ピティナ調査・研究

9. 「スクリャービンの伝記」という神秘:2. サバネーエフ『スクリャービン回想』(1925)①(概要と切り口)

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:2. サバネーエフ『スクリャービン回想』(1925)①(概要と切り口)

スクリャービンが世を去り、その語り部たちの記憶が薄れ、スクリャービンの生涯や人格について間接的にだけ知り、語る者が増えていくにつれ、スクリャービンに被せられた真偽不明の神秘のベールはどんどんと多層的なものになってきます。例えば1920年代以降の回想や伝記のうち、特に代表的な存在であるシリョーツェルの『スクリャービン』第一巻(1923)とサバネーエフの『スクリャービン回想』(1925)には、著者たちの先入観や、彼らが置かれた地位や立場によるポジショントークがしばしばみられます。また、それらを資料として用いた伝記には、その種の言説が特に検討も留意もすることなく権威として引用されることになりました。さらにそれが孫引きされ、また「曾孫引き」され……その繰り返しで、今のスクリャービン像が出来上がったと言えるでしょう。

我々がスクリャービン像のありようを正確に把握するために気をつけなければいけないことはいくつかあります。ですが、今回強調したいのは、以上のようなかたちで広まったスクリャービン像の基礎をなす伝記がどのような立場の人間によって、どのような態度をもって書かれたのかを把握しなければならない、ということです。


さて、今回から数度にわたって取り上げるのは、シリョーツェルとサバネーエフによる十月革命後のスクリャービン記述です。この二人は、シリョーツェルがスクリャービンの義兄(内縁の妻の兄)、サバネーエフが晩年の親友と、それぞれスクリャービンに親しかった人物です。この二人が、スクリャービンを直接に知りながら分厚い「スクリャービン伝」を記した最後の著者になりました。

時系列的には前後しますが、今回は前々回にも取り上げたレオニード・サバネーエフ(1881~1968)が著した『スクリャービン回想』(1925、以下『回想』)を取り上げたいと思います。
すでに本連載の第6回第7回で取り上げた『スクリャービン』(1916; 1923再版)から9年後、十月革命を挟んで改めて刊行されたこのスクリャービン本は、当時2000部発行されました。しかしそれ以降の再版はなく、2000年※1にモスクワの「クラシカ-XXI」社が復刊するまで稀覯本となっていました。ですから、図書館で本書を閲覧できるロシア国内はともかく、国外でこの本そのものを直接参照できる機会は少なかったはずです。そう考えると、本書が「スクリャービン神話」に与えた影響は少ないのではないか? とも思われます。

しかし、実のところはそうではありません。ソ連国内でスクリャービンに言及する際はほぼ必ず『回想』が言及され、種々の事典、例えば『大ソヴィエト百科事典』(第三版)などにも参考資料として掲載されています。ソ連期に出版された主なスクリャービンの伝記※2では、多くの場合は否定的な筆致ではありますが、サバネーエフの書物に触れています。また、アメリカで一種のスクリャービン・ブームを巻き起こしたとされるフォービアン・バワーズの『スクリャービン伝』(1969; 増補改訂版1996。本連載でも後に本格的に取り上げます)には、おそらくサバネーエフを出典とする記述が多く見られ、著者のバワーズ自身も「種本」の一つとして用いたと言及しています(Bowers 1996: 8)。また、本連載第1回でも言及したように、森松晧子氏の訳で我が国でも翻訳が出版された※3こともあり、スクリャービンについてなにか書いたり調べたりする際、サバネーエフの『回想』に触れたことのある人は少なくないはずです。

このように、サバネーエフの書物とその内容は、今日ある程度人口に膾炙しているように思えます。しかしその一方で、それがどのような態度で書かれたものなのかが改めて考えられた機会は少ないようです。例えば、上に挙げたソヴィエト期の伝記では、サバネーエフの記述が「似非マルクス主義だ」と非難され真正面からは顧みられず、バワーズも「[サバネーエフ等の論を]そのまま引用し、ときどき意見の相違や疑問はあるにせよ、私の記述がこれらに負うところは多い」(Bowers 1996: 8)とし、その内容の特質を一考することはなかったようです。
このようなことを踏まえて、今回と次回は、サバネーエフの革命後の活動や立ち位置を踏まえたうえで、『回想』がどのような態度をもって書かれたのかを明らかにしながら、そして現代に生きる私達がその内容をどのように理解すればいいのかを考えてみましょう。

サバネーエフの革命後の活動

すでに第6回の記事で、サバネーエフがどのように楽壇でキャリア形成をしてきたのかについては触れました。彼が積み上げてきた業績は革命後も重視され、サバネーエフはソヴィエト音楽界の権威の一人となります。例えば、1921年には芸術学アカデミーの音楽部門長および理事を務め、1921~23年にはソ連共産党機関紙の『プラヴダ』や政府機関紙の『イズヴェスチヤ』の音楽評論家としても活動しました。1923年には親しい音楽家たちとともに、モダニズム音楽をプロパガンダする組織として知られる現代音楽連盟(АСМ)を発足させ、国内の作曲家や国外の同時代の音楽(ベルク、ミヨー、クルシェネクなど)を演奏する手助けを行いました。

しかし1926年、明確な理由は定かではありませんが、サバネーエフはフランスに亡命します。革命からややあっての亡命はそれほど珍しいことではなく、たとえばグラズノーフも1928年にヴィーンで開かれたシューベルト没後100周年の出席を口実に、ロシアから出国し、その後帰ってくることはありませんでした。サバネーエフもやはり祖国に戻ることはなく、その後はフランス(パリとニース)を活動拠点にし、パリでロシア音楽院の教授となり、イギリス、ドイツ、アメリカの新聞や雑誌に寄稿して文筆活動を行いました。このことから、1925年に出版された『スクリャービン回想』は、サバネーエフがソ連を離れる一年前というどうにも微妙なタイミングで世に出たことになります。

『スクリャービン回想』の切り口

サバネーエフの『回想』がどのように書かれたのかの態度を理解するには、彼によって書かれた序文を見るのが一番いいでしょう。この序文は何故か既訳には掲載されていないのですが、「スクリャービン解釈史」あるいは「受容史」について検討する際には重要になってくるので、本連載の「付録」として掲載することにします。そこに書かれていることをまとめるなら、サバネーエフが『回想』を通して試みたのは、伝記にそのまま用いられるような客観的な事実を提供し、スクリャービンの創作から神秘主義的思想や神智学的解釈をなるべく排することだと言えるでしょう。著者は、自身の日記からスクリャービンの発言を抜き書きし、さらに彼自身いわく「優れた記憶力」を駆使して、ほとんど文字通りにスクリャービンの発言を再現することに成功した、と言ってのけます。

サバネーエフがこのような態度を取った背景には、端的に言えば、当時普及していた偏見によるスクリャービン観を棄却しなければならない、という彼の使命感があります。その種のスクリャービン観――サバネーエフの仮想敵――は、大きく二つの方向性に分けられます。

1つ目の仮想敵は、「スクリャービンの創作はブルジョワの頽廃的なイデオロギーの産物である」とする、十月革命直後のロシアの社会の中に存在した考え方です。革命直後、政府内の音楽活動家たちは、新しい社会状況やそれを担う労働者たちにふさわしい――彼らに聴かせ、学ばせるべき――音楽を選別する作業に取り組みました。その基準となったのが、音楽作品の芸術性の高さに加えて、そこに内在する思想でした。新しく国家を担う労働者階級の感性を適当な形に育む事業は、新国家建設において極めて重要なファクターでした。ですから、その感性にそのまま訴えかける音楽芸術において、それぞれの作品の中にあると前提された思想・イデオロギーが、もしプロレタリアートや革命活動にとって有害ならば、それは人々に聴かせるべきではない、というわけです。音楽家たちの一部が考えるところによれば、神秘主義や神智主義の内在、またロマン主義的なイデオロギーがその内面にあるとかねてから訴えられてきたスクリャービン作品は、まさしくその思想によって、プロレタリアートに聴かせるには頽廃的にすぎる、ということになります。そこでサバネーエフは、「ブルジョア社会に特徴的な飽食と不満の気分」がスクリャービンの作品にみられるという考えを棄却するために、スクリャービンの芸術作品と、彼が持っていたイデオロギーははっきりと二分できる、と主張する戦略を取りました。

サバネーエフは、スクリャービンが創作した音楽作品には「自律的な芸術的価値があり、もしそう言っていいならば、当時のブルジョア社会に特徴的な飽食と不満の気分を芸術的に結晶化させたものとは、何らかのかたちで違ったもの」 で、「限りなく我々に近く、全く古びていない」(Сабанеев 2022: 8)と高く評価しています。

その一方で、スクリャービンの思想に関しては「慢性的な精神的興奮」におかれた「酩酊」的な精神状態の産物であると表現し、「[スクリャービンが有する]ロマン主義的なイデオロギーが今の我々にどのくらい『魅力的なのか』、それが我々と異質なのか、あるいは我々に必要なのか、ロマン主義芸術が我々の時代にどれほど『合致しているのか』、どれほど共鳴しているのか――このような点については、賛成する者もいれば反対する者もいるだろう」(Ibid.: 6)と、留保して完全な断言は避けています。とはいえこのイデオロギーは、――幸いなことに――ただ作曲家本人のイデオロギーや言葉のレベルにとどまっており、音楽作品に注がれることはなかった、と彼は言います。

このように、スクリャービンの思想と音楽作品を完全に分別して考え、スクリャービンの神秘主義が音楽に反映されていないと訴えることで、スクリャービンの作品の価値は揺らがないものとなる――サバネーエフはそう考えたのでしょう。

サバネーエフが『回想』を書くにあたっての2つ目の仮想敵は、スクリャービンの晩年の思想や心理を様々に、自分の思想に都合のいいように解釈する人々です。サバネーエフは、スクリャービンの思想にどっぷりと浸ってそれに「感染」した人々は、作曲家自身が語った様々な思想を都合のいいように解釈し、彼の作品や人格に対する根拠薄弱な価値付けを行っていると感じていました。

様々な理由でスクリャービンを何らかのある「方向性」の擁護者として見ようとした多くの友人達が、スクリャービンを――おそらく無意識のうちに――彼を虚飾して描こうと考え、彼が有していなかった様々な特徴をいくつも彼に当てはめてしまっている。(Ibid.: 5)

このような態度の一番の原因は「擁護者」なのですが、そもそものスクリャービンの思想にもこの問題の根本があります。サバネーエフは次のように主張しています。

スクリャービンの神秘主義は、首尾一貫したシステムではない。むしろそれはこまぎれな意見であり、とぎれとぎれな思想の集合体であり、しっかりとした基軸を持っているようには見えなかった。それらは非常に早く変動し、進化していった。この変動と進化というのが、自体をややこしくしており、スクリャービンについて語る際、場合によっては好きに彼のことを解釈しうる、という事情を大いに助長している。これは、彼が表明した揺れ動く思考のなかには、しばしばどの「方向性」にも結びつけて考えられるようなものがあり、さらには自身の他の主張と全く不協和なものもあったからである。(Ibid.: 6)

ですから、サバネーエフはこのようにスクリャービンの態度が曖昧で多方面にわたっていることによる解釈の「都合の良さ」を、サバネーエフは退けたかったわけです。実証主義的な態度によって、スクリャービンの思想がいかにばらばらで一貫性のないものなのかを明らかにしたうえで、人間スクリャービンの姿をはっきりと描き出すべきだ、これが彼の本を通底している態度です。

とはいえ、「客観的な事実を提供」し、「スクリャービンの創作から神秘主義的思想や神智学的解釈をなるべく排する」という態度にはそれぞれ大きな弱点がありました。それはこの1920年代という時代から来るものでもあり、サバネーエフ自身の態度の一貫性のなさから来るものでもありました。次回はその弱点について、詳しく見ていきたいと思います。

参考文献
  • Ballard, Lincoln, Matthew Bengtson. 2017. The Scriabin Companion: History, Performance, and Lore. Lanham, MD: Rowman and Littlefield Publishers.
  • Bowers, Faubion. 1996. Scriabin, a Biography. 2nd, revised ed. New York: Dover.
  • Житомирский, Д. М. 1981. "Скрябин." Музыкальная энциклопедия в 6 томах: т. 5: Симон–Хейлер. М.: Советская энциклопедия: 66-76.
  • Сабанеев, Леонид Леонидович. 2022. Воспоминания о Скрябине. М.: Классика-XXI [サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社]
注釈
  • サバネーエフ 2014 のカバー裏には2003年の再版とありますが、これは誤りです。クラシカ-XXIは何度か『回想』を増刷していますが、最初に復刊されたのは2000年のことです。
  • 例えば、Дельсон В. Ю. 1971. Скрябин. Очерки жизни и творчества. М.: Музыка; Бэлза, И. Ф. 1983. Александр Николаевич Скрябин. М.: Музыка.
  • 本連載の執筆にあたって『回想』の原著と訳書を読み比べてみたのですが、サバネーエフのロシア語はところどころ晦渋で、意図のわかりにくい表現も多く、訳業の苦労が忍ばれました。なお、岡目八目なのは承知の上申し上げると、紙面の都合かもしれませんが、ロシア語の仮定法の部分が直接法的に訳されていたり、原文で強調されていない箇所に強調が付されていたりなど、訳書には原文のニュアンスがかなり失われてしまっている箇所が多いように思われました。また、「幕間 антракт」が「間奏曲」と訳されていたり、哲学者のトゥルベツコイをトゥルベツキーと誤って日本語にしているなど、明らかな誤訳も散見されるので、本書を論文等で用いる際は注意が必要です。この点が改められ、まえがきが掲載された上で再版されると良いのですが……。