第12話『文学×音楽×幻想=??♪』
有るか無きかの人影が、ひょうと闇夜に浮かんでいる。
「……!」
鍵一の心臓がゾッと冷える。脚が石のようにすくんで動けない。隣でドラクロワがゴクリと喉を鳴らす音が、夜の静寂へ妙に響いた。
ふいに闇をつまむような音とともに、不気味な歌声が、川底から這い上がってくる……
人生の悲哀はなべて 絶頂からの転落にある
最悪の場を切り抜ける手は 笑いしかない
(出典:シェイクスピア『リア王』)
(これは……シェイクスピアの戯曲のセリフ?)
そのとき満月が煌々と姿を現した。
黒雲のゆっくりと吹き過ぎるままに、月の光がポン・デ・ザール(芸術橋)の欄干を照らし、水面をゆらめかせ、マントにすっぽり覆われた『幽霊』のかたちを露わにしてゆく。
瞬間、草むらから黒いものがすばやく飛び掛かった、
「ウニャッ」
「ギャッ」
マントが大きく翻る。満月に猫のシルエットが跳ぶ。『幽霊』がのけぞる。
「フェルマータ?」
「ベルリオーズちゃん!」
鍵一とドラクロワがほぼ同時に身をのりだして、
「ん?」
顔を見合わせた。黒いものが鍵一のひざに「ニャ」と飛びついて、抱き上げるとやわらかい。月明かりにその瞳がきらめいて、なるほど鍵一の相棒猫、フェルマータなのだった。
一方、マントを剥がされた『幽霊』は天を仰ぎ、よろめいて
appenato
※1で膝を折ると、
「おおメフィストフェレスよ。そは黒猫に姿を変えて、我を悪夢へみちびくか(出典:ゲーテ『ファウスト』)」
絶唱してギターを「ぽろろん」とつまびく。
呆気にとられて立ち尽くす鍵一の隣で、ドラクロワは「一件落着!」盛大に吹き出してそのまま、お腹を抱えて笑い出している。
「やっぱり、ベルリオーズちゃんだったのね!ポン・デ・ザール(芸術橋)に夜な夜な出没する幽霊の正体は」
「この方がベルリオーズさん……ですか?あの『幻想交響曲』で有名な?」
「1838年現在、ピチピチの35才よ」
(意外と年上だった!)
「ま、こんなことだろうと思ったわ。アンタの猫ちゃん、お手柄ね」
フェルマータのあごを「うりゃうりゃ」と撫でるドラクロワに、鍵一は思わずぷっとむくれた。
「ドラクロワさんは、最初から分かっていらしたんですね?幽霊の正体がベルリオーズさんだって」
「当たり前よ、友達だもの。作曲に行き詰まったときの行動くらい予測できるわよ。だからこそ、アンタをここに連れてきたんじゃないの」
「お会いできて光栄ですッ……でも本物の幽霊かと思って、寿命が縮みましたよ……!」
「ゴメン、ゴメン。それよりご覧なさいな!これがパリの誇る新進気鋭の音楽家、ベルリオーズちゃんの創作の舞台裏よ」
「?」
鍵一がそっと様子を窺うと、ベルリオーズは満月を仰いで、湿った詞章を呟いた。
「世界は一つの舞台。人間というものは、その役者に過ぎぬ……」(出典:シェイクスピア『お気に召すまま』)
氷の玉のように透き通った満月は冷気を放ち、この橋の上にも霧が濃くたちこめて来た。
「ベルリオーズちゃんは『言葉と音楽のマリアージュ』について、ずっと追求しているの」
ドラクロワが鍵一に耳打ちする。フェルマータは鍵一の腕からヒョイと降りて、ベルリオーズのほうへフワリとしっぽを立てて行く。
「マリアージュ……?」
「ベルリオーズちゃんにはね、『言葉と音楽が緊密に結びついてこそ、真に芸術は理解される』っていう確固たるポリシーがあるのよ。お気に入りの戯曲や物語の一節を口ずさみながら、よくこうしてパリの街を徘徊してるわ。そうすると、曲のアイディアが浮かぶんですって」※2
「なるほど……!でも、どうしてこんな真夜中に?」
「大都会パリはすてきな刺激に満ちているけど」
と、ドラクロワはマントを拾って、うずくまった友達に掛けてやる。
「夢と現の境を生きてるベルリオーズちゃんには時々、ちょいと酷なのよね。
パリでの生活に必要不可欠な雑音……月々の家賃の支払い、劇場関係者との契約交渉、馬車の手配、シャツの洗濯、etc. をシャットアウトして、ひとりで己を深く掘り下げる時間が、この人には必要なんだわ。パリで唯一それが出来るのが、この場所なのね」
川面を吹き渡る夜風がさらさらと草を揺らしている。水の匂いがひんやりと肌に沁み込んでくる。鍵一は橋の欄干にもたれて、耳を澄ませた。
(なんて静かなんだろう、19世紀パリの夜は……
車のクラクションも、電車の轟音も聴こえない。頼れるのは自分の想像力だけ。
この静けさ、この景色からしか生まれない曲がある……
ベルリオーズさんはこうして、想像力を創造力に変えているのか)
パリの街は墨を濃く塗り重ねて、セーヌ川の水面にはきらきらと満月がゆらめいている。
鍵一はそっと目を閉じると、この景色を深く心に刻んだ。
「さ、アンタも手伝ってちょうだい。この音楽家を、暖炉のある家へ連れて帰るわよ」
「はいッ、よいしょ」
友を背負うと、ドラクロワは「ちょっとベルリオーズちゃん、ダイエットが必要ねッ」笑って川岸を歩き出した。鍵一はベルリオーズのギターを抱えて後に続く。ベルリオーズは「ムニャ、ムニャ」うつらうつらしながら、夢の中で曲を創り続けている。
「やれやれ。曲づくりに苦戦してるみたいね」
「なにかあったのでしょうか……」
「『幻想交響曲』は大ヒットしたんだけど、こないだのオペラは大赤字※3。アタシやリストやサンドは、心から素晴らしいと思ったわ。でもお客が入らなかったのよ。パリの聴衆はまだ、耳が熟してないのね」
「うう」とベルリオーズが唸る。鍵一が「寒いですか」気遣うと、この音楽家はドラクロワの背におぶわれたまま、
「逆境ほど我に力を与えるものはない」(出典:シェイクスピア『リチャード二世』)
呟いて、物憂げに鍵一を見た。青い炎のような瞳の激しさに、鍵一の心臓が跳ねる。
「そは何者か。妖精パックか(出典:シェイクスピア『真夏の夜の夢』)」
「いえ……ぼくは日本人ピアニストの鍵一と申しまして」
すると突如、ベルリオーズの目が見開かれた……!この音楽家は鍵一の背負っている風呂敷包へやにわに手を伸ばすと、
「これぞ、ワルプルギスの夜へ誘う呪いの道具……!パックよ、おれにこれを吹かせてくれ」
鍵一が止める間もなく、鍵盤ハーモニカをすばやく抜き取る。バランスを崩したドラクロワが「キャッ」とのけぞり、ベルリオーズはころんと草むらに転がりながら叫んだ、
「おお天よ!お前は残酷にもこのおれを、不確かな人間の圏内に引き戻したな。(出典:ゲーテ『ファウスト』 おれは悪魔に魂を売り渡しても、この楽の音を手に入れるのだ」
「いけません、これは少々特殊な楽器ですので」
「哀れみたまえ、彗星たちよ!」
ベルリオーズは夜道をころころ転がる転がる、「待ちなさいッ」慌ててドラクロワと鍵一が、こけつまろびつ追うほどに、音楽家は歌い出した。
いろはにほへと ちりぬるを
我が世たれそ 常ならむ
夢の浮橋 けふ越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
いちはいちいち 星と音とのマリアージュ
恋は実らず 実るは葡萄ばかりなり
(出典:不明)
(『夢の浮橋』……!『いちはいちいち』……!?)
「ベルリオーズさんッ、待ってください、今なんと仰いました?」
鍵一が叫ぶ声がベルリオーズの吹き鳴らす音に掻き消されて、辺りがまばゆい光につつまれる。
♪ベートーヴェン作曲 :ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」 Op.73 変ホ長調
「わッ……!」
「キャーッ!」
「ニャーン」
凄まじい突風に巻かれる瞬間、鍵一はいつか、『外国人クラブ』のレストランでリストらが乾杯していた、あのシャンパーニュ・ボトルに『1811(いちはいちいち)年』と書かれていたのを、閃光のように思い出した……
つづく
音楽用語で『悲しげに、痛ましげに』の意。
このとき難航していたベルリオーズの作曲は、のちに『夏の夜』というテーマで結実しました。
1838年9月、パリ・オペラ座にて、ベルリオーズのオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われました。実在の彫刻家をモデルにしたオペラです。当時は不評に終わりましたが、ベルリオーズの死後、徐々に評価が高まりました。