第94話『春暁の旅心♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、長崎出身の陶芸家・登与子が『夢の浮橋』の探究に加わった。
春暁の旅心♪
春は貴船山をやわらかく覆うた。古美術商『鉄平堂』の庭には織部型の石灯籠※3、ガレのガラスランプ※4、その他さまざまに散らかった叔父の趣味が顔を出して、猫のフェルマータの遊び場になった。
梅の香が聞こえるころ、作曲はようやく完成をみた。全12変奏からなるピアノ独奏曲、『夢の浮橋変奏曲』。
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、19世紀で出会った人々の肖像画を表したこの曲において、第7変奏「鍵一とフェルマータの肖像」のみ、考えをまとめきれなかった。白玉※5で和声進行を記して、機が熟すのを待つ事とした。……けれども、ともかくも鍵一の手には、この数か月の試行錯誤の束があった。
(これでまた、19世紀のみなさんに会える)
東雲の空を仰ぎながら、鍵一は深く安堵した。フランツ・リストやジョルジュ・サンド、ピエール・エラールとの約束――ピアノ曲を書き上げて、春にはパリに戻ります――を、どうにか果たせそうではあった。
出立の日取りを考えながら、鍵一は五線譜を清書し、叔父のプリンタでコピーを取り、短い手紙を添えて各所に郵送した。プロフェッサー・B氏宛。調律師の橋本氏宛。横浜の両親宛。陶芸家の登与子宛。
草木萌動(そうもくめばえいずる)ころ、古美術商『鉄平堂』の仕事は大いに忙しくなった。居候たる鍵一は19世紀でそうしていたように、みずから進んで店の用事を引き受けた。
東風に誘われて京のまちを歩けば、思いがけず19世紀パリとの接点を見つけた。見覚えのあるガス灯は、姉妹都市の友好の証にパリ市から京都市へ贈られたものであった。※6北野天満宮の骨董市※7で手に取った琵琶譜は、1838年のパリで買い求めた『チェルニー40番』※8初版本の手ざわりによく似ていた。京菓匠の店先に飾られた工芸菓子は、宮廷料理人アントナン・カレームのピエスモンテ※9を思わせた。
バスを乗り継ぎ、橋を渡り、ひねもす洛中を歩いていると、現地の言葉が耳に馴染んだ。どこまでも
Legato
※10につづく京都のイントネーションに、フランス語と似た響きを聞き取れる事もあった。
「おとふこうてきましたえ」
仕事場へ声をかけると、叔父は驚いて「なんだ、なんだ」と振り向いた。
「お豆腐を買ってきました。お店の方のご厚意で、湯葉も付けていただいて……」
老舗のビニール袋を掲げてみせると、「おまえには旅人の才能があるんだな」笑って古美術商は木魚※11をポンと叩いた。紫檀の仏具は、よんどころない事情で持ち込まれた品物らしかった。
「才能でしょうか?」
「旅先の言葉をすぐ覚える。旅先のものを楽しんで食う。人に親切にしてもらえる。それは才能だ」ポンポンと叩いて続けた。
「B先生がおまえを19世紀の旅に送り出したのは、そういうところを見込んでの事だろう」
「先生のお考えはよくわかりません」と、これは本音を言った。
「19世紀の音楽家にインタビューをしてほしいと頼まれたのですが……今思えば、先生がご自身でタイム・トラベルをなされば良いわけですから。ご厚意で、ぼくに機会を下さったのだと思います」
「ともあれ、プロフェッサー・B氏がおまえに旅人の資質を見出したのは事実だ」
またバチを握って、ポンと話の拍子を取った。
「ただし、旅人には宿命もある」
「なかなか実家に帰れない」
「然り」
「旅先に永住はできない?」
「然り」
Andante
※12で響く木魚を聴きながら、鍵一はこの1年間の道行きをなつかしく思い起こした。もし自分に旅の才能があるとすれば、それは喜ばしい事に違いなかった。それに伴う困難は、今のところ大した問題ではないように思われた。
「4月の末には、19世紀パリへ戻りたいのですが」
「よし」
「できればその前に、B先生にお会いしたいです……それ、あとで叩いてみていいですか」
「いいよ。それから」コタツに手を伸ばして、名刺を一枚取って甥へ渡した。「その店へ行って、着物を取ってきてくれ」
「西陣織?※13」
「京都の織物の聖地だ。洗い張りに出してた着物が仕上がったから、取りに来てくれとさ」
「叔父さん、着物を着られるんですか」
「おまえの羽織袴と手袋だよ」と言われて、恩師に貸してもらった旅衣を思い出した。
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。
石灯籠は、石造りの照明具。仏教とともに伝来し、社寺に置かれました。茶の湯が流行すると、茶庭(露地)の夜間照明として使われるようになり、さまざまな形が造られました。茶人の古田織部が好んだ石灯籠の形は「織部型」「織部灯籠」などと呼ばれています。
エミール・ガレ(1846-1904)は、フランスのアール・ヌーヴォー様式を代表するガラス工芸家・デザイナー。花瓶やランプなど、優れたガラス工芸品を創りました。
生涯を通じて旅を好み、ドイツ、イタリア、スイスなどに長期滞在しています。ヴァイマールではフランツ・リストやワーグナーの音楽にふれ、創作のインスピレーションを得たといわれています。
二分音符、全音符など、白い丸で表される音符の俗称。
第62話『雪色の日課─チェルニー、魯山人、あるいはタヌキ♪』をご参照ください。
アントナン・カレーム(1784-1833)は、フランスの宮廷料理人、パティシエ、著述家。
ピエスモンテ(大型装飾菓子)とは、晩餐会やセレモニー等で供される大型の菓子。カレームが大成したといわれています。
音楽用語で「なめらかに演奏する」の意。
読経の際に拍子を取るための仏具。テンプルブロックという名称で、打楽器として音楽に用いられることもあります。
音楽用語で「歩くくらいの速さで」の意。