ピティナ調査・研究

第56話『ドイツ・アンティークの夢♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師から謎めいたミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。19世紀パリの人々との交流から、鍵一は多くを学ぶ。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。数千年にわたり受け継がれて来たという幻の名曲の謎を探りつつ、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
ドイツ・アンティークの夢♪

「このティーセットは実に好いマイセンなんですよ、俺が未だ青二才でサザビーズ※3の使いッ走りをしていた時分にね、当時の……」と叔父が勢い込んで話し出した途端に電話が鳴った。紅茶の湯気が雪見障子を湿している。美術商が1オクターヴ高い声で「お世話様でございます、ええ、先日の?伊万里が?」などと廊下を遠ざかって行くのを聴きながら、鍵一は仕事を終えた調律師と差し向かいでテーブルに腰掛けた。
覚束ない手でドイツ・アンティークの名品を取って見れば、19世紀パリからル・アーヴルへの旅中、一等客室で出されたカップに似ている。※4調律師は表情ひとつ変えずに、薫り高い紅茶をゆっくりと啜った。
「すみません、忙しない叔父でして」
「……いいえ」
「……」
「……」
「19世紀のものでしょうか」
「……製作年代は18世紀かもしれません。ブルー・オニオン※5ですから」
「青い玉ねぎ、ですか?」
「アウグスト強王の死後に編み出された技法です。中国の柘榴模様を真似たとか」
「アウグスト強王……?※6
「大航海時代の終焉にふさわしい品と思います」
噛み合わない会話を食みながら、鍵一はこの調律師との対話の仕方についてすばやく頭を巡らせた。腹の底の読めない相手から言葉を引き出す術を、鍵一は19世紀の『フランス・ピアノ界のエトワール』こと、シャルル=ヴァランタン・アルカン氏※7との対話から学んでいた。相手のリアクションが芳しくなくても、粘り強く話し続けること。相手の関心がわずかでも見えたら、すかさずその水脈を掘ること。相手が話し出したら、こちらもトーンを合わせること。

「マイセンは……ドイツの老舗の磁器メーカーですよね」
「ええ」
「お好きですか」
「嫌いではありません」
「ぼくもです」
「……」
「ぼくのピアノ……先ほど調律してくださったベヒシュタイン・ピアノも、ドイツのメーカーですよね」
「……」
「そういえばパリに留学中、ドイツ出身の音楽家の曲についても勉強したんです。F.ヒラーという、19世紀パリで活躍された音楽家……ショパンさんやリストさんとも親交の深い方で、『博学のヒラー』という異名を※8
「正確には『調整』と『調律』です」
鍵一をやわらかく遮ると、相手は tranquillo ※9に続けた。
「パーツに不具合がないか点検し、最適な状態を維持するのが『調整』。平均律に合わせて音を整えるのが『調律』。調律の工程では、19世紀後半に造られたピアノならではの音色を保持するため、モダン・ピアノとは異なる手心を加えています」
鍵一は深くうなづいて、調律師の言葉を心の手帖に書き留めた。
「ありがとうございます。あれはやはり19世紀のピアノなんですね。どうりでフランツ・リストさんの曲がよく鳴るはずです」
「お言葉ですが、坊ちゃん。私はそうは思いません」
「?」
「リストの音楽は19世紀という時代や、特定のピアノ・メーカーに留まるものではなく、時代や楽器を超えて未来に永く響くものだと思います。19世紀のベヒシュタイン・ピアノだからフランツ・リストの曲がよく鳴る、というのは、少々短絡的に思われます」
「……すみません」
「謝ることはありません。坊ちゃんと私の考えが異なるという、ただそれだけの事ですから」
会話が途切れた。ひんやりした対話とは裏腹に、鍵一はむずむずと嬉しかった。出来ることなら、プロフェッサー・B氏がベヒシュタイン・ピアノをこの家に送って寄越した事情を聴き取りたい。さらに『天球の音楽』と、それを典拠とした幻の名曲『夢の浮橋』について尋ねてみたい。しかしその前に、言わねばならないことがあった。
「あの……」
「……」
「調整と調律をしていただいている間、あなたが仰ったことについて考えていました」
「……」
「『人生の選択はすべて、自らの手で為されるものだ』と。あなたが」※10
「橋本と申します」
「橋本さんの仰るとおりだと思います。B先生の門下を離れるように強く勧めたのは母ですが、それに従ったのはぼくの意思ですから」
「……」
「でも、パリ留学をきっかけに、もう一度B級メソッドを学び直そうと思ったのです」
「……なぜです」
「作曲の必要に迫られたからです」
調律師の表情が動いた。

♪幻の名曲『夢の浮橋』モチーフ

つづく

◆ おまけ
調査・研究へのご支援