ピティナ調査・研究

第100話『西陣探訪―秘曲の面影(Ⅵ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
膨大な資料を携えて現代に戻ると、鍵一は叔父のすむ京都貴船※1で作曲に打ち込んだ。ピアノ曲『夢の浮橋変奏曲』※2の初稿が完成すると、京都は春を迎えていた。3月、友人の陶芸家・登与子とともに西陣※3を訪れ、鍵一は重要な事実を知る。

西陣探訪―秘曲の面影(Ⅵ)♪

紋紙 ※4は、楽譜のようなものです。専用の織機にそれを掛けますと、紋紙の意匠のとおりに着物やら帯やらが織り上がります」
「デザインの型紙というわけですね?」と、登与子の理解は早かった。「じゃ、『夢の浮橋』の紋紙をつかって機を織ると……ねえ鍵一君、これってすごい事じゃない?」
輝く瞳を向けられて、鍵一はまだ紋紙の何たるかが朧げであった。
「その……音符に相当するところは、どのようなデザインだったのでしょうか?B先生が所望されたからには、限りなく楽譜に近い気がしますが」
「お見せしましょう」
織屋の主人は微笑んで、すらりと立ち上がる。
客間を出るとき、鍵一は恩師の絵姿をもう一度仰ぎ見た。『21世紀の楽聖』こと、プロフェッサーB氏の若かりし姿※5に初夏が薫っている。鍵盤ハーモニカを構えたその手が、古今東西の音楽史を紐解き、幻の名曲の欠片を継ぎ合わせ、今また鍵一を未来へ導こうとしていた。

挿絵

「どうぞご覧下さい。1873年に、フランスから来た織機です」
仕切り戸がひらかれると、職人の姿はなかった。巨大な織機が、しばしの休息を取っている。縦横に空を編む金糸と絹糸が、さながらグランドピアノの弦のごとく張りつめている。織機の後方には金襴の帯が煌めいて、今まさに織られたところ。意匠を凝らした吉祥文はまだ全貌を現さず、完成には時を要するらしかった。
「フランスの発明家、ジョゼフ・マリー・ジャカールさんという方が造らはった、ジャカード式織機というものです。改良や修理を加えながら、今もこのように生きております。紋紙は……こちらです」と、短冊を数百枚も束ねたものが示された。細かな穴の穿たれた短冊は紐で綴じられ、織機の上部から朗々と垂れ下がる。
「綺麗ですね……!」
「短冊に穴がたくさん開いてますでしょう。それが、図柄を指定するための紋です。紋の彫り方は図柄によってちがいます」
うなづいてようやく、鍵一は腑に落ちた。なるほど、それは楽譜に喩えられるべきであった。音楽を織り出すものと思って眺めれば、細かな紋が音符に見える。紋の彫られた短冊が、長大な楽譜の1ページのようにも見える。
「でも、どうしてこちらに『夢の浮橋』の紋紙が……?」
「明治の初めに、この織機とともに紋紙がたくさん輸入されたんです。ヨーロッパの伝統的な図柄ですとか、当時流行の兆しがありましたアール・ヌーヴォー※6の図柄を織れる紋紙です」
Art nouveau(新しい芸術)!と繰り返して、登与子は頬に手を当てる。
「すてきですね。その紋紙をつかって、着物を織ってらしたんでしょう?」
「ハイカラな柄がとても人気やったそうです。くだものや、草花のやわらかい曲線を活かした図案が今もたくさん残っております」

挿絵

「ただ、時代が変わりまして」と、織屋の主人の声は落日のような響きを帯びた。
「昔の紋紙は、今では使わへんものがほとんどです。代々受け継いできたはいいものの、どんな図柄かもわからへんような紋紙が山ほどあります。『夢の浮橋』は、そういった紋紙のひとつでした。B先生が訪ねてこられなければ、今も蔵の片隅でひっそり眠っていたと思います」
「ひとつ、お尋ねしたいのですが」
先ほどから携えていた疑問を、とうとう鍵一は口にした。
「B先生がいらしたとき、『夢の浮橋』の紋紙をつかって布を織られましたか……?」

挿絵

「織りましたよ」
「どうでした、デザインは?」
前のめりの登与子と、額に汗の滲む鍵一を交互に眺めて、織屋の主人はおもしろそうにうなづいた。
「おふたりのご想像のとおりです」
「楽譜なんですね……!」
「B先生曰く、ピアノ・ソロ付のオーケストラの楽譜やそうです。一楽章の終盤で途切れていましたけれども、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜やと」
19世紀フランスの紋紙に記され、織機とともに海を渡り、輝く絹糸で織り出された楽譜。未だ見ぬその音楽が、鍵一の耳には grandioso ※7に響いていた。
「すごいわ。『夢の浮橋』は何世紀もかけて、世界中を巡っているのね」
はずむ登与子の声に、「じつは……」と織屋の主人が応える。
「B先生のお手紙に、こう書かれておりました。京都には他にも、『夢の浮橋』に関する品がある……と」
「他にも?」
「昔、貴船の料理旅館で一度だけご覧になったそうですよ」と、これはほんのりと疑問形で示された。
「床の間に飾られた七宝焼の壺※8が、『夢の浮橋』なる名品であったとか。壺の表面には、やはり楽譜が描かれていたそうで」
「鍵一君、それって――」
「祖父の持ち物です」
そのとき直感的に、鍵一は七宝壺を祖父の水琴窟※9と結びつけた。風雅な料理人であった祖父。骨董趣味が高じて、贋作の七宝壺を高値で購入してしまった事件。家業は傾き、一家は貴船を去るも、庭に水琴窟だけは遺されていた。どうやら音響装置が相当深く埋めこまれて、容易には掘り出せない水琴窟……
「登与子さん、手伝ってくれますか」
鍵一の胸中にいま、明るい橋が伸びていた。過去と未来を一直線につなぎ、新たな冒険へと続く橋を、みずから渡って行くつもりでいた。
「あの水琴窟を掘り出したいんです。中に埋まっているのは、おそらくその――」
鍵一が言い終えるより、登与子の微笑むほうが早かった。大きくうなづくと、珊瑚のイヤリングがきらきら揺れた。

♪夢の浮橋

挿絵
筆者ふるたみゆきより、最終回のご挨拶

第100回をもちまして、本連載は終了となります。ありがとうございました。ご支援くださった皆様に心より御礼申し上げます。
――しかし、物語はまだまだ続きます。続編は、音楽朗読劇の公演やオーディオドラマ等で発表いたします。完成までに約30年を要する長編ですが、今後もSF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』を見守っていただけましたら幸いです。

ふるたみゆきHP
◆ おまけ