ピティナ調査・研究

第11曲「嘆息」

何らかの作品を批評するようなとき、時代の空気、とか、新しい表現方法を切り拓いた、とか、そういった短いスパンでの流行り廃りがとても重視される。クラシックの世界はそれとはちょっと違っていて、何故なんだか、100年も200年も、場合によっては400年も前の曲を現代に再現しようとし続けている。

いわゆる文化の主流に対する評論は、同時代性に対して重きを置きすぎなんではないかな、と私は感じます。これは私がクラシックを専門に学んできたせいなのだろうか? そうかもしれない。もちろん、見ようによっては進歩を止めたかのようなクラシック界の在り方についても、いろいろ思うところはあるのだけど......。それでも、「この時代の感性が云々」といった評論を読むにつけ、人間の感性ってそんなに10年単位で変わったりするもんだろうか、と思ってしまうのでした。

いや、現代だからこそ、そんな風に感じるのかもしれない。自分が日々暮らしている生活とは別の生活を、簡単に目の当たりにできる時代です。いま世界のどこかで起こっている戦争も、急速な発展で目まぐるしくビルが建つ「新興国」の都市も――そして前世紀に起こった戦争も、同じく前世紀、現「先進国」の都市が発展していく場面も――どれもテレビで、ネットで、映像として見ることができる。

1000年前の人々の暮らしを研究するのがライフワークという人だっていて、そうした研究成果もの蓄積を誰もがネットで共有できる。そんな風に、空間も時間も縦横無尽に飛びまわって体験できるような時代だからこそ、特定の時代、特定の場所での流行り廃りの中にも、実はいつか別のどこかで起こったものの繰り返しを見つけることが簡単なんじゃないだろうか。

だから、時が止まったようなクラシックの世界の感性にも、何かひとつの理があるように思えてならないのです。時を経ても変わらずに共感を呼び起こす作品。魅力的ではないですか!

そこで「変わらないもの」とは何か、というのが問題になってくる。例の、愛や死や、そういったもの? いや、それこそ愛にもイロイロな形があることが(ネットを渉猟すれば)とてもよくわかるような時代です。死は今のところどうしようもないけれど、優秀な科学者たちが真面目に不死の研究をやる昨今、50年先にどうなるかなんて誰にもわかりません。

真実の愛とか、生き死にとか、宗教とか、そういう大きめの主題は、立場を演じる=ロールプレイングすることで共感が可能ではあります。キリスト教徒でない私でも、ミサ曲を聴きながら敬虔な気分になれたりする。まあ、本当のクリスチャンの方にはそんな適当なもんじゃない、と叱られそうですけれど。

でも、本当に変わらないもの・共感できるものというのは、些細で自動的な心の反応なんじゃないかな、と思います。嬉しいことがあって喜ぶ、悲しいことがあって嘆く、思いがけないことがあって驚く、許せないことがあって怒る。その人の信念やライフスタイルなどとは関係なく、人の脳みそが反射的に作り出す感情の動き。時代を越えていく作品は、そこがうまく表現されているのではないでしょうか。

さて、今回の曲のタイトルは「嘆息」。前回の「叱責」に続けて置かれているのがまた心憎いですね。内容も、上行するやわらかなアルペッジョの連続で、「叱責」の下行する激しいアルペッジョと見事に対をなす形です。後半が前半の2倍の早回しになるという独特な構想。早回しの後半は「おいおい、ため息つきすぎだろう」とツッコミを入れたい気分になるくらいで、止まらないユウウツ具合が実に見事に表現されています。

アルペッジョはかなり素早い指の返しが要求されますが、淡い色調を崩さないように注意しなければいけません。ペダルをかけているので、指でつなげることよりは音の粒を柔らかくそろえることに意識を集中して弾きましょう。最終的には、ひとつひとつの音が溶け合って、繰り返されるモチーフの各々が、ため息の1回1回を表したひとつの音響効果として聞こえる......くらいのつもりになれると良いと思います。

それではまた。次回はいよいよ第1巻の最後の曲、「小舟歌」です。


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