第79話『東風(はるかぜ)を聴く♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。雪深き1月下旬、鍵一はクロワッサンを焼きながら重要な気づきを得た。
夢うつつに氷の解ける音を聴いた。鍵一の耳に、それはベートーヴェンのピアノ協奏曲5番の冒頭、あの鮮烈な序奏※3のように響いた。
♪ベートーヴェン作曲:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」 Op.73 変ホ長調
跳ね起きて、枕元に五線紙が散らばっている。『夢の浮橋変奏曲―「シェフの肖像」』を推敲しながら眠り込んでしまったのだった。数日前、焼きたてのクロワッサンに誘われて一気に書き上げたものの、熱が冷めるとバターは固く、食感は粗く思われて結局、イチから練り直す事になった。
冷めた珈琲をひとくち飲んで縁側へ出ると、東雲に甘い匂いが漂っている。母屋へ続く竹垣に土偶※4が載せてあり、叔父なりの
柊鰯
※5の代わりらしかった。
――春が来る。
わけもなく鍵一は震えた。それが焦燥なのか、奮起なのか、自分にも分からなかった。
2月3日、鍵一は叔父に連れられて、貴船神社の節分祭に赴いた。途中、未だ雪の濃い道に郵便ポストを見て、そのあざやかな朱色に驚いた。
「何を驚いてんだ」と叔父は笑った。
「ポストなんて太古の昔から赤いじゃないか」
「いいえ、その」十九世紀パリでは青かったもので※6、とは言えずに、曖昧に濁して石段を上った。
神殿ではすでに、神主が伏し拝んでいた。隣に赤と緑で装飾された、大きな銅鑼がみえた。すると祝詞が始まった。まわりの人々が一斉に首を垂れたので、ふたりも倣った。
水を祀る神社らしく、祝詞は耳に明るかった。神殿の屋根に溜まった雪解け水が、きらきらと樋を伝い落ちては地面に沁み込んでいた。鍵一の足元のきれいな砂利も、ところどころ黒く濡れていた。ふと、祖父の造った水琴窟の、地中に踊る水音を思い出した。※7
それは京都圓光寺の水琴窟※8を模して、祖父が数十年前に造ったものだという。大きな盃のかたちをした鉢の下に、これまた大きな水甕が埋まっている。鍵一は小学生の夏休みに掘ろうとして、底が深くて掘りきれなかった。……その水琴窟も、辿れば貴船の水の恵みを享けている。すると今、鍵一は彼岸の祖父と近しいところに居るような気がした。
つづく
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鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。
♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年)
京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―
音楽用語で「楽曲の冒頭の主要部を導入する部分」の意。序奏部、導入部、イントロダクションとも。
第77話『歌う彗星―音響栽培の妙♪』をご参照ください。
節分の魔除けとして、柊(ひいらぎ)と鰯(いわし)の頭を飾る風習のこと。柊の葉が鬼の目を刺し、鰯を焼く煙が鬼を追い払うとされています(地域により諸説あり)。平安時代の文献、紀貫之の『土佐日記』にも同様の風習が記されています。
パリの郵便博物館では、19世紀に使用されていた青い郵便ポストを見ることができます。
第63話『水琴窟きらら♪』をご参照ください。