ピティナ調査・研究

第61話『山羊座の19歳、浮橋を渡る♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。19世紀で通用するコンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)になるべく、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
山羊座の19歳、浮橋を渡る♪

「それにしても上達されましたね。『きらきら星変奏曲』でデビューされた6歳の坊ちゃんが、今このように御立派になられて」
するとこの調律師は鍵一の初舞台、Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)※3のオーディエンスなのだった。耳まで赤らめた鍵一へ、
「19に成られましたか」
相手は agevolmente ※4に尋ねた。まだ18です、と言い掛けて、山羊座の鍵一は自分の誕生日が近しいと気づいた。
「そうですね……!数日後に19になります」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
もう結構な歳ですね、と笑って耳たぶを掻いて、はっとした。『外国人クラブ』のシェフが、常連の音楽家たちの来歴を教えてくれた事があった。
19歳のフランツ・リストはパリで『幻想交響曲』※5の初演を聴き、そのピアノ編曲版を創るという難事業に挑んだ。19歳のアルカン, シャルル=ヴァランタン※6はすでにパリ社交界で成功を収め、ピアノの可能性を拓く新たな協奏曲を構想していた。19歳の『博学のヒラー』※7は師フンメルの教えを活かし、大いなる教養を備えた即興ピアニストとしてパリで名声を獲得しつつあった。彼らの盟友ショパンはウィーン・ケルントナートーア劇場で演奏会をひらき、演奏会用ロンド『クラコヴィアク』※8が絶賛された。19歳だった……!
「今の坊ちゃんと同じ、19の歳でしたよ。B先生が初めて作曲に取り組まれたのは」
しばらく鍵一の顔を見守っていた調律師はそう言って、大きな仕事鞄を取り上げた。
「『夢の浮橋変奏曲』、完成されましたら聞かせてください」
「はい、必ず……」
口ごもりながら、鍵一は途方もない心地におそわれた。
(同じ19歳からのスタートでも、B先生とぼくとじゃ雲泥の差じゃないか。『夢の浮橋変奏曲』を春までに書き上げて……それを携えて19世紀パリのサロンにデビューする事も、B先生なら楽々とやってのけるだろうけど)
調律師を見送りに出ると、雪は止んでいた。夕暮れに霞む山の端に、大福のような満月がもっちりとのぼっている。

離れの座敷に引き返すと、猫のフェルマータがピアノの上に寝そべっている。
思い立って、『夢の浮橋』の楽譜※9を譜面台に置いてみた。秘曲のフレーズは朧げな光を纏って、21世紀の京都にもたなびいている。
(B先生は、幻の名曲『夢の浮橋』の存在をご存じなのかしら)
ゆるやかなアーチ型の音型を弾いてみると、雲の上に淡い橋が架かる。鍵一は師の経歴を遠く思い描いた。……イニシャル『B』。1954年生まれ。出身地不詳。1970年、ショパン国際ピアノコンクール第1位。他、受賞歴多数。10代半ばより欧州を拠点に演奏活動を行なう。19歳で自作自演のピアノ曲集『金継ぎ(KINTSUGI)』※10をリリース。……

♪幻の名曲『夢の浮橋』モチーフ

つづく

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