『日本人作品あれこれ』第4回 演奏家インタビュー・・・左手のピアニスト智内威雄氏
現在、「左手のピアノ界」は、作曲家と演奏家の対話から豊かな創造が生まれる場となり、大きな盛り上がりを見せています。左手のピアノ作品といえば、手の負傷や障害をきっかけに生まれた特別なレパートリーという印象を持たれることが多いかもしれません。
しかし、その独自の特徴や土壌に目を向けることで、両手のピアニストや教育の現場においても多くの学びを見いだすことができるはずです。
左手作品が生まれる背景や創作のプロセス、再演の意義、そして演奏体験としての魅力について、演奏家、教育者、そしてプロデューサーとして多方面で活躍される左手のピアニスト・智内威雄さんにお話をうかがいました。
今日はどうぞよろしくお願いいたします。さっそくですが、まずは歴史的な観点から、左手のピアノ音楽についてお聞かせいただけますか?
はい。左手のピアノ音楽について、史料として確認できる最も古い作品は、おそらくC.P.E.バッハによるものと考えられています。鍵盤楽器は古くから両手で演奏する前提の楽器でしたが、常に「左右のバランスの問題」がつきまとっていました。
左手だけで演奏するというのは、もともとは練習のためだったのですか?
ええ、練習目的で書かれた作品が最初期のものです。練習曲には大きく分けて二つの目的があり、一つは奏法や指の運動能力を高めるためのもの、もう一つは作曲の学習としてのものです。C.P.E.バッハの左手作品は、指の訓練を主目的として書かれたもので、 バロック音楽の語法を踏まえながらも教育的な性格が強いと言えるでしょう。
そうすると、歴史的に見ると「手を負傷した」といった事情ではなく、トレーニングのために生まれたのが最初なんですね。
そうですね。左手が弱いと、演奏全体の和声感や音楽の構造理解に影響が出ます。 日本では欧米諸国に比べ、右手の旋律が強調され、左手のベースラインが不十分な演奏 をよく聴きます。これは、左手の重要性が軽視されてきたことが背景にあると思います。
右手の練習に偏りがちなのは、たしかに思い当たるところがあります・・・!
はい。右手で旋律を弾くことに重きを置きがちですね。しかし、音楽を全体としてとらえるためには、左手の役割をしっかりと理解することが必要不可欠です。和声の厚みや音 楽の構造は、左手によって支えられている部分が大きいのです。
はい。左手の作品が芸術的に評価されるようになったのは、どの時期あたりからですか?
左手の作品は、もともと訓練用として生まれましたが、次第に芸術的な側面が強くなっていきました。バロック期には、練習曲としての役割でしたが、ロマン派以降になると、演奏不能になったピアニストのために作品が書かれるようになり、芸術性を追求した名作が多く生まれるようになります。
たとえばどういった作品がありますか?
有名なものでは、ブラームスがバッハの《シャコンヌ》を左手用に編曲した作品があります。また、20世紀に入ると、第一次世界大戦で右腕を失ったパウル・ヴィトゲンシュタインの存在が重要です。彼の依頼によって、ラヴェルやプロコフィエフといった作曲家が左手の ための協奏曲を手がけたことで、この分野の音楽が大きく発展しました。
智内さんは、左手のピアノ国際コンクールやワンハンド・ピアノフェスタなど、さまざまな活動を主催されていますが、そこでは左手の新しい作品は生まれ続けているのでしょう か?
はい。私たちが開催している左手のピアノ国際コンクールやワンハンド・ピアノフェスタでは、毎回のように新作が登場し初演されています。コンクール主催者として私から作曲家への委嘱もありますが、近年は演奏者が作曲家に直接依頼を行い、対話を重ねながら作品を生み出すケースも増えてきています。これは両手の作品の世界ではあまり見られない取り組みかもしれません。
コンテスタントが作曲家に新作を委嘱するのですね。演奏者と作曲家が一緒に作品を育てていくという感じでしょうか。
おっしゃるとおりです。左手の作品は、しばしば「誰かのために書かれた」という背景を持つため、非常にパーソナルで、物語性のある音楽になります。作曲家にとっては、限られた条件の中でどれほど豊かな響きと構造を生み出せるかという挑戦であり、演奏者にとっては、自身の音楽的個性を最大限に引き出してくれる作品と出会う、貴重な機会となります。
その背景を知ると、聴き手としての聴き方も変わってきそうです。
はい。ただ一方で、現代作品は「初演」だけで終わってしまうことが多いという現実もあります。再演され、異なる演奏者たちによって繰り返し演奏されてこそ、作品は音楽として「生きる」ようになる。そうして初めて、クラシック音楽としての本質を持つと私は考えています。
同じ作品でも演奏者が変わると、まったく違う表情になりますよね。
ええ。作品の魅力や可能性というのは、一人の演奏者によってではなく、複数の解釈やアプローチを通じて初めて立ち現れてくるものです。その意味で、私は弟子たちにも作品を積極的に紹介し、再演してもらうようにしています。また、ワンハンド・ピアノフェスタのような場を活用して、多くの人にこのレパートリーに触れていただく機会を設け、再演の場としても機能させています。
演奏の機会を作り、作品を引き(弾き)継いでいくということですね。
はい。また、左手の作品には、演奏体験としての魅力も多くあります。両手の作品では、演奏者はしばしば「指揮者」のような立場で全体を俯瞰し、構成やバランスに意識を向ける必要があります。そのため、どこか自分をコントロールしながら演奏するような感覚が生まれやすい。しかし、左手だけで演奏する場合は、身体の動きが、よりダイレクトに音に結びつくため、演奏者の感覚がより直接的に音楽に投影される。没入感や身体性の強い音楽体験が得られるのです。
演奏そのものに、集中して入り込める感じなんですね。
そのとおりです。左手の音楽は、ある種の制約の中に置かれることで、むしろ自由な創造性が発揮されるという逆説的な美しさを持っています。限られた手段のなかで最大限の表現を追求しようとする作曲家の工夫、そして演奏者の集中と没頭。それらが重なり合うことで、左手作品には非常に高い密度と深さが宿るのだと感じています。
教育や社会貢献の面でも、さまざまな取り組みをされていると伺っています。具体的にはどのような活動を?
教育面では、特に障害のある方々のピアノ教育に取り組んでいます。たとえば、手や腕に障害のある方がどのようにしてピアノを演奏できるかについて研究を進め、具体的な指導法の開発も行っています。また、一般の学習者に対しても、身体に負担の少ない、無駄のない奏法を身につける重要性を伝えることに力を入れています。プロやピアノを専門として学んでいる学生も実は同じ悩みを抱えています。
そうなのですね!指導は、どのようなアプローチで進められているのですか?
まず、ピアノを「打楽器」としてとらえ直すところから始めます。楽器の基本構造に立ち返り、身体のどの部分をどう使えば音楽として成立するかを考えます。体の使い方や脱力は、両手よりシビアなんです。運動会でやる大玉転がしは、両手だと簡単に転がせますが、片手だと真っ直ぐに力が加わらないと転がらないのを知っていますか?(笑)
なるほど!考えたこともなかったです。(笑)ところで、智内さんは、観光大使などもされ、地域社会にも大きく貢献されていますが、その辺りのお話をお聞かせいただけます か?
はい。地域との連携にも力を入れています。たとえば、子どもたちが作った音楽を校内放送や商店街で流すというプロジェクトを、大阪や埼玉で実施しています。自分達の音楽が、地域社会の中でも響いていて役立っているという感覚を子どもたちに持ってもらいたいと考えています。
それは素敵な取り組みですね!
ええ。子どもたちの創作した音楽が地域の中で聴かれることで、「音楽は特別なものではなく、自分たちにも創れるもの」という意識が芽生えます。また、創作を通じて自由な発想や自己表現を育てることも重要です。
街全体で子どもたちの音楽が共有されていくのは、とても魅力的です。
たとえば、埼玉県蕨市では小学生が作曲した音楽を校内放送で流し、その一部は商店街でも放送されています。これは、子どもたちにとって大きな励みになりますし、地域の大人たちにとっても、子どもたちの存在を感じられる貴重な機会になります。お友達に新曲を委嘱して弾くなんてことが盛んになればいいなと思います。
それは素晴らしいです!そこには演奏者と作曲者、そして聴衆の密な関係がありますね!
今後の展望についても、ぜひお聞かせください。これからどんなふうに活動を広げて いきたいですか?
まずは、現在取り組んでいる「子どもたちの音楽で街を彩るプロジェクト」を、さらに多 くの地域へと展開していきたいと考えています。今は大阪や埼玉で実施していますが、他 の地域でも同様の取り組みが可能だと思います。子どもたちが創作した音楽が、地域社会 の中で自然に流れるような環境を全国に広げたいと願っています。
左手の音楽については、今後どのように展開していかれるのですか?
左手のピアノ音楽に関しては、引き続き研究と普及に力を注いでいきます。現在構 想しているのは、この文化を国際的にも認知していただけるように働きかけることです。ユ ネスコの無形文化遺産への登録を目指すという構想もスタートさせています。
えっ、それはすごいですね!
大きな目標ではありますが、十分に意義のある挑戦だと思っています。左手の ピアノ音楽は、特定の演奏スタイルや身体条件に応じて発展してきた特異なレパートリー であり、歴史における様々な背景があり、芸術的価値も高く、保存と継承に値するもので す。私たちのようなミドル世代が若い世代、そして後世に引き継いでいく必要があります。
教育の場でも、まだまだ可能性が広がっていきそうですね。
教育の観点からも、左手のトレーニングは非常に重要です。和声感や音楽全体の構 造を捉えるために、左手の役割は重要です。演奏技術の一部というだけでなく、音楽的な 理解や表現力を深めるためにも、両手で弾くピアニストも積極的に取り組むべき要素だと 思います。
音楽を「つくること」「学ぶこと」「伝えること」すべてに、深い視点をいただきました。今 後のご活動、ますます楽しみにしています。
ありがとうございます。これからも多くの方に音楽の可能性を届けられるよう、取り組みを続けていきたいと思います。
補足になりますが、皆様も作曲家に新曲を委嘱し、コンサートや発表会などで披露してみてはいかがでしょうか。特別な体験になるのではないかと思います。
私自身も、委嘱を通じて作曲家の方々と交流を深め、多くの学びを得てきました。その実感があります。また、作曲家の方々も「求められて作曲する」という機会を前向きに捉え、意欲的に取り組んでくださるのではないでしょうか。
参考:ピティナで紹介している作曲家一覧はこちらです。
【作曲家と協力して新しい曲を作りませんか?~委嘱のススメ~】
https://research.piano.or.jp/reports/commission/index.html
