ピティナ調査・研究

7.「スクリャービンの伝記」という神秘:1. 初期の伝記⑤(サバネーエフ その2)

スクリャービン:「神秘」の向こう側へ
「スクリャービンの伝記」という神秘:1. 初期の伝記⑤:サバネーエフ『スクリャービン』(1916)本文について

1916年春に出版されたサバネーエフ『スクリャービン』は、ロシア象徴主義の拠点の一つとして重要な場だったスコルピオン社から世に送り出されました。序文には「本書がその性格を紹介する人物[スクリャービン]がまだ生きていた時期から印刷準備を進めていたもの」だが、「死が本書の中の大部分を変えてしまった」(Сабанеев 1916: v)とあります。この点でサバネーエフの本はグーンストのそれ、あるいはその他のスクリャービンの死の直後に出た伝記と成立過程を共有していると言えるでしょう。
本文にして257ページにもわたるその分量に鑑みれば、サバネーエフがいかに気合を入れて、またおそらく長期間かけてスクリャービンの伝記の執筆に取り組んだのかがよくわかります(グーンスト本の本文は76頁しかありません)。今回末尾に引用した『ペトログラード・スクリャービン協会報知』第2号にスクリャービンの主治医ボゴローツキイの書評を参照すれば、その変化の程度がどんなに大きいかを推し量ることが出来るとはいえ、このような長大な書物の中で彼が加えた「大部分」の変更がどれほどのものなのか、我々が正確に特定することはできません。
前回も述べたように、このような「スクリャービンの親友」だと考えられた人物が生前からの態度を急に変化させ、それによってスクリャービンの創作や思想を「曲解」したという出来事は、生前スクリャービンに親しかった人々の憤慨を呼び起こしました。彼らの異議申し立ては、一冊のパンフレット『ペトログラード・スクリャービン協会報知』第2号になるほどだった……というのは、前回確認したとおりです。今回はまず、そうした憤慨の声は脇においておくとして、彼の本のうち、のちに「神秘」を産むもととなった――あるいはのちの彼の『スクリャービン回想』につながり、「神秘」を拡散する種となった――純粋に興味深い箇所を覗いてみたいと思います。
「生涯に渡って音楽の枠を超越することを望みながら、その一歩を踏み出すことができなかった偉大な音楽家として文化史に刻まれた」(Ibid.: vi)スクリャービンの生涯は、「期待されていた偉大な全なるものの未完成の断片で、巨大だが未完成の創作物、クライマックスがまだ書かれていない交響曲のようなもの」(Ibid.: v)……と文中で惜しむ作曲家について、著者はいかに語っているのでしょうか。

目次によれば、本書の内容は、以下のようなものになっています。

  • 序文
  • 芸術家[スクリャービン]の道のり
  • 《ミステリヤ》の構想
  • 芸術の統合
  • 創作原理とその進化
  • 和声の創造
  • ピアニストとしてのスクリャービン
  • ピアノ作曲家としてのスクリャービン
  • 光の交響曲の構想
  • スクリャービンと過去の音楽
  • スクリャービン作品一覧

様々なトピックを持つ中で、本書がどのような動機で書かれたものなのかは、おそらく全体がスクリャービンの死後に書かれたものだと思われる序文に書かれています。曰く、「精神的不協和から生まれたプロメテウスでありエルフであり、また天才の力によってこの不協和を美しさに帰ることのできた人物」である「スクリャービンという個人の謎、彼の創造的輪郭を作り上げた衝突し闘いあう影響力・諸力を掘り下げること」(Ibid.: viii)が、サバネーエフがこれほどまでに長い本を書き上げた目的です。
したがって本書は本連載がこれまで触れてきた「伝記」という枠からは一歩出て、スクリャービンを中心とした哲学書、あるいはスクリャービン哲学の提要といった色合いを持っています。スクリャービンがいつ生まれ、いつ亡くなったであるとか、その生涯に起こった具体的な出来事については本書では述べられません。ですから、同じ著者による後年の『スクリャービン回想』と本書は、徹頭徹尾毛色の異なる著作だと言えるでしょう。このような書物について考えるのは、その全貌をしっかりとたどるのが最善の方法ではあるのですが、いつまでも本書にかかずらっているわけにはいかないので、あくまでその目的である「スクリャービンの創造的輪郭を作り上げた……影響力・諸力」がどのようなものなのかについて、特に、サバネーエフが本文の中で最も多くの紙面、おおよそ40頁を割いて雄弁を振るっている《ミステリヤ》についての議論について、その要点を取り上げてみたいと思います。

本文冒頭、サバネーエフは、スクリャービンの作曲家としての生涯それ自体が「統一、完全性、至極まれな硬い結びつきの色彩」(Ibid.: 3)であると表現しています。筆者にとっては、その「統一」を実現させた要素こそが、スクリャービンが晩年に至った「《宇宙のミステリヤ》」、「終末論的構想で、スクリャービン自身いわく『最後の偉業』への期待でもあり、『世界の終わり』あるいは『キリストの再来』の予期」(Ibid.)なのです。 サバネーエフが章の冒頭で触れ、後々の前提となっている考え方は、主に次の3つです。

  • スクリャービンは自身の哲学を持っており、独学で《ミステリヤ》の構想にたどり着いた。他人の思考が書かれた本を読んだとしても、彼は自身独自のアイディアをそこに見出し、読み替えて解釈しただろう。
  • このような態度は神智学の書籍や、座右のように持っていた『シークレット・ドクトリン』でも同様である。スクリャービンが神智学に傾倒していたという考えが広まっているが、彼の考えの根本は神智学とは大きく異なっていた。
  • スクリャービンの芸術的視座の根本にあるのは「オルフェウス的」な原理(つまりは芸術の魔術的・呪術的な力を認める原理)と、芸術的な魂の「自己肯定的」原理である。この二つの原理から、《ミステリヤ》の構想へと発展するスクリャービンの芸術理論が生まれた。

これらの前提の上で本書では、スクリャービンの《ミステリヤ》について、その基礎からインドでの具体的な上演の構想までが非常に詳細に語られます。しかし、その中ではスクリャービンの構想のなかで生まれた思想が読者の興味を引く形で表現されたり、また「悪魔的」なものであり「堕落」であると表現されたりしている箇所もあります。

スクリャービンの極端な活発さから、彼のすべての作品と思想に生きて根本をなす「プロメテウス主義」が生まれた。スクリャービンはプロメテウス主義の要素――抗議の感情、永遠なる反抗――に特別な愛着を持っている。このプロメテウス主義は、あるニュアンスにおいては悪魔主義の一形態として表現されており、彼はこの悪魔主義も魅力的に感じていた――特にこの領域の気分に没頭するのが好きで、自らの創作力において、その表現のために素晴らしい象徴を見出していた。[……]この領域における、それ自体への、つまりは刺激的な感じ、罪の崇拝と悪魔的で怪しい悪意、その罪を愉しむことに対する彼の特別な力や愛を認めても、ほとんど間違いはないだろう。(Ibid: 70-71)
彼は意志の力について語った。曰く、意志の力によって自然に呪いをかけることが可能なのだと。「嵐を呼ぶ」ことができるであったり、概して自分の意志の衝動の力で気象予報に影響を及ぼすことも可能なのだとすら断言していた。もちろんこのような彼の「実験」はまったく純粋な想像の産物だった。彼はオカルト的実践に「興味があった」が、それをとことんやりとげる時間も忍耐力もなかった。そのため、このままでは何もならぬと思ったのだろう、彼は自らのオルフェウス的な道に閉じこもり、これこそが自身にとって唯一無二の道なのだと主張するようになった。(Ibid.: 79)

このようなスクリャービンの「悪魔的」要素を黒魔術やサタン主義と結びつけるサバネーエフの論調は、実に興味深く示唆的なもので、のちの『回想』でも部分的に繰り返され、したがって現在のスクリャービン理解へと通ずるものです。しかし、スクリャービンとともに時を過ごした人々にとっては、サバネーエフの態度は「暴露的」で、亡き作曲家を露悪的に語るものだと映ったのでしょう。

サバネーエフとその著作は、公平に論じるのが難しい部分もあります。というのは、それがあまりにも現代の我々のスクリャービン理解へ与えた影響があまりに大きいからです。我々がスクリャービンを、特に彼の謎めいた「神秘」を語るとき、サバネーエフの論を頼らざるを得ない場面も少なからずあるのです。しかし、前回サバネーエフ論への批判を取り上げながら触れたとおりに、――繰り返しになりますが――サバネーエフの語り口には信頼に欠ける部分も少なからずあることは常に意識されなければなりません。
さて、果たしてサバネーエフの意見が正しいのか、未亡人やモスクワ・ペトログラードに散る生前の友人から構成されるスクリャービン協会が正しいのか――スクリャービンが生きた時代をただ書かれたものとして振り返ることしかできない我々には難しい問題ですが、筆者個人としては、各地に散らばるスクリャービン支持者たちがこぞってサバネーエフ本を異口同音に、しかも同じような点を批判し、しかもサバネーエフが論じる対象の生前と死後で明らかに意見を変化している点で、サバネーエフの意見には少なからぬ誤謬があるのではないかと思えてならないのです。
その一方で、筆者個人の考えでは、サバネーエフの本の目的であるスクリャービンの創作を形作る「諸力の解明」と彼らの批判対象は微妙にずれている部分もあるようです。本格的な議論は、より本格的な論文などを記す際など、別の場所で行いたいと思いますが、この問題については後日触れる『回想』も含め、引き続き考えなければなりません。
さて、最後に付録として、モスクワスクリャービン協会評議員ヴラジーミル・ボゴローツキイによるサバネーエフ本への書評を全文引用して終わりたいと思います。

付録:モスクワ・スクリャービン協会評議員V. V. ボゴローツキイの書評
サバネーエフの本に関して少しばかり

スクリャービンに関するサバネーエフの本は、例外なくすべてのスクリャービンに親しい人々に衝撃を与えた。つい最近まで、我々のもとから去った天才の思想の信奉者で保護者、彼の創作の解釈者だったと思われた人物による本の中で、スクリャービン氏の素晴らしいイメージが、跡形もないほどに歪められているのだから。
私は、一つの実質的な例外を除いて著者に反対するなどということはしない。というのも、そんなことをするならば各章、1ページ1ページについて書かなければならないからだ。ここで私がしたいのは、サバネーエフの著作の論調と方法論について数言述べることだ。サバネーエフの著作は、スクリャービンの明るく、宗教的に深みのある個性に対して否定的なもので、その個性はサバネーエフによってサタンへの奉仕者、魔法使い、「罪の崇拝、悪徳さ、罪を愉しむことを愛した」黒魔術師へと変貌させられている。
本書の全体を包む論調は説諭的なものであり、ときには腹が立つばかりに暴露的なものにすらなる。これは、経験豊かで賢明な神秘学者が、まだ知識の道へと歩みだしたばかりの弟子に説くような調子である(64-65頁参照)。本書の方法論からは、重苦しい印象を覚える。様々な思想や、ときにスクリャービン氏の表現がまとまりのない形で引かれており、サバネーエフはそれらの本質、生命、さらには論理すらも取り去ってしまっている(オルフェウス的な方針に関する章全体がそれに当たる)。更にそれらを時に面白おかしいものにしてしまっている(79頁、嵐を呼ぶことについての記述)。スクリャービンの考えをいつくか取り出しながらも、スクリャービン氏が自身独特の意味合いをある用語に与えている際にも、それらを通り一般の意義のままに解釈して論証のために利用している。スクリャービン氏の友人兼医者として深く怒りを覚えている私は、スクリャービンが狂気を抱いていたとあからさまにあてつけている本書の記述に真っ向から反対する。スクリャービンを近くで知っていた誰しもが、そんなことを一度たりとも思いつきもしなかっただろう(天才についての話はいつだってこういうふうに繰り返される!)。
サバネーエフの本には無数の矛盾がみられる。それに触れることはしないでおくが、スクリャービンと親交を結んでいた私と数人の友人が、虚偽またはサバネーエフの想像に過ぎないと思う箇所を指摘するにとどめておく。スクリャービン氏が「最後の偉業」において自身が中心的な役割をなすと考えていたこと(75頁)は嘘である。彼が嵐を呼ぶ能力を持っていることを信じていた(79頁)などというのは嘘である。自身が行った自然現象についてのオカルト的実験に不満をいだいていたということなどなども嘘である。
概してサバネーエフの本は、スクリャービンに対する大いなる内的欺瞞であるように思われる。そしてサバネーエフによって公衆に撒き散らされたこの嘘は、スクリャービン氏を近くで知っていた人々全員にとって思いもよらないことであった。サバネーエフのスクリャービンに対する見地は、急速に、気づかないうちに、故人の友人から秘密裏に発展していったのだが、このような見地は、今私の手持ちにあるスクリャービンの生前にサバネーエフによって書かれたものからランダムに取り出したいくつかの例を引かざるを得ないほど過激に変容してしまったのである。主にこれは、交響曲作曲家としてのスクリャービンの評価について言える。サバネーエフは現在スクリャービンを「管弦楽に対する適性・技術のない偽物の交響楽作曲家」だと考えるようになっている(209、215頁)。「つねに、彼の管弦楽の書法からは不自由さ、窮屈さ、抑圧すらも感じられる」(216頁)や、「スクリャービンは自らの先行者と比較して何も新しいことを言えなかったし、色彩の面では彼らから遥かに遅れを取っていた」(217頁)とある。その一方で、サバネーエフは[スクリャービンの]生前このように語っていた。「様式の比類なき明瞭さ、繊細さ、優美さ。この新しい音世界は、自らの普通でなさ、新しさの力によって強く印象に残る。我々の前に、なにか巨大なもの、絶大なもの、全く新しいものが展開されているかのように感じられるのだ……」(『音楽』誌第23号)。

「彼は《プロメテ》において、以前から他の作曲家たちが探し続け、見出し得なかった神秘的で光り輝く和声を見出した。この和声はそれ自体で、音楽的絵画とはまた別の意味で、尋常ならぬ強い色彩的な印象をもたらしている……繰り返し演奏されるならば、管弦楽の新しい色彩の幻想的で魔法のような美しさが浮かび上がり始めるだろう」(『音楽』誌第1号)。

「管弦楽において自らの様式が欠けていることは、スクリャービンの才能が管弦楽に縁のないものだったということを明らかに証明している」(217頁)。

「[《プロメテ》の]音楽は厳格な、独特な形で厳格な様式で書かれている」(『音楽』誌第1号)。「スクリャービンがこの10年間でものにした様式の完成形、結晶である」(『音楽』誌第23号)。「《プロメテ》は、近年のスクリャービンの様式の結晶だ」(『音楽』誌第13号)。

「スクリャービンの管弦楽は精彩、特色を欠いている」(217頁)。

「《プロメテ》は世界中の音楽の中で対位法の面から最も複雑であると同時に、そのテクスチャーに最も透明感のある作品でもある」(『音楽』誌第13号)。

「楽器が追加されることで音がぼやけたものとなり、漠然と活気位のないものとなっている。これがスクリャービンの交響曲のクライマックスの箇所にみられるのだ」(218頁)。

「和音の心理学的側面に敏感だったヴァーグナーでさえ、このような才気あふれる光へと到達することはなかった。スクリャービンに比べれば、ヴァーグナーの光輝く場所も曇って見える」(『音楽』誌第31号、交響曲第3番に関して)。

「方法の単調さ、マンネリ感、特徴の欠如――これこそが、スクリャービンの偉大な音楽的思考が着込んだ管弦楽の服の図式である」(221)。

「交響曲第3番から我々は、真のスクリャービンを聴き取れる。ここで彼ははじめて音楽における光を見出し、自分自身を見出したのだ」(『音楽』誌第31号)

「彼はいつだってガイド本を用いるのだ。これが管弦楽作曲家としてのスクリャービンに全く特徴的なことであった。机下にあったのはまずグラズノフで、その後はシュトラウスとドビュッシーになった」(221)。(付け加えておきたいのだが、これは嘘である。とはいえ、これが正しいと言った友人は一人もいなかった、と言っておくにとどめておこう。)

「ドビュッシーは、スクリャービンのみならず、より以前の作曲家と比べても、革新者とは言えないと言わなければならない」。

「一つの音域にもっとも噛み合わない音色をぶつけることで、濁った、混沌とした、力と明るさのない印象が生まれる。《法悦》の最後や《プロメテ》の最後はこのような具合であり、偉大な、純音楽的な思考が、ふさわしくない描かれ方に埋もれてしまっており、巨大なものという効果よりも、むしろ鬱蒼と絡まりあった何かしらのもの、という印象がもたらされている」(220)。

「[《プロメテ》の]管弦楽には、音の色彩として、ヴォカリーズの合唱、オルガンと鐘が加わっており、それらは《法悦》の詩の結尾の上昇に類する絶大なエクスタシー的上昇の箇所で現れる。」(『音楽』誌第1号)

私はここでサバネーエフの3つの論文を引用した。しかし、サバネーエフの論文の主要かつ大多数のものは、『モスクワの声』紙に掲載されている。それらを私は持っていない。
しかし、このような比較をするだけで結構だろう。かつて「[スクリャービン]生前の」サバネーエフ論文を読んでいたものが、たった先ごろに出た本を読んだとしよう。彼にはこう問う権利がある。「真実は一体どこにあるのだ?」「生前の論文か、それとも死後のものか?」と。
Tempora mutantur et nos mutamur in illis[時は流転し、それとともに我々もまた流転する]。
確かにそうだ。しかし、そうだとしても変節が速すぎる。サバネーエフはつい最近までスクリャービンのあらゆる観念の伝達者、彼の創作全ての解釈者、そして思うに、無条件に恍惚とした信奉者であるとみなされてきた。彼自身も自著で、自身とスクリャービンが特別な親友関係にあったことを主張している。サバネーエフはつい一年前にこのように書いていた。「彼についての考えがありすぎて、何かを主張することは難しい。彼が我々に残したものの評価を下す時機も場所も、いまここではない。評価を下すには、精神が落ち着いた状態になければならない」(『音楽』誌第210号)。サバネーエフはこの平穏状態に至った、そしてスクリャービンの宗教哲学的なものを含めた全創作の、そしてスクリャービンの個人に対する自らの審判、判断、評価を公然と下すに至ったのだ。
今、彼は言う。「彼は破滅に向かう定めにある存在ではなかったのだ。こうして心は穏やかで平穏になった。彼の死という悲劇の中で、我々全員が諦念の和音を鳴らしたのである」と。今、サバネーエフは穏やかで平穏なのだろう。サバネーエフは「諦念の和音」を見出したのだろう。が、その和音は彼一人だけのものだ。
ヴラディーミル・ボゴローツキイ
モスクワ、1916年5月12日
(Скрябин, Попков 2022: 418-420)

参考文献
  • Сабанеев Л. Л. 1916. Скрябин. М.: Скорпион.
  • Скрябин А. Н., Попков В. В. 2022. «Природу в звуки претворил…»: А. Н. Скрябин глазами современников. М.; СПб. Нестор-История.
  • サバネーエフ、レオニード 2014『スクリャービン:晩年に明かされた創作秘話』東京:音楽之友社[Сабанеев, Леонид Леонидович. 1925. Воспоминания о Скрябине. М.]
注釈
  • ちなみにソ連期、彼の没後に刊行された『音楽事典』では、「評論家としては、評価・判断のいくらか表面的な性格がある」という注記が伴ってはいますが、「非常に博識で知られていた」(Ямпольский 1974: 940)と評価されています。
  • そこでコプチャーエフは、当時「ショパンをあまりにも模倣しすぎていて、独自性がない」と、今では信じられないようなスクリャービン評を踏まえて、彼を擁護しつつも「才能の点では偉大な先駆者に大きく劣っているが、いくつかの点でその後継者と言える」(Коптяев 1899: 68)と評しています。なお、後に見るように、この評価はスクリャービンの後期作品を踏まえて180度転換したと言えます。
  • Ballard et al. 2017: 20には、「スクリャービンは自身をニーチェの超人のように、人類の歴史を帰る特別な力を持っていると考えていた。」とありますが、この問題とコプチャーエフが論じたニーチェとスクリャービンの類推はまた異なる問題だと言えるでしょう。これについては本連載でも後々考えてみたいと思います。
  • Ключникова 2010では、短くはありますが、コプチャーエフの著書にみられるヴァーグナーとの比較、「国民性」に関する記述が論じられています。