第55話『ピアノ調律師の手♪』
慣れた運送業者の手で、瞬く間にベヒシュタイン・ピアノ※3は離れの座敷に運び込まれた。代金を受け取るや業者は風のように去り、鍵一が師について尋ねる間もなかった。
調律師は寡黙な初老の人であった。雛人形がきれいに老いたような印象のその人を、鍵一はおぼろげに覚えていた。簡単に挨拶を済ませると、調律師は鍵一をつくづくと眺めてひとこと、
「ご立派になられて」
と言った。途端に叔父は機嫌をよくした。
「ええ、うちの鍵一はね、こう見えてなかなかの奴なんですよ。有名なピアノコンクールで賞も獲ってますし、フランス語もできますしね。パリ留学を機に、ついに作曲もやりだしたんですよ」
「叔父さん、そろそろ来客の時間じゃありませんか」
急いで身内を締め出して、鍵一は深呼吸した。調律師は黙って仕事に取り掛かった。すばやく手袋を嵌めるや、十四畳の座敷にマットを敷きつめる。手伝いましょうか、という鍵一の申し出は無言で断られた。前屋根をひらき、上前板を取り外し、鍵盤蓋を取り去る。小柄な身体は踊るように軽やかに動いて、あっという間にアップライト・ピアノの内部を明らかにした。二百本以上の弦が、流れ落ちる滝のように真っ直ぐに張られている。銀色の弦の細さに対して、鍵盤に備わったアクションはひとつひとつが力強く大きい。ネタの大きな握り鮨を鍵一は連想した。小さく白い手が鍵盤を取り外してゆく手つきは、なにか大いなる秘密の具合を点検するように見えた。
『このピアノは愛弟子の鍵一に贈るものであるからして、代金は不要。ただし、人目にふれないよう、密かに管理してほしい。決して人手に渡さないでほしい。鍵一以外の者には弾かせないでほしい。調律師や輸送業者についてもワシが指定する。ピアノのメンテナンスは必ず彼らに任せてほしい』
師の謎めいた言葉※4を思い起こすにつれ、鍵一はその秘密へふれてみたい衝動に駆られた。
「あの……このベヒシュタイン・ピアノ、19世紀に造られたものですよね」
調律師はちらりと鍵一に目を遣った。前のめりに鍵一は言った、
「交差弦ではなくて平行弦ですし※5……鍵盤の数も85鍵ですから。鍵盤自体の重さやアクションの速さは、19世紀前半のエラール・ピアノに似ていると思います。倍音が豊かに鳴るように造られていますが、現代のピアノに比べると響きが繊細です」
相手はウンとも否ともいわない。屈み込んで下前板を取り外すと、弦を端から端までつぶさに点検する。
思い切って鍵一は、次なるフレーズを提示した。
「このヴィンテージ・ピアノ、B先生がくださったものなんです」
相手は微かにうなづいた。鍵一は手応えを感じた。
「でもぼく、子供のころは何も知らずに弾いていました。初めての発表会に向けて、『きらきら星変奏曲』をこのピアノで練習したことを覚えています。※6……先ほどフランツ・リストさんの曲を弾いて初めて、これが19世紀のピアノだと確信したんです」
プロフェッショナルは刷毛を手に、黙々とピアノ内部の埃を払っている。
「B先生のレッスンには、11歳の夏まで通っていたのですが……母の意向で、小学校を卒業すると同時にやめることになりました。B先生は『プロフェッショナルになるための3ヶ条』※7や、輪廻の話や……大事なことをたくさん教えてくださいましたが、演奏テクニックについては二の次でしたから、それが母には気に入らなかったのです。ぼくはB先生が好きで、決してやめたくはなかったのですが……」
「坊ちゃん」
鍵一は口をつぐんだ。調律師は跪いて丹念にペダルを拭っている。
「はい」
「人生の選択はすべて、自らの手で為されるものだと思いますが」
「……はい」
「それから、すみませんが二時間ほど外してもらえませんか。集中力を要する仕事ですので」
相手の声は
sotto voce
※8ながら、発音は明瞭であった。慌てて鍵一は母屋へ引っ込んだ。叔父に渡されたやわらかなスポンジでティーカップを拭いながら、調律師の声が耳の奥でこだましていた。
——人生の選択はすべて、自らの手で為されるものだと思いますが。……
♪モーツァルト作曲:フランスの歌「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(きらきら星変奏曲) K.265 K6.300e ハ長調
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
カール・ベヒシュタインが1853年にベルリンで創業したピアノ・メーカー。リスト、ドビュッシーなど、当世一流の音楽家から高い評価を得ました。詳細はベヒシュタイン社のブランド・ヒストリーをご参照ください。
第54話『眠れるベヒシュタインの謎♪』をご参照ください。
19世紀前半までは、ピアノの弦は平行に張られるのが主流でした。19世紀後半からは、より大きな音量と響きの豊かさを求めて、弦を斜めに配置する交差弦が主流となりました。
第52話『Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)♪』をご参照ください。
第49話『プロフェッショナルになるためのB級3ヶ条♪』をご参照ください。
音楽用語で『音量をおさえて、声をひそめて』の意。