第52話『Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)♪』
パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』※1を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年元旦の京都へワープした鍵一は、駅構内のピアノで即興演奏を披露する。山深き貴船※2の叔父のアトリエ兼住居に到着すると、日はすっかり暮れていた。
障子を閉めた途端にちからが抜けて、鍵一は冷たいフトンにもぐりこんだ。凍った爪先を擦り合わせて、レストラン『外国人クラブ』の防寒具が恋しい※3。アトリエの板の間に簡易の寝床を敷いて眠るのが、妙にわくわくする。無造作に立てかけられた油絵のキャンバスを眺めれば、記憶がゆっくりと舞い上がる。
(そうだ、このアトリエの匂い。19世紀パリでお世話になった、レストラン『外国人クラブ』の2階の部屋の匂いと同じなんだ……むかしドラクロワさんが住んでいらした、あの部屋)
鍵一の記憶の中で、ドラクロワは喜々としてキャンバスに向かっていた。そのシャツの裾に飛び散り、絵筆に染みこみ、乾いてパレットにこびりついた、虹色の油絵具の匂い。
(ドラクロワさん、お元気だろうか……)
思ってみて、心が締め付けられた。あの陽気な画家は、とうに故人なのだった。1838年夏、ウィーンへのワープがなつかしい。※4
寝返りを打って硝子戸を指でこすると、凍った夜空に星々が瞬いている。遠い輝きに、鍵一は19世紀で出会った芸術家の面影を重ねずにはいられなかった。ふと、別の感慨も湧いて来た。
(そういえば、B先生から最初に習った曲が『きらきら星変奏曲』だったっけ。ピアノを習い始めてまだ1年にしかならないぼくに、先生は舞台で弾くことをすすめてくださった……)
渋る鍵一(6歳)に、『舞台はおもしろいぞ』とプロフェッサー・B氏は言った。
『舞台では、同じ曲を弾いても練習とは違った聞こえ方をする。どうしてかわかるかな?』
『……ホールが広いから、でしょうか』
『もちろんそれもある。ホールはよく響く。ピアノも違う。お客さんが大勢いる。お客さんの身体や服が音を吸収して、響き方が違ってくる』
『音楽が身体や服にしみこむなら』
鍵一はモゾモゾと言った、
『音は薫りと似てますね』
『そのとおり。したがって、音も薫りも《聞く》という』
初めての発表会は、横浜のコンサートホールで行われた。門下生の出番が年齢順だったので、鍵一の出番は早かった。舞台裏で、師はとっておきのジョークを教えた。『きらきら星』の英語タイトルをもじって、
『今日は鍵一の、ピアニストとしてのTwinkle Twinkle Little Start……きらきら光る小さなスタートじゃ』
開演のベルと同時に、舞台上へ飴色の光が満ちた。舞台へ踏み出した自分の靴音が、大ホールの一番奥の壁に届いて小さく跳ね返ってくるのを、鍵一は耳の端で捉えた……すぐに、靴音は拍手に掻き消された。リハーサルのときよりも、ピアノは随分大きく見えた。B氏の意向で、最上級のフルコン※5が鎮座していた。
じつに冷静に、鍵一は『きらきら光る小さなスタート』を切った。客席の耳という耳が自分へ吸い寄せられるのを、意外にもこころよく感じた。丁寧に弾けば、耳たちは丁寧に聴いてくれる。
pianissimo
※6で弾けば、耳たちはひそまる。
espressivo
※7で弾けば、耳たちは活き活きと伸び上がる。自分が指を正確に動かすたびに、ピアノから豊かな音が薫り立つのもおもしろかった。鍵一は耳を澄ませた。途中、自分の意図よりも残響の消えやすいところがあった。次に似たフレーズが来たときは音を少し長めに弾くと、うまく輝いた。師の言うとおりだと鍵一は思った。舞台はおもしろい。
ところが第11変奏の冒頭を弾きながら、右手の跳躍に合わせて高音部の鍵盤を見遣ったそのとき。
艶やかな紅色が目に飛び込んできた。
仄暗い客席の最前列に、紅色の大きな花束が用意されていた。ついぞ見たことのないほど美しい大きな花束が、さて、誰に贈られるのかしら……浮かんだ疑問符が音楽をさらった。そのまま手が止まった。客席が息を呑んだ。ふくれあがった沈黙が、コンサートホールの壁を圧している。
鍵一は両手をひざに置いて、ホールの天井を仰いだ。大小さまざまのライトが、満天の星らしく煌めいている。
『Twinkle Twinkle Little Start……きらきら光る小さなスタート』
師の声が彗星のように脳裏をよぎって、鍵一は納得した。
そうして、曲の冒頭(きらきら光る小さなスタート)からもう一度弾き始めた。どっと客席がゆるむ。弾き続けながら鍵一は、コンサートホールを巨大な生きもののように感じた。音楽を見守り、励ましてくれる、大きな耳の生きもの。今度は高音部の鍵盤を見ずに跳躍の音を射止めた。そのまま、12変奏を最後まで弾き切った。
拍手の嵐に向かってお辞儀をすると、舞台の下から紅色の花束が差し出された。かがみこんでその重みを受け取ったとき、師の庭に咲く薔薇と同じ薫りがした……
♪モーツァルト作曲:フランスの歌「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(きらきら星変奏曲) K.265 K6.300e ハ長調
(……人生には、『きらきら光る小さなスタート』がたくさんあるんだな)
なつかしい曲を思い浮かべる枕元に、なにかがフサリと着地した。
「ヒャッ」と跳ね起きた鍵一を、黄金色の瞳がおもしろそうに見つめている。鍵一が背中を撫でてやると、猫はゴロゴロと喉を鳴らした。
「ねえ、フェルマータ。おまえは19世紀の猫なのに、どうして21世紀に付いてきてくれたんだ?」
フサフサと猫がフトンにもぐりこむと、とても温かい。その瞳を眺めてふと、京都駅で貰った十円玉を思い出した。※8
手を伸ばして風呂敷包みのなかを探ると、その硬貨は確かに在った。初春の月灯りにかざし見て、ほんのりと謎は明るい。
(誰がくれたんだろう。もしかして、あの見事な演奏をしたピアニスト?※9 それとも、ギリシャ神話に登場する調和の女神、ハルモニア※10……?)
月がいよいよ輝いている。鳳凰堂の画を月の光に晒し過ぎると、なにか常ならぬことが起きてしまう気がして、鍵一は急いで十円玉を仕舞った。
(さて、京都でやるべきことはたくさんある。まずは、B先生からいただいた『B級グルメ教本』※11を片ッ端から読んで、作曲の勉強をしよう。むかし教わった和声と対位法を復習しつつ、楽式論、楽器研究、書法研究、それに修辞学……
19世紀でお世話になった皆さんに「春には戻ります」と約束したから、作曲期間は約3ヵ月間。スケジュールをどう立てようかしら……)
考えを巡らせながら、鍵一は夢のなかへ漕ぎ出して行った。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
レストラン『外国人クラブ』のシェフが、先祖代々受け継がれたセーヌ川の砂を麻袋に詰め、防寒具として活用していたもの。
第5話『Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)♪』をご参照ください。
第13話『音楽の都ウィーン♪(1809→1837)』をご参照ください。
「フルコンサートグランドピアノ」の略。グランドピアノの中で最も大きく、音量も大きい。コンサートホールで弾かれることを前提に造られたピアノです。
音楽用語で『きわめて弱く』の意。
音楽用語で『表情豊かに』の意。
第47話『そうだ、京都ゆこう(Ⅱ)♪』をご参照ください。
元旦の京都駅にて、見知らぬピアニストが『沙羅の樹の 花ひらく夜に うぐいすは』(作曲:神山奈々)を演奏していた件。
第47話『そうだ、京都ゆこう(Ⅱ)♪』をご参照ください。
ギリシャ神話にて、調和(ハーモニー)をつかさどる女神。なお、『ハーモニー(英語:Harmony)』は、音楽用語で『和声。2つ以上の音の調和した響き。』の意。
B氏が鍵一へ贈った、作曲のための参考書。
第48話『作曲入門 B級ブックガイド♪』をご参照ください。