第98話『西陣探訪―秘曲の面影(Ⅳ)♪』
膨大な資料を携えて現代に戻ると、鍵一は叔父のすむ京都貴船※1で作曲に打ち込んだ。ピアノ曲『夢の浮橋変奏曲』※2の初稿が完成すると、京都は春を迎えていた。3月、友人の陶芸家・登与子とともに西陣※3を訪れ、鍵一は重要な事実を知る。
西陣探訪―秘曲の面影(Ⅳ)♪
「鍵一君のお師匠さん……B先生が養子に入られたお家は」登与子が身を乗り出した。「なにか、特別なお仕事をされてたんですか。ひと昔前のお話とはいえ、家業を継ぐために養子だなんて。けっこう大変な事ですよね」
「漆芸です」
織屋の主人は微笑んだ。障子に鳥の影が飛んだ。
「漆芸というと、漆をつかう技法ですね。塗師※4か……蒔絵師※5かしら」と、さすがに陶芸家は詳しい。隣で鍵一は、塗師と蒔絵師なるものをイメージしてみる。その仕事を間近に見た事はなくとも、
legato
※6に塗り重ねられる漆の飴色や、
sotto voce
※7で撒かれる金粉が思い描かれた。織屋の主人はうなづいた。
「仰るとおり、漆芸もいろいろありますが。『イニシャルB』のお家では、昔から美術品の修復をしておられます。金箔の剥がれた仏像ですとか、割れた茶碗ですとか。全国のお寺や神社からも、宝物が持ち込まれるんですよ」
「漆で直せますか?」
「漆は天然の接着剤ですから、なんでもくっつけられるんです。漆を塗ってくっつけて、継ぎ目を金や銀で埋めれば、綺麗によみがえらせる事ができます」
鍵一には思い当たる品があった。恩師の愛用するポーリッシュ・ポタリー※8に、修復の跡は確かに煌めいていた。欠けたところを金で継いで、割れる前よりむしろ面白いものになったという、あのポーランド土産である。
「漆芸のお家は、その後どうなったんでしょうか」と聞いてみた。
「B先生は家業を継がなかったんですよね……ショパン・コンクールで優勝されたあと、今のぼくと同じ歳頃にはもう、ヨーロッパを飛び回って演奏活動をされていましたから※9」
「家業は今も続いておられます。『イニシャルB』のお家でいろいろ相談されて、ご親戚がうまいこと継いでくれはったようで」
「ちなみに、どこのお店ですか?」と、これは登与子が尋ねた。織屋の主人はやんわりと口をつぐんだ。代わりに、優美な手つきで煎茶を注ぎながらこう言った。
「音楽の才ゆえに家業を継がへんかった事を、B先生は悔やんでおられたようで。今も公にしておられませんね。京都でも、ごく一部の人しか知らへん事やと思います」
登与子がそっと鍵一を見遣る。うなづいて今、鍵一の胸中には恩師の来歴が、輝きながら継ぎ合わされていた。
出身地不詳のプロフィール。京都の漆芸家との養子縁組。西陣で誂えた羽織袴と手袋。愛用のポーリッシュ・ポタリー。19歳でリリースした自作自演のピアノ曲集『金継ぎ(KINTSUGI)』※10……
♪プロフェッサーB:ピアノ曲集『金継ぎ(KINTSUGI)』
つづく
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第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。
漆を塗る専門の職人。漆芸家。
漆で絵や紋様を描き、金粉・銀粉などを蒔いて加飾する専門の職人。
音楽用語で「なめらかに」の意。
音楽用語で「音量をおさえて小さな声で、ささやくように」の意。
第84話『河井寛次郎記念館にて(Ⅱ)♪』をご参照ください。
第61話『山羊座の19歳、浮橋を渡る♪』をご参照ください。
欠けたり割れたりした陶磁器を漆で接着し、金粉などで装飾する技法。