ピティナ調査・研究

第91話『文政のハーモニー♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は長崎出身の陶芸家・登与子に出会った。

文政のハーモニー♪

巨大な彗星が、夜空に光の尾を引いている。地上の人々は手に手に楽器を奏しつつ、彗星を仰ぎ見る。円形の野外劇場らしく、楽隊の足元にはコスモスの花が群れ咲く。髪を振り乱したピアノ奏者の風貌が、どこかベートーヴェンに似ている。ヴァイオリン奏者たちは笑いさんざめきながら彗星を歓迎する。ホルン奏者はおののき、椅子から半ば立ち上がっている。ハープ奏者の飄々とした物腰に、鍵一は目をみはった。右腕にハープを抱え、左手にワイングラスを掲げたその人こそ、19世紀の楽器製作者ピエール・エラール氏から伝え聞いた※3ニコラ=シャルル・ボクサに違いなかった。※4
「夢之浮橋音楽図巻」と、叔父が欄外の文字を読み上げる。「川原慶賀筆、文政7年……1824年だな」
しばらくは三人三様に黙っていた。
無数の雨のしずくが集って海になるように、名曲のかけらは継ぎ合わされて巨大な音楽になる。早春の座敷に煌めく絵巻は、だれよりも risoluto ※5にその事を物語っていた。

挿絵

「さて、おもしろくなってきたぞ」
古美術商が愉快そうに口火を切った。鍵一と登与子はうなづいた。
「まず、この絵巻の作者がほんとうに川原慶賀※6なのか……ですよね」
「長崎の御歴々はどう言ってる」
「祖父は慶賀作だと力説してましたけど」陶芸家は肩をすくめた。「わたしは正直、どちらでもいいかな」
「どちらでも?」
「作者が慶賀でも、慶賀じゃなくても。わたしがこの絵巻を好きなのは、慶賀の作品だから……というわけじゃないので」と、金銀泥※7で彩られた演奏風景を愛おしそうに眺めた。
「楽しい絵ですよね。音楽家の表情がみんな豊かで、神秘的な空気もあって。……『鉄平堂』さんはどう思います?作者について」
「慶賀だろうな」即答のち、古美術商はにやりとした。
「ただし、アンティークの世界に『絶対』はない。あるのは推論の集積だけだ」
障子に明るい影がふわりと映った。そのまま縁側に寝転んで、猫耳が座敷の会話を聴いている。鍵一は居住まいを正した。
「叔父さんは、どうして慶賀の作品だと思ったんですか」
「理由はいくつかあるけどな。判断材料として大きいのは箱書き※8だ」
古美術商は桐箱のふたを取って見せた。細かな墨書の署名に、意外にもアルファベットが読めた。
「Toyosky……?」
「登与助(とよすけ)ね。慶賀の本名」照れたように笑う登与子の、命名の由来なのだった。古美術商はよどみなく続けた。
「慶賀の『阿蘭陀芝居図巻』にも同じ署名がある。1820年、長崎で上演されたオペレッタ※9のスケッチだ」
「びっくりですよね。この時代に、日本でオペレッタが上演されていたなんて」
目を輝かせた登与子のとなりで、鍵一はさほど驚かなかった。19世紀パリの景色を思い返せば、1820年にはすでにロッシーニ※10のオペラがヨーロッパを席巻し、マイアベーア※11の新作がミラノ・スカラ座で成功をおさめ、パリではオペラ座の本拠地たるサル・ル・ペルティエの建設が急がれていた。※12それら西洋の熱気が海を渡り、江戸時代の長崎に花開いたとて、なんらふしぎではなかった。

♪リース作曲:ロッシーニの歌劇「タンクレディ」からポラッカによる、ロンド Op.104-1※13

挿絵

つづく

◆ おまけ