペラ座は眩しい。閉じたチョコレート色の門扉が、この暑さで今にも溶けそうに見える。
(この場所だ……!)
と、鍵一は額に手をかざして、バルコニーを振り仰いだ。
(3ヶ月前……1838年5月の夕刻。ぼくはこの場所で、ショパンさんに声を掛けられた、『今夜は仮装舞踏会は開催されないよ』って。
あのときショパンさんのくれたキーワード『夢の浮橋』は未だ謎のまま……
ジョルジュ・サンドさんにはハンカチを借りたまま。洗濯して懐へ仕舞ってあるけれど)
「ケンイチ君!日本人ピアニストのケンイチ君でしょう?」
と、背後から快活な声が鍵一の心臓を射抜いた。
ふりむけば黒曜石のような瞳が、悪戯っぽく輝いて鍵一を見つめている。紅いくちびるは微笑んで、次々に言葉を紡ぎ出した。
「リストが『面白い子猫を拾った』って嬉しそうにしていたけれど、やっぱりあなたのことだったのね。よかった、元気そうで」
面食らって鍵一が相手を眺めると、すらりとした美青年。
(どこかで会ったことがあるような……!でも、どなたかしら?
ああ、19世紀パリへ来てからこんな事ばっかりだ。自己嫌悪……)
「すみません!どこかでお会いしました……でしょうか?」
「あらやだ。初夏の薔薇咲くころに、このオペラ座の前で会ったでしょう。あの時は、うちのフレデリックがごめんなさいね」
相手はにっこりと微笑んでいる。その声音が耳の奥から記憶へ結んで、「あッ」と鍵一は声を上げた、
「ご無沙汰しております、ジョルジュ・サンドさん!でもその恰好は……?」
「あら、いけない?1人で出歩く分には、紳士の身形のほうが動きやすいし。それに、目立つ恰好をしてるのはお互い様でしょ」
と、腰に手をあてて、シルクハットをヒョイと斜めに被ってみせる。鍵一はホッと笑いほぐれて、うなづいた。
「『小粋(Ko-iki)』ですね、あなたは」
「何?日本の言葉?」
「格好良いって意味です。でも、フランス語にはうまく翻訳できません」
笑ってこの女流作家は「へえ」と驚いてみせて、
「ね、ケンイチ君。此処で会ったも何かのご縁。わたしの行きつけのカフェ※1でお茶しない?」
と、もう鍵一の腕を取って歩き出した。
大通りを颯爽と行くジョルジュ・サンドに連れられて、鍵一は足を速めながら、道行く人の視線を感じる。
(ぼくじゃない、皆この人を見ているんだ。男装の……異色の女流作家を!)
ふと気恥しい気がして、
「ジョルジュ・サンドさんは、なぜ真夏のパリに留まっていらっしゃるんですか?」
話題を転じようと顔を上げた瞬間、鍵一は石畳のくぼみにけつまづいて「おっと!」相手のほそい腕に支えられた。
「気をつけて。ここから馬車に乗ろう」
ふたりの乗り込んだ辻馬車が、ゆるやかに大通りを走り出す。花屋の店先のバケツに、カフェのテーブルクロスに、すれ違う二輪車の馬のたてがみに、ぬるい川風がまとわりついている。残暑は街のそちこちに濃い陽だまりを創って、セーヌ川すら例外ではなかった。川上から流れて来る光の塊は、いくつもの橋の下を潜って、ますます輝きを濃くしている。
馬車が大きな橋を渡り始めると、ふいに鍵一はなつかしい気持ちにおそわれた。
(この盆地特有の熱気、この川と橋の風景……まるで京都だ。いつも家族で夏休みを過ごしてる、京都の叔父さんの家の辺りに似てる……)
「これぐらい静かなほうがいいのよ。集中して小説が書けるから」
風景に気を取られていた鍵一の耳に、ジョルジュ・サンドの答えは独り言のように響いた。
「マスター、いつもの。それから、このボウヤにアイスクリームをお願い」
テラス席に座るやいなや、作家は葉巻を取り出して火を点ける。鍵一はきょろきょろしながら、革張りの美しい椅子に沈み込んだ。
(想定外の事態……ではあるけれど、これはチャンス!ショパンさんの恋人なら、この時代の音楽家についても詳しいはず……)
「ジョルジュ・サンドさんは、作家さん……ですよね。最近はどんな作品を?」
「音楽家の恋物語」
紫色の煙を吹いて、作家は即答した。
「仮タイトルは『歌姫コンシュエロ 愛と冒険の旅』※2。ま、ボツになるかもしれないけど」
「面白そうですね、音楽家のモデルはショパンさんですか?」
「まあね」
それから作家は外を眺めて、しばらく黙って葉巻をふかしていた。
やがて運ばれてきた珈琲を一口飲むと、言葉をひとつ、ひとつ、拾い集めるような調子で話し出した。
「以前は書くつもりが無かった。フレデリック・ショパンはわたしにとって崇高過ぎて……彼のことを小説に書きたくなかった。
でも今は……そうね、積極的に書こうとしてる。書き残そうとしてる。彼の生きた証をね」
ニコッと笑って、また珈琲を美味しそうに飲む。
「知ってる?誰かが書いて残さなければ、この世のものはすべて無に還るの。
わたしは自分自身が消え失せたって構わない。ただ、ショパンや彼の愛した音楽家たちの姿だけは、未来永劫語り継がれてほしい。だから書く。書いて書いて書きまくる。それを勝手に自分の使命だと思ってる」
さっぱりとした口調で話し続ける、その右手の中指に大きな筆ダコができている。
インクの染み込んだそのタコは赤黒く腫れ上がり、
(小説家もピアニストも、手がすべてを物語る……)
鍵一は目をそらすことが出来なかった。
ようやく運ばれてきたアイスクリームを急いでひとさじ掬うと、シャーベットのようにさらりと崩れる。シナモンの香りがスッと鼻へ抜けて、
(大人の味だ)
と、鍵一は目が覚めたような心地がした。
「……ジョルジュ・サンドさんは、エッセイやコラムもお書きになりますか?」
「どうして?」
「誰かの姿を正確に書き残すという目的なら、ノンフィクションのほうが良い……事もあるかと思いまして」
「良い質問ね、ケンイチ君」
ふっと煙を吹いて、作家は鍵一へ
amoroso
(※3)の眼差しを向けた。
「書くけどね、エッセイやコラムも。仕事だから。でもやっぱり、わたしの主戦場はフィクションなんだよね。
フィクションには夢を織り込める。時としてそれは、事実を記すよりもずっと深く、真実を物語ることができる。……って、わかる?」
「わかりません」
作家は吹き出すと、少女のように大口をあけて大笑いする。鍵一は焦った。
「すみません、あなたの言っていることがおかしいって言いたいわけじゃないんです、ぼくは小説を書いたことが無いですし、幸か不幸か、物語の主人公になったこともないので……あなたやパリの音楽家にしか分からないことが、きっとたくさんあるんだろうな、と」
「ありがと」
「誰かの生きた証を残す意義は、ぼくにもわかります」
「ありがと」
「ぼくも情報収集の目的でこのパリに来ていますので……もっとも、今ぼくが記録できるのは、リストさん、ヒラーさん、アルカンさん、それに、相棒の猫のフェルマータのことくらいですが」
「いつかケンイチ君を主人公に、物語を書こうかな」
と、作家はくちびるの端に温かな笑いをくゆらせて、頬杖をついた。
「パリに留学した日本人ピアニストのケンイチ君が、時には落ち込んだり、つまづいたりしながらも、着実に成長してゆく話。
タイトルは……『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』、なんてどう?」
(当代一流の文化人と交流を持ち、フィクションを得意とする女流作家……
この人はまさに、『19世紀の紫式部』だ……!)(※4)
鍵一は深くうなづきながら、自分を主人公に小説を書かれるのは、なんともこそばゆい気がする。
つづく
1686年創業。オリジナルのアイスクリームで有名でした。
音楽小説の傑作です。1843年にぶじ完成しました。
音楽用語で『愛情豊かな』の意。
1. 共通項の多いこのふたり。それぞれ、星に名を冠されています。
水星には『紫式部』という名のクレーターがあります。
また、『ジョルジュ・サンド』という名の小惑星も存在します。
2. 水星の英語名・Mercuryが芸術の神様の名であることから、
水星のクレーターには芸術家の名が付けられる決まりになっています。
日本人名では『夏目漱石』『北斎』『世阿弥』など、綺羅星の如きビッグネームがずらり。
ちなみに、最大のクレーターは『ベートーヴェン』と命名されたそうです。心強いですね。