第29回「熱狂」
曲の内容を理解しようとするとき、研究方針には、曲自体を分析する方法と、曲が作られた背景を分析する方法がある。演奏家は前者を重視するし、演奏家ではない研究者は後者を大切にするでしょう。
曲そのものの外側にある情報を研究する、ということに対して、演奏家の採る態度はさまざまです。音楽はそれ自体が芸術なんであるから、それ以外のものを付け足して考えるのは邪道だよ、というのが一方の極端。人間が作るものなんだから、その人間の人となり、作曲時期にあった出来事とその影響、さらには当時の文化や風潮、事件まで含めて完璧に理解しないと真摯な態度とは言えないよ、というのがもう一方の極端。
大抵の人の態度はその両極端の中間あたりに落ち着くものです。何事もバランスが大事です!
いずれにせよ、「曲の背景を知ることが、演奏に際しての負の要素となりえる」なんて考え方はどう考えても間違っている、と私は感じる。知らないよりは知っている方がエライ、という結論で間違いないでしょう。
しかし、なんでもかんでも調べて研究している暇があったら練習してる方がよほど演奏のためにはなるはずで、調べる対象はある程度しぼりこむ必要もある。その場合、対象としている時代や作曲家によって、採るべき姿勢は変わってくるようにも思われます。
総じてロマン派の音楽を演奏するときには、作曲家個人の人生や生活ぶりを知っておくことの重要度が高い。そのことによって、作品解釈に揺ぎない根拠を与えることができます。というのも、自身の世界観に人生観、もっとぶっちゃければ、作曲当時の恋愛やら失恋やらが音楽内容ににじみ出てきてしまうのがロマン派だからです。ロマン主義は感情を尊重するため、ロマン派の音楽においては、内面の告白という要素が大事にされるのです。
それに対して、たとえば古典派の音楽は、内面からもう少し切り離された位置にあると思って良い。形式の中での調和と美を尊重するのが、古典派時代の音楽スタイルでした。個人のそのときどきの喜怒哀楽は、一般的にそれほど如実には曲に反映されていない。となると、音楽外の情報を演奏に役立てるにしても、作曲家本人の人生よりもむしろ、当時の文化や思想を理解する方が大事なのかもしれません。
さて、アルカンの場合、人生での出来事が曲に反映されて......というようなことはあまり起こっていないように見える。そもそも引きこもりがちだったので生活が謎に包まれている、というのもある。しかし、曲自体の性格としてロマン主義の香りがしないのです。
もちろんロマン派の時代なわけで、古典派のように抽象的な美や調和を重んじているわけではない。ときに感情の迸りもあるし、何らかの精神的な主題を持ち込むこともある。それでも、アルカンは喜怒哀楽といった感情も含め、すべてを「概念」として一段階処理してから曲に取り入れている気がする。
さて、アルカンという作曲家の音楽を理解するのにいちばん適しているのはどんな研究なんでしょう。私は、とにかく彼の曲に多く触れることだと思うのです。
資料を漁るのを億劫に感じる演奏家ならではの意見だナア、などと思われては心外なのでいちおう断っておきますが、たとえばシューマンが相手なら私もこんなこと言いません。彼の書いた文章だとか、クララとのあれこれの進展とか、彼の好んだ文学作品だとか、そんなものが大変参考になるでしょう。逆に、彼の作品にはそうしたものの影響が隅々まで浸透していて、ひとつコツを理解すれば大方の作品に共通しているようにも思えてくる。
アルカンの場合、バラエティ豊かで一見とりとめのない作品に触れていく内に、彼の作品の全体像、特徴、思惑などがだんだんと解き明かされていくような、そんな気がするのです。アルカンという人物をたくさんの角度から見るために、『エスキス』は最適です。なにせ49もの曲が入っているのですから。
さて、今回の「熱狂」は、『エスキス』の中でも特にロマン派的な曲のひとつ。ちなみに皆様ご記憶かもしれませんが、この曲こそ、『エスキス』が長年にわたって書き溜められたものである証拠となる小品です。1847年には、この曲の元となるニ長調のバージョンが完成しています。ちなみにこのときの手稿譜にはタイトルは書かれていません。1861年の出版に際して、曲の調性はホ長調に改められ、「熱狂」のタイトルをつけて収録されました。
いくらか練習曲的な面もあって、左手の跳躍や右手の5の指で奏する旋律など、良い訓練になるでしょう。バスが同音のままで保たれている部分が多いので、そういった場所はしっかりお腹に力を入れて、音楽を先へ先へとつなげていくこと。基本的に、和声が変わらないとか、バスが変わらないとか、そういった場面では曲を先へと急かす圧力が高い、と理解しておくときっと色々な曲で役に立ちます。
それではまた次回、「悲しき小さな歌」にて。
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