第93話『スプリング・ソナタ芽吹いて♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、長崎出身の陶芸家・登与子が『夢の浮橋』の探究に加わった。
スプリング・ソナタ芽吹いて♪
accelerando
※3で日は暮れて、陶芸家が山を下りる時刻になった。
車を待つあいだ、鍵一は水琴窟※4をみせる事を思いついた。連れ立って庭を行く影が黄金色に滲んでいる。
「祖父が造ったものなんです」
「忘れ形見という事ね」
「骨董趣味が高じて身代を崩した人です。京七宝の贋作を買ってしまって、夜逃げ同然で……」※5
「粋人でいらしたのねえ」と明るく言われてみれば、京都から横浜へ移住した家系の歴史が、さほど悪くない出来事のように思われた。
圓光寺の水琴窟※6を模した盃型を登与子は喜んだ。
「このタイプの造形はめずらしいね」
柄杓を取って、雪解け水を汲んでは地中に掛けまわす。ふたり屈み込んで、じっと耳を澄ませた。地中に踊る水音が――聴こえない。
顔を見合わせて、次は鍵一が試した。――やはり、聴こえない。祖父の水琴窟は頑なに黙して、その理由さえ語ろうとしなかった。まるで自分の過失のように、鍵一は恥ずかしくなった。
「すみません」
「鍵一さんは謝らなくていいよ」陶芸家は笑った。「春先にはよくある事よ」
「そうなんですか?」
「草木の根っこが地面のなかで伸びて、水甕にひびを入れてしまうことがよくあるの。甕が割れると音は鳴らない」
「なるほど……」
「しょうがないよ、春だから」
春だから。……そのフレーズはベートーヴェンのスプリング・ソナタ※7のように、鍵一の心を和らげた。
「そうですね、春だから」
「もう少し暖かくなったら、『鉄平堂』さんに相談して掘り出そうか。もし新しい水甕が必要なら、わたしが焼くよ」
「いいんですか?」
「もちろん。大きなものを焼きたい気分なの。銘は『夢の浮橋』かな」
笑顔で請け合って、陶芸家は帰って行った。車を見送って、鍵一は母屋へ戻った。夕餉の煙が香ばしい。台所を覗くと、特大の中華鍋が鼻歌まじりに躍っている。古美術商もまた、大きなものを焼きたい気分らしかった。
♪ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第5番「春」 Op.24 ヘ長調
つづく
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪
第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。
音楽用語で「だんだん速く」の意。
第63話『水琴窟きらら♪』をご参照ください。
第64話『美味しいうつわ♪』をご参照ください。
ベートーヴェン作曲のヴァイオリンソナタ第5番。「スプリング・ソナタ」「春」という副題は、後世の人が付けた愛称です。