ピティナ調査・研究

第48回「夢の中で」

クラシック音楽というものには、真面目くさっているとか、頭でっかちとか、気取っているとか、小難しいとか、そんな印象がつきまとうようです。「そんなことはないんだ」ということを訴えかけたがる向きも常にあるのだけれど、なかなか人の心に広くは届かない。

個人的には、「クラシックは難しくないよ!」なんて言葉が広くは届かないのは当然だと思うのです。だって、人々に支持され長く残ってきた曲たちは、一筋縄ではいかないものばかりのはずだから。そりゃあ、作曲家が手遊びで作ったのだろう、本当に大した中身もないような曲もたくさんあります。けれど、その手の作品を並べて「簡単でしょ」なんて言って聴かせるだけではたぶんダメなんですよね。

音楽を聴くというのはどういう行為なのだろう、と考えることがある。あるいは、音楽を演奏するとはどういう行為なのか、そしてまた音楽とは何なのか。少なくとも、コミュニケーションのひとつの形ではあるに違いない、と私は考えるのです。誰かに聴かれ、その誰かに影響を与えてこそ音楽の存在意義はあるだろう、と。

コミュニケーションであるなら、言葉の重みがそれぞれ違うように、音楽にもそれぞれ自ずと重みの差があるでしょう。そして、クラシックの真髄は、圧倒的に重い音楽にこそあるに違いないのです。つまり、生きる上での救いを託すように書かれた音楽を、その重みを歓迎しつつ受け取るような聴き方にこそ価値があるのではないか。

何しろ今の時代、楽しめるものはたくさんあります。小学生の子どもたちにとって、クラシックの中でも特にかる~い曲のかる~い演奏をわざわざ体育館に集められて聴くよりは、映画のひとつでも見るほうがずっと面白くて実り多い体験だったりするかもしれない。

映画なんて持ち出さず、話を音楽に限定したとしても、たとえばテンションを上げたいときには、クラシックの中から良さそうな曲を探すより、ハッピーハードコアでも聴いていれば効果は上がるのじゃないかナア、などと思うわけです。携帯音楽プレーヤーのある世の中は、音楽が聴きたかったら自分で演奏するしかなかった時代とは違うのです。

そもそも、たかだか300年前から100年前あたりの西洋音楽だけを何故ことさら取り上げて世の中に伝え続けねばならぬのだ、と問われれば、答えを出すのはたいへん難しい。いや、あえて答えを出さぬようにしているだけで、本当はあんまり有り難くない答えが既にそこに見えている気すらする。

だからクラシックを楽しむというのは、そういうレベルで伝えるべき話ではおそらくないのです。時代も、知識も、言語も、信仰も、何もかもが違う人間同士が、同じ音楽に救いを託せるという、奇跡みたいなコミュニケーション。そういう重たい存在としてクラシック音楽は機能するはずなのです。

などと書くと、いかにも小難しくて真面目くさってる感じに受け取られてしまいそうですが、そういうことでもないのです。特にロマン派時代の音楽には個人的な心情なんかがたっぷり詰まってるのだから、同じ喜怒哀楽を持った人間が、辛かったり楽しかったりしながら精魂込めて書いた音楽なのだぞ、ということを感じながら聴けば、お勉強じみた聴き方をせずにすむのではないかな、という話なのです。

とはいえ、長大な交響曲なんかになってきますと、まず「ソナタ形式」だとか「循環主題」だとか、そういうことをある程度は知った上でないと、どういう聴き方をすべきか、理解し共感するためのポイントがなんなのか、といったことがなかなか掴みづらいものです。だから今、『エスキス』なのです! ......って、どんなセールストークか。

しかし、1曲1曲が短く聴きやすい、しかもガイドとなるタイトルまで完備、それでいて内容の深さ、曲集としての構成の複雑さは意欲さえあればどこまでも掘り下げていけるという、これほど見事に完成された作品は、本心から申しますが、ほかにないと考える次第でございます。

さてさて、第4巻を締めくくる今回の「夢の中で」は、曲としての平易さとは裏腹に、複雑な味わいを秘めています。しあわせな夢を最後に断ち切るffの目覚めの和音は、「たとえ思いついても誰もやらなかっただろう」と思わされる、アルカンならではの強烈なアイディア。この曲を単体として捉えれば、これは単なる冗談として受け止めても良さそうなものですが、曲集の最後にわざわざ置かれたことでちょっと様相が変わってきそう。このラストにはもう少し、大きな意味合いが与えられているのではないか。ふと、シェイクスピアの書いた「人生は、夢と同じ素材でできており......」というセリフが思い起こされます。人生=夢とすれば、目覚めの和音とは、つまり。

演奏に際しては、ともかく温かに、優しく、を心がけましょう。左手の伴奏形が、右手の旋律のカノンのようにして始まることにも注意。右手にも増して音色に気を配り、甘く歌うこと。終わり近くの "svaporandosi" は「蒸発するように」という意味です。珍しい言葉をわざわざ選んだ作曲者の心意気を汲み取りましょう。最後の和音は、どれだけこの曲を「ぶち壊せるか」の勝負です。遠慮せずいきましょう。

それではまた次回――ついに最終回、番号なしの終曲「神を讃えん」にて。


エスキスの楽譜が出版されました。 購入ページ
調査・研究へのご支援