第86話『夢とカプリス♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は河井寛次郎記念館※3で陶芸家に出会った。
「エクトール・ベルリオーズさんですね。19世紀の作曲家です」
「へえ、どんな人?」と聞かれて、鍵一はレストラン『外国人クラブ』の一幕を懐かしく思い起こした。
夏の夜の一件※4以来、その人はときどき店に来るようになった。オペラのシーズンが始まると、大抵はひどく酔って来た。ただし、ひとりで来る事はなかった。画家なり作家なり、必ず友達に支えられて、ふらふらと来るのだった。
ある晩、暗い顔のその人が店の扉をあけるなり、
『パリの聴衆の耳が追いついてないだけなんだ、レリオ※5だってそうさ』いきなり叫んだ。仲間に『まあ、座りたまえよ。いったん落ち着こう』と言われて、テーブルに座るやワインを3杯ほど飲んだ。溜息をついて、しばらく黙っている。それから顔を明るめて、
『パリの聴衆の耳が追いついてないだけなんだ』
と、また同じ事を言った。
あたらしいワインの栓が抜かれ、フロマージュの皿がからになり、マカロニが焼き上がるころには、芸術談義は彼自身の恋愛譚に変わっていた。そのうち、やにわにギターを抱えて自作の一節を弾き出した。居合わせたF.ヒラー※6が即興でピアノの伴奏を買って出た。……
猫のフェルマータが伸び上がって、早春の車窓を眺めている。2人と1匹を乗せた車は鴨川※7に沿うて、西へ西へと走った。両岸の景色はまだ枯れて、料亭も桜並木も沈黙している。対して川は
cantabile
※8に輝きながら、春へ春へと誘っている。
さて、自分が19世紀で垣間見た顔をどのように言い表せばよいか、鍵一は迷った。少し考えて、
「音楽はお好きですか」
と聞いてみた。陶芸家は軽やかにうなづいた。
「ええ、全然詳しくないけど。ろくろを回すときに、たまにピアノ曲を聴いたりしますよ。音楽に関連した持ち物もあるし、楽器の弾ける友達も多いです」
「では、いつかうちにいらして下さい。ぼくがピアノで、ベルリオーズさんの曲を弾きます」
請け合いながら、鍵一は文箱※9に残して来た五線紙を思った。
『夢の浮橋変奏曲』第10変奏、『ベルリオーズの肖像』はいちおうの完成をみていた。歌曲として独立する変奏を、その音楽家に捧げるつもりでいた。
「ベルリオーズさんはご自身で台本も書かれていますから。曲と併せて物語をお読みいただくのが良いかもしれません。できればフランス語で……」
「楽しそうね。ちなみに鍵一さん、お住まいはどちら?」
「貴船の山奥です。叔父の家に居候しておりまして」
「叔父さまというのは?」
「古美術商を営んでおります」
「あら」陶芸家は目をみはった。「じゃ、鍵一さんは、古美術『鉄平堂』の?」
「甥です」
納得をみたところで、車は出町柳※10に着いた。
つづく
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鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されました。
陶工、河井寛次郎(1890-1966)の住居兼アトリエを基とした私設美術館。2023年に開館50周年を迎えます。
第12話『文学×音楽×幻想=??♪』をご参照ください。
『幻想交響曲』の続編として1831年に制作されました。独唱、合唱、管弦楽のための作品であり、曲間には俳優による語りが入ります。
京都市内を流れる一級河川。
音楽用語で「歌うように、表情豊かに」の意。
第83話『河井寛次郎記念館にて(Ⅰ)♪』をご参照ください。