ピティナ調査・研究

第60話『魔術師のピアノ♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。19世紀で通用するコンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)になるべく、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
魔術師のピアノ♪

雪の降りしきるなかを、ふたり小走りに離れの座敷へ入る。暖かな空気の漏れ来る障子をひらくと、猫のフェルマータがピアノの上に丸まっていた。
『これは吾輩のピアノである。気が向けば、鍵盤上で散歩など致そう』と言わんばかりに、ふっくらと鎮座している。調律師は驚いたらしい。
「坊ちゃん、この猫は……」
「すみません」と抱き下ろそうとした鍵一の腕をすりぬけて、かろやかな足取りがペンタトニック・スケール※3らしき音を踏む。そのままヒョイと書物机へ跳び移った。
「2週間ほど前に、ぼくがパリから連れて帰って来たんです。オペラ座の前で出会って以来、すっかりぼくの相棒です。こう見えて、幸運の招き猫なんですよ」※4
「フム」と調律師は屈んで、珍しい楽器の構造を点検するような具合に、フェルマータの前足をかるく握った。

ピアノの蓋をひらくと、『C.BECHSTEIN』※5の金文字。椅子に座り、鍵盤に両手をのせる。調律前とはあきらかにピアノの息遣いが違う。すぐに鍵一は弾き出した。

♪フランツ・リスト作曲:超絶技巧練習曲 第12番 「雪かき」 S.139/12 R.2b 変ロ短調

鍵盤が軽い。音色が明るい。華やかな音が天井を突き抜けて、遥か雪雲をも溶かすように感じられる。弾き進めるほどに、調律師の意匠が指へ伝わった。
「なるほど!」とうなづいた鍵一へ、「なぜリストの曲を?」すかさず調律師は尋ねた。アルペジオ(Arpeggio)※6を弾き流しながら、鍵一は嬉しく答えた。
「今朝このピアノで同じ曲を弾いたので、比較しようと思ったのです。橋本さんに調整と調律をしていただいて、ピアノの個性がハッキリ出たように思います」
「鍵盤が軽すぎやしませんか」
「パリではプレイエルばかり弾いていましたので、このくらいでちょうど良いです。帰国してからすぐ、京都駅に置かれているモダン・ピアノを弾いたのですが……鍵盤が重すぎて指を傷めそうでした※7
「音色はいかがですか」
「明るくて好きです。高音域が太陽みたいに眩しくて、ちょっと気後れしますが……自分の意思をしっかり持っているピアノ、という感じがします。言いたいことを朗らかに言える人、居るだけで場が華やぐ人の声のような」
鍵盤上に言葉を探して、はっと顔を上げると相手は微笑んでいた。
「実はこのピアノは、フランツ・リストが晩年に所蔵していたものです」
「えッ、リストさんが……!」
調律師は「正確に申し上げると」と前置きして、手袋を嵌めた。鍵一がピアノの前を譲ると、小柄な身体はすばやく動いて前屋根をひらき、上前板を取り外し、鍵盤蓋を取り去る。
「フランツ・リストが若い画家へ贈ったピアノです。ムンカーチ・ミハーイ※8という、ハンガリー出身の画家。リストとは30歳ほどの年齢差がありましたが、彼らは親しく交流していました。リストはハンガリー狂詩曲の第16番※9をムンカーチに献呈しています」
「ハンガリーですか。そういえば、リストさんもハンガリーのご出身ですよね」
「ええ、ハンガリー語は話せず、1875年にハンガリー王立音楽院……現在のリスト音楽院の初代院長に就任するまでは、ハンガリーに拠点を置く事も無かったようですが」
「ふるさとを愛していらっしゃいましたね。ドナウ川が氾濫したとき、チャリティーコンサートをひらいてブダペストに寄付をなさったり……」
「よくご存じですね」
1838年で見聞きした事をこれ以上は言うまいと、鍵一は記憶に蓋をした。
さて、数十本の工具から一番細いフェルトピッカー※10を選び出すと、調律師は整音の微調整をはじめた。高音域のアクションを二、三、たやすく引き出しては、ハンマーヘッドに細かな針を打ち込んでゆく。工具を手早く持ち替えるや、ロングトーンを鳴らしながら高音域のチューニングを整える。90キログラムもの弦の張力が巻き上げられる微かな音を、鍵一は快く聴いた。書物机の上では猫耳をぴんと立てて、フェルマータが黄金色の瞳を輝かせている。
「坊ちゃん、すみませんがもう一度」
「恐れ入ります」
ハンガリー狂詩曲・第16番のカデンツァ(Cadenza)※11をそろそろと弾いてみる。アクションが波打ち、ハンマーヘッドがうごめく。数百の弦が複雑に煌めきながら歌い出す。鍵一はこの楽器を、深海にひそむ謎の古代生物のように思った。

♪フランツ・リスト作曲:ハンガリー狂詩曲 第16番 S.244 イ短調

「いかがでしょう」
「高音域の音色がやわらかくなりましたね、太陽の輝きから星の煌めきになりました……!こちらのほうがイメージに合います」
「ありがとうございます。では私の仕事は完了となります」
調律師は目礼をして、外装を元通りに取り付ける。ものの数十秒でアップライト・ピアノは何事もなかったかのように澄ました。
「……リストさんからムンカーチさんに贈られたものなんですね、このピアノ」
「ええ。肖像画の返礼として」
「肖像画……?」
「1886年にリストがパリを訪れた際、ムンカーチがその肖像画を描きました。リスト74歳、死の4か月前の事です。リストは謝礼として、このピアノをムンカーチに贈りました。以後、パリのムンカーチ邸の居間に在りましたが、時を経て人手に渡り、巡り巡ってB先生が入手されたのです」
うなづいて鍵一は『ピアノの魔術師』こと、フランツ・リストの輝かしい生涯を思った。F.ヒラー氏と同じく1811年、すなわち『彗星年の生まれ』※12。神童の名を欲しいままにし、前代未聞のリサイタル・ツアーを敢行、ヨーロッパ全土に一大ブームを巻き起こし、交響詩というジャンルを創始、晩年に至るまで多くの弟子を育てたフランツ・リスト。
「なんとも恐れ多いです……ただ、ちょっと不思議な感じがします」
「なんでしょう」
「意外なんです。あの力強い演奏をするリストさんが、こういった小さなアップライト・ピアノを愛用してらしたというのは」
「保存状態が良いので、日常的にリストが弾いていたわけではないようです。リストがこのピアノを入手した経緯は不明ですが」
「画家のムンカーチさんに贈るために、ご自身で購入されたのかもしれませんね。面倒見の良い人ですから」
温かなものがつまさきにふれて、猫のフェルマータがフサフサと通り過ぎた。ピアノに鼻を近づけて、この楽器の来歴を聴いている。そのしっぽがふわりと疑問符のかたちになった。

つづく

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