ピティナ調査・研究

第47回「小スケルツォ」

『エスキス』がどのようにして完成に至ったかについては連載第25回でいちど考察を述べました。初期段階から相当な計画性のもとに着手された曲集なのではないか、と。複雑な調性の並びのルールはもちろん、どこにどんな雰囲気の曲を置くか、なんてことまで、事前にある程度は決めていたに違いないと思えるのです。

というわけで第25回のときには、4巻それぞれの最初と最後の曲の性格の違いを取り上げて、そこにアルカンの意図を見出せるのではないか、という話をしました。そういう計画性を感じる部分はほかにも色々とあって、たとえば1巻の「叱責」~「嘆息」と続く流れや、3巻「熱狂」と「悲しき小さな歌」の対比などがあげられる。そしてこの4巻に2曲のスケルツォが含まれていることも、アルカンの思惑の表れたひとつの例ではないか、と私は感じます。

4巻は第37曲「小さな小さなスケルツォ」から始まるのですが、最後から2番目となる今回の第47曲もまた「小スケルツォ」となっている。実はスケルツォと名のつく曲は『エスキス』全体で2曲しかない。アルカンはそれを最終巻に集めたのです。これはたぶん、彼がわざとそうしたのでしょう。

アルカンにとって、スケルツォという曲種は重要な意味を持っていたのだと思う。タイトルにスケルツォを冠した単独の作品として『スケルツォ・フォコーソ』や、短調練習曲の中の「悪魔のスケルツォ」を残しているし、『大ソナタ』は華々しいスケルツォ楽章で幕を開け、『歌曲集第5巻』では曲集のクライマックスとしてスケルツォが現れます。

特に『大ソナタ』には注目すべきでしょう。各楽章がそれぞれ人生の一時期を表すという壮大な仕掛けの曲なのですが、その中で最も活気に満ち、力強い20代を表現するために、スケルツォの形式が用いられているのです。攻撃的なまでの情熱、苛烈さを秘めた自信――アルカンのスケルツォは、ショパンの作り上げたジャンルイメージを踏襲しつつ、更に大きな熱量がこめられている。私には、彼がスケルツォをまるで生命力そのものの象徴として扱っているようにも思えるのです。

ギリシャ喜劇を愛し、自身の音楽でもしばしばひねくれたユーモアを表現してみせたアルカンにとって、スケルツォ=諧謔曲という名も意味を持って響いたと考えられる。大雑把に言って悲劇が死に焦点を合わせるものであるとすれば、喜劇とは生に焦点を合わせるもの。そんなギリシャ式の考え方を下敷きにするなら、諧謔的な姿勢と生命力が結びつくのは自然なことと言えます。

アルカンが、彼の魂を駆り立てていた力のうねりをもっとも直接的に表現してみせた音楽がスケルツォなのかもしれない。家に引きこもり、人と会うこともなく、聖書の翻訳を日課として暮らしていたアルカン。そんな姿を思い浮かべながらスケルツォを聴くと、彼の心の奥底にふつふつと煮えたぎっていた情熱がよりはっきりと感じられる気がしてくるのです。

創作をするための力というのは、そういった行き場のない衝動や憧れと現実の落差から生まれてくるものだろうと思う。ダムに貯められた水が位置エネルギーによって発電機を回すがごとく。異郷・異教の人として当時の華やかなパリに生きたアルカンが抱えていた鬱積した思いの力は、きっと相当に大きなものだったでしょう。そして、彼はそのすべてを音楽に注ぎこんだ。諧謔的ではあっても、彼の音楽には冷めたところがありません。ひねくれているようで、自分自身の情熱にはまっすぐなのです。スケルツォからは、そんな彼の熱さがびんびんと伝わってきます。

さて、今回の「小スケルツォ」はスケルツォらしく技巧的な曲なので、指さばきはよく練習せねばなりません。右手と左手が同時にパッセージを弾く箇所も多いので、ずれたりしないようしっかり聴きながら弾きましょう。そんな中に擬似的にポリフォニックな表現が現れたりしますから、楽譜をよく読み、どの音が大事か判断することも忘れずに。

それではまた。次回はいよいよ番号の付いた最後の曲、「夢の中で」となります。


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