第30話『構想中!夢の浮橋変奏曲♪』
サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、1838年の大晦日、ひとり船旅に出た。ル・アーヴル港ゆきの船内※1にて、いよいよオリジナル曲の創作が始まる……!
勢いよく立ち上がった鍵一の足元に紙束が落ちた。拾い上げて、鍵一は思わず「あッ」と声を上げた。作曲用の五線紙であった。
(1830年代のフランスでは、質の良い紙は貴重なのに……こんなにたくさん)
鍵一は自分を囲む餞別の品々をひとつひとつ、もういちど眺めてから丁寧に薄葉紙(うすようし)に包みなおした。偉大なヴィルトゥオーゾたちの楽譜。帆立貝の貝殻に詰められた、美しいウルトラマリン・ブルーの絵具。作曲用の五線紙。19世紀の最新式の鉛筆と消しゴム※2。……それぞれの品にこめられたメッセージが、胸に熱く沁みた。
鍵一は手早くトランクを片付けると、まっすぐに一等客室の書斎へ駈け込んで、デスクへ五線紙をひろげた。今こそ、頭の中の宝箱に仕舞い込んでいた曲の構想を、この世の空気にさらすときであった。
(この19世紀の旅でお世話になった人たちの肖像画を、変奏曲の形式で描いてゆこう……!『夢の浮橋』のモチーフをいろんなやりかたで展開しながら、それぞれの方の魅力や、印象的なできごとを表現したい。
まずは、曲の設計図をきちんと創る……!)
チェルニー氏から贈られた幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフ※3を、五線紙の左上にちからづよく書き付ける。そうして一気に構成案を書き出した。
【夢の浮橋変奏曲 構成案】
第?変奏:ベートーヴェンの肖像(音楽家・楽聖)
第?変奏:ショパンの肖像(音楽家・ピアノの詩人)
第?変奏:ジョルジュ・サンドの肖像(作家・19世紀パリの紫式部)
第?変奏:シェフの肖像(レストラン『外国人クラブ』)
第?変奏:アルカンの肖像(音楽家・フランス ピアノ界のエトワール)
第?変奏:ヒラーの肖像(音楽家・博学多才のドイツ人)
第?変奏:エラールの肖像(老舗ピアノメーカー経営者)
第?変奏:ドラクロワの肖像(画家・色彩の魔術師)
第?変奏:ベルリオーズの肖像(音楽家・文学×音楽のマリアージュ)
第?変奏:チェルニーの肖像(音楽家・古典音楽の番人)
第11変奏:リストの肖像(音楽家・ピアノの魔術師)
(さて、変奏曲をどう並べるべきか? それが問題だ。並べ方によって、聴き手に伝わることが変わるから……かつ、飽きさせないように工夫をしないと。
もし、ぼくがお会いした順序に並べるとすれば、ショパンさん→ジョルジュ・サンドさん→リストさんの順になるけれど。
全体の構成を鑑みると、やっぱり『リストさんの肖像』は最終変奏にしたいんだよなア。皆さんがレストランで戯れに弾いていらした『ヘクサメロン変奏曲』※4も、リストさんがアレンジなさるとすごく華やかだったから。
よし……最終変奏は『リストさんの肖像』に決めた。リストさんらしい華やかなパフォーマンスと曲調で、変奏曲のフィナーレを飾ろう。
さて、他の方の変奏曲をどう並べようかな?
音楽史の時系列を考えると、ベートーヴェンとチェルニー先生だけ、少し年代が前なんだよな。おふたりとも、活動拠点がパリじゃなくてウィーンだし。年代が古い順に並べるとすると、こうだな)
第1変奏:ベートーヴェンの肖像(音楽家・楽聖)
第2変奏:チェルニーの肖像(音楽家・古典音楽の番人)
(でも、第3変奏以降はみんな同時代の人だしなア。法則性が中途半端になっちゃう。やっぱり、年代順に並べるのはやめよう)
消しゴムで何気なくそのアイディアを消そうとして、はっと手が止まった。ベートーヴェンとチェルニーの名前を消すのがいたたまれなかった。
鍵一は鉛筆でそのアイディアを丸く囲むと、
『年代順×』
と、その脇へ記しておいた。
(うーむ、並べ方を考えるのって難しいな……
いっそ、調性から組み立ててみようかな?
変奏曲のセオリーに則って、短調と長調を交互に配置して、メリハリをつけた上で、それぞれの曲をドイツ舞曲風に、または行進曲風に、あるいはギター曲風に、さまざまに展開したい。※5
じゃ、どなたの曲を短調に、どなたの曲を長調にしようかしら。なんとなく、それぞれの方に対してイメージはあるんだけれど。静かな佇まいのアルカンさんは翳りのある短調で、向日葵(ひまわり)みたいに朗らかなヒラーさんは明るい光のような長調、などなど。いったん書き出してみようか。
長短?:ベートーヴェンの肖像(音楽家・楽聖)
長短?:ショパンの肖像(音楽家・ピアノの詩人)
長短?:ジョルジュ・サンドの肖像(作家・19世紀パリの紫式部)
長調?:シェフの肖像(レストラン『外国人クラブ』)
短調?:アルカンの肖像(音楽家・フランス ピアノ界のエトワール)
長調?:ヒラーの肖像(音楽家・博学多才のドイツ人)
長短?:エラールの肖像(老舗ピアノメーカー経営者)
長調?:ドラクロワの肖像(画家・色彩の魔術師)
長短?:ベルリオーズの肖像(音楽家・文学×音楽のマリアージュ)
長短?:チェルニーの肖像(音楽家・古典音楽の番人)
長調?:リストの肖像(音楽家・ピアノの魔術師)
……弱ったな。こう書き出してみると、みなさまの人柄を長調と短調、どちらかで表すこと自体に、無理があるような気がしてきた。
アルカンさんだって、レストランで皆さんと軽口を叩いていらっしゃるときは明るくて饒舌だったし。ふるさとの風見鶏のエピソード※6を話して下さったヒラーさんは、静かな奥行きを湛えていらした。短調の曲にしても明るさはつくれるし、長調でも翳りを出すことはできる。となると、調性ありきで曲を組み立てるやり方は、やめたほうがいいかしら……。
あッ、もしくは、山場を先に決めたほうがよいかも? 全部の変奏曲を同じ分数で弾くわけじゃないし。というか、全体で何分ぐらいの曲になるのかしら、これ?)
書いては消し、消しては書き、すぐに鍵一の手は真ッ黒になった。19世紀の貴重な上質紙に余白ひとつ残すまいと、字はどんどんと細かくなった。猫のフェルマータがデスクの端に寝そべって、五線紙の試行錯誤をおもしろそうに眺めている。
そのとき書斎の扉がノックされた。
「ケンイチ様、いらっしゃいますか。ティータイムのサーヴィスです」
「は、はいッ、どうも」
うわのそらで扉を開けた鍵一、腕ッぷしの強そうな水兵からぬッとお盆を差し出されて跳び退いた。見れば、紅茶とマカロン。※7
(そういえば、初めて創った曲は『吾輩は猫である』の読書感想文だったな)
フェルマータが紅茶ポットにふわりと身体を寄せて温まっている。そのふんわりとした猫背が、かつて夢中で読んだ小説の挿絵の猫に似ていた。
(夏目漱石の『吾輩は猫である』は、小学生のぼくには手ごわくて。B先生が貸して下さった『青い鳥文庫』※8の上下巻を、毎日すこしずつ読んだ。毎週のレッスンは、その感想を曲で表すことから始まるんだ。ぼくが八小節ばかりのつたないフレーズを弾いてみせると、先生はそれをモチーフとして、即興でソナタを弾いて下さる。ぼくはその曲を聴き取って、楽譜に書き起こす。書いた楽譜をさらにアレンジして、初見で弾いてみる。……ぼくはそれを、B先生の考案なさったゲームだと思い込んでた。
でも中学に上って、音大付属の音楽教室に通い始めて知ったんだ、あれは西洋音楽の基礎訓練、ソルフェージュだった……! 音楽を聴いて、それを楽譜に書き起こす。初見の曲を演奏する。音楽理論を活かして曲を創る……)
こうばしいマカロンをかじって、鍵一は師のレッスンルームの風景をなつかしく思い起こした。
天井には、かつて明治政府がパリ万博の際に現地で買い付けたという、アール・ヌーヴォー様式の優美なシャンデリア※9が輝く。星のデザインをちりばめたガラスの大窓をひらけば、のどかな田園風景が一望できる。窓辺に長椅子が一台。中央にグランド・ピアノが一台。猫足の紫檀テーブルが一台、付属の猫足椅子が二脚、壁際に本棚。
そのレッスンルームの壁に、いちまいの絵が掛けてある。ちからをこめて青色のクレヨンで描かれた曲線はうねり、ねじれ、まるでいびつな一艘の小舟。
(3歳のぼくが描いた、ピアノの絵。生まれて初めてお父さんに連れられて、子供向けのコンサートに行って……B先生の弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いて感動して、心のままに描いた。初めてのレッスンの時に、B先生に絵を進呈したらとても喜んでくださって。以来ずっと、あのレッスンルームに飾っておいてくださった。恥ずかしいから捨てていいですよと何度もお伝えしたけれど、
『何を言う。これはワシが手に入れた、鍵一画伯の貴重な作品。コレクションをどう飾ろうと、ワシの勝手じゃ♪』
なんて仰って、取り合ってくれなかったんだよね)
♪ベートーヴェン作曲 :ピアノ・ソナタ 第14番 「月光」 第2楽章 Op.27-2
師の音色を遠く想いながら、ふと鍵一は重大なことを思い出した。
(ぼくがいずれ、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』を披露する事になるのは、19世紀パリのサロンだ。そのとき弾くピアノは、現代のグランド・ピアノじゃない。19世紀の、プレイエル社のピアノなんだ……!)
つづく
ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。
ヨーロッパで鉛筆作りが始まったのは16世紀。消しゴムが登場したのはその約200年後、18世紀のことです。どちらも19世紀後半に改良が進み、現在のようなかたちになりました。
第15話『橋守♪』をご参照ください。
alla danza tedesca(アッラ ダンツァ テデスカ):ドイツ舞曲風に
alla marcia(アッラ マルチェ):行進曲風に
alla chitarra(アッラ キタッラ):ギター曲風に
第21話『ふるさとは、遠きにありて♪』をご参照ください。
フランス銘菓のマカロンは、地方によってさまざまな形や製法があります。
鍵一が船内で食べているのは、イタリア発祥のバーチ・ディ・ダーマ(Macaron Baci di dama)というマカロンの一種。
現在有名な、2枚のやわらかなマカロンにクリーム等をはさんでしっとりと焼き上げるタイプのマカロンは、20世紀にパリのパティスリー『ラデュレ』が生み出したものです。
講談社の児童書レーベルです。夏目漱石の『吾輩は猫である』、新装版は電子書籍でもお楽しみいただけます。
明治政府は、パリで開催された万博に4回(1867年、1878年、1889年、1900年)参加しています。
当時ヨーロッパで大流行していたのが、アール・ヌーヴォーという美術運動でした。花や植物のモチーフや、曲線を組み合わせた優美なデザインが特徴です。