ピティナ調査・研究

第95話『西陣探訪―秘曲の面影(Ⅰ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1で作曲に打ち込んだ。『夢の浮橋変奏曲』※2の初稿が完成すると、京都は春を迎えていた。

西陣探訪―秘曲の面影(Ⅰ)♪

水温む午後、西陣※3の用事には登与子が付いてきた。西陣織会館前※4で待ち合わせると、「完成おめでとう」開口一番に祝った。
「見たよ、『夢の浮橋変奏曲』。楽譜ありがとう」
「お恥ずかしいです。まだ書き直す箇所がいろいろと、それに第7変奏が……」※5
鍵一の逡巡を聴き取ると、「でもさ」陶芸家はやわらかく反論した。
「最後まで書き上げたからこそ、直すべきところが見つかったんだよね」
「そうですね……」
「内容はどうあれ、初稿の完成はめでたい事よ。作品を完成させるのって意外と難しいから」
うなづいて一緒に歩き出しながら、鍵一にはあまり誇らしい気持ちは起こらなかった。楽譜の欠点は気懸かりで、いくら登与子に褒められても手放しでは喜べなかった。ただ、創作について人と話し合えるようになったのは、自分の確かな変化ではあった。
「見て、鍵一君。あの樹だけ咲いてる」
ふいに登与子が声を上げた。大通りの向こう岸に、そこだけ春が濃い。
「桜でしょうか」
伸び上がって、鍵一はあらためて堀川通のひろさに目をみはった。平安京の頃より交通の要であった堀川通は、19世紀パリのシャンゼリゼ大通と同じくらいに道幅が広かった。行く手にはパティスリーの看板が見えた。暖かな風に乗って、チョコレートの匂いが流れて来る。
「そういえば、知ってる?パリのエッフェル塔※6の近くにも、桜が綺麗なところがあるの」
「そうなんですね。あの……留学中はエッフェル塔に行く機会がなくて」
「わかる。定番の観光名所って、意外と素通りしちゃうよね」
まだ建設されていなかったもので……とは言えずに、鍵一は心の手帖に書き留めた。パリに桜の名所あり。
「いつか見てみたいです」
「パリに着いたら、すぐ見られるよ。4月には戻るんでしょう?」
「ええ、まあ」鍵一の言い淀んだところで、登与子は立ち止まった。
「ねえ、この辺りかしら?」

挿絵

「文政7年創業」
名刺を春の陽にかざし見て、登与子は織屋の屋号を読み上げた。「1824年……『夢之浮橋音楽図巻』が描かれた頃だね※7。今日は叔父さんの御用だっけ」
「クリーニングに出していたものを取りに行くんです。羽織袴と、絹の手袋」
「手袋?」
青空に疑問符を跳ね上げて、登与子は振り向いた。鍵一は1838年の春、やはり手袋の件でフレデリック・ショパンを驚かせた事を思い出した。※8
「師匠が貸して下さったんです。パリではお洒落をすべきだという事で」
「実際、パリではどうだったの?」
『きみ、この手袋をどこで手に入れた?』
あのとき、『ピアノの詩人』は鍵一の手袋を見て、確かにそう言った。彼自身も白い絹手袋を嵌めていた。優美な音楽を紡ぎ出す手に、それはいかにもふさわしく見えた。

♪ショパン:エチュード集(練習曲集) 第2番 Op.25-2 ヘ短調

「ピアニストの方に驚かれました。その手袋をどこで手に入れたのか、と」
「興味津々だった?」
「たぶん」
「じゃ、先生の仰ったとおりだったのね」
「どちらかというとその方は、前にも同じ手袋を見た事があるような……そういうニュアンスでした。とてもびっくりされて、ぼくも驚いたんです」
「ピアニストの方は、その手袋を探していたのかな」
「探していた……?」
「ほら、どこかで見掛けた手袋のデザインがすごく好みで、ずっと気になっていたとか。親しい人が似たような手袋をしていたとか」
話しながら角を曲がると、機を織る音が ritmico ※9に聞こえて来た。

挿絵

つづく

◆ おまけ