ピティナ調査・研究

音楽こそが最高の「教養」である ―ドラッカーに学ぶ「自分経営」の極意(3)

音楽こそが最高の「教養」である
―ドラッカーに学ぶ「自分経営」の極意

文:井坂康志

教養は人間を自由にする

さて、教養のある人というとどんな人を思い浮かべますか?

まあ、物知りな人じゃないですか。なんとなく話題が豊富で、何を聞いてもそれなりの答えが返ってくるみたいなイメージがあります。

それは一種の雑学ですね。どこかで誰かが行ったことをパラフレーズ(言い換えたり言い直したりする)しているだけでしょう。教養は違います。教養、いわゆるリベラルアーツとは、歴史的にギリシャ、後にローマの自由人の養成と関わっています。

自由人?

そう。当時は自由人と奴隷に階層が分かれていた。もっぱら労働は奴隷が担い、自由人は考えることだけが仕事だった。そこから哲学が生まれてくるのです。

なるほど。その人たちが教養とは何かを考えたわけですね。

その通りです。

では、その教養とはどのようなものなのですか?

いわゆる三つの言語的技能(文法、修辞、論理)、四つの数学的技能(算術、幾何学、音楽、天文学)です。

面白いですね。数学的技能の中に音楽が入っていたと。

ええ。音楽は音についてのロゴス(論理)ですからね。今で言う理系に属していたことになります。

これは現在でも行われているのですか?

ある意味では基礎教育の中には一応入っていると見てよいでしょう。今でもヨーロッパの高等教育ではギリシャ語、ラテン語、ホメロス、プラトン、アリストテレス等の古典購読が残っています。日本で言えば、さしずめ古文や漢文みたいなものでしょうか。万葉集とか源氏物語に触れる感じかもしれませんね。

現代人のたしなみ

そうなのですね。でも、さっき自由人になるための教育だと言いましたが、それも現代に残っているのでしょうか。

そこです。まさにそこが最大のポイントなんです。

と言いますと?

ギリシャ・ローマの教養は、地位と余暇を持つ者に許された一種のエリート教育だったのですね。ところで、「学校」の語源は知っている?

知りません。

英語で言うとどうでしょう。

スクールですね。

その通り。スクールはスコレーもしくはスコラというラテン語からきている。これは「暇」という意味です。

そうなんだ。学校が暇からきているとは知らなかった。僕はそれなりに忙しくしていますけどね。

本来ものを考えたり学んだりするのは、自由人のたしなみだったということでしょうね。ちょうど平安貴族が優雅に歌を詠んだりするみたいに。

確かに。

そこでは奴隷階級は教養とは無関係と見なされていたのです。ちなみに、女性も残念ながら教養層には含まれていなかった。

今では考えられませんね。

そう。現在は教養の持つ意味が異なっている。いや根本から変わったと言ってもいい。それは万人のための学になっているし、そうなるべきだからです。
では最初の質問に戻りましょう。教養ある人とはどんなイメージですか。

うーん、やっぱり、なんというか、いい大学を出ている人とか、弁護士や医者、大学教授みたいな人が思い浮かぶかな。

まだ教養を狭くとらえているようですね。さっき私は万人の学と言ったでしょう。万人なのですから、条件なんかないのです。

みんなが教養人であると。

まさしくその通り。正確に言うと、みんなが教養人になる可能性を秘めている。誰もが、「自由人」。これが現代の特徴だ。歴史的に見てもこんな時代はなかった。

いい大学を出ていなくてもいいと。

大学を出ていることは、教養とはなんの関係もありません。

専門職に就いていなくてもいい。

もちろん。何ら差しさわりはありません。

じゃ、どんな人が教養あると言えるのでしょう。知識量とか専門能力ではないのでしょう? なんかよくわからないな。

簡単です。自分と社会に責任ある態度を持つ人です。

たったそれだけですか? ずいぶんあっさりしてますね。

教養とは自分で自分を育てる力

まさにそう。簡単です。教養とは態度なんです。どんなにたくさんのことを知っていても、態度がなかったら自分を育てられない。それは自分で行う人格教育なんです。

それは先生が考えたことなのですか?

はい。と言いたいところですが、残念ながら違います。これはドラッカーが述べている教養に基づいています。

また出てきましたね。ドラッカー。あのマネジメントのドラッカーがどうして教養の話をしてるんです?

前回話をしたことを覚えていますか。マネジメントの意味。

「手綱を握る」でしたよね。それを行う人のことをマネジャーというと。

きちんと覚えていますね。えらい。まさに、自分の手綱を握ることのできる人はどんな人でしょう。

自分の行く先に責任を持てる人ということでしたよね。

そうなんです。ドラッカーはそのような人のことを、自由人と見なしたのです。それは現代における教養ある人と同じ意味です。

なるほど。そこでつながってくるのですね。

はい。自分の手綱を誰かに握ってもらっている人は、残念ながら自由人でもないし、教養人でもない。かりに立派な会社に勤めていても、高い社会的な身分を持っていても、自分の手綱を誰かに預けてしまっている人は、ギリシャ・ローマで言うところの奴隷階級に属する。

奴隷とはずいぶん刺激的な言い方ですね。それ何とかなりませんか?

しかたありません。これは歴史の話ですから。

わかりました。で、問題はどう教養を身に付けるかですね。

そう。実はマネジメントを学ぶときにドラッカーが重視していたことがいくつかあります。最初に強調しておくべきは、ドラッカーはビジネスや経営学の本はまったく読まなかった。これは本人が言っていることだから間違いありません。

ドラッカーは経営の本を読まなかったんですか? それは意外ですね。

はい。事実です。では、どんな本に親しんでいたか。第一に人文書、第二に歴史、第三に思想・哲学、第四に芸術、第五に科学・・・。

それはさっきのギリシャの教養科目に似ていますね。

まさにそう。特にマネジメントを知るには人間と世界を知ることだからですね。

彼がどんなものから学んでいたのか、もっと教えてもらえますか。僕は自分のマネジャーになりたいので。

わかりました。その話を次にすることにしましょう。

以下続く

井坂康志
1972年埼玉県加須市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。現在、ものつくり大学教養教育センター教授、ドラッカー学会共同代表。ギタリスト、詩人でもある。