ピティナ調査・研究

第77話『歌う彗星―音響栽培の妙♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。雪深き1月下旬、鍵一はクロワッサンを焼きながら重要な気づきを得た。
歌う彗星―音響栽培の妙♪

♪フランツ・リスト作曲:すべての長・短調の練習のための48の練習曲(24の練習曲) 第1番 S.136 R.1 ハ長調

(カレーム先生がご覧になったという古代ギリシャの版画※3は、『夢の浮橋』の上演風景に違いない)と鍵一は冷蔵庫をひらいた。
款冬華 ※4朝は澄んで、この家の台所の何もかもが清らかな朝のかたちをしている。鍵一は発酵したパン生地の白さが気に入った。19世紀のレストラン『外国人クラブ』の厨房で見たものと、それはきわめて近しいように見えた。教わった通りに Allegro vivace ※5で生地を練り伸ばし、バターを包み入れる。こぶし大のサイズに整えると、オーブン用の鉄皿へ均等に並べてゆく。正確な作業は思考をも整えて、鍵一は今、幻の名曲の姿をはっきりと描く事ができた。
(版画の注釈に書かれていたとおりだ。彗星の輝く晩に『夢の浮橋』を演奏すると、彗星は応えて歌い出す。その音が振動となって地上に届き、葡萄が豊かに実る。『外国人クラブ』のシェフさんの言う通り、まさに「彗星による音響栽培※6」……!)

挿絵

さて、50個余りも整然と並ぶクロワッサンを眺めて、「楽隊というからには」と、思わず声を発した。息が白い。
「ある程度の人数の奏者が居たはず。編成は?ピアノ・コンチェルトが出来るくらい……いや、第九※7が出来るくらい?」
「かまどが出来たぞ」
振り向けば叔父が、煤だらけの軍手で額を拭いながら、
「いい具合に備長炭※8で火が起こった。こいつはなかなか面白いな」と、この料理旅館の名残※9を気に入ったらしかった。
「じゃ、焼きますか」
「ついでにチーズと土偶も焼くぞ」
「土偶!」
「へへへ、すごいだろ。知り合いが北白川の遺跡※10から大物を掘り出したんで、記念に俺が写し※11を造ったんだ」
ふたりして騒ぎながら雪の庭に出る。煉瓦造りの古式ゆかしいかまどに鉄皿と土偶(うぐいす型)を入れて、焼き上がるまで火の番となった。鍵一は頭のなかで『夢の浮橋変奏曲』を醸しながら、重要な話題を投じてみる事にした。
「叔父さん、音響栽培ってご存じですか」

挿絵

つづく

◆ おまけ
  • 音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
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    第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
  • 貴船(京都市左京区)
  • ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
    鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。
    ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年)
    京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―
  • アントナン・カレームが見たという古代ギリシャの版画
    第76話『名もなきシェフの肖像(Ⅹ)♪』をご参照ください。
  • 款冬華 (ふきのはなさく)
    フキノトウの花が咲く頃、の意。古代中国が発祥の暦「七十二候((しちじゅうにこう)」のうち、1/20~1/24頃にあたる時期。
  • Allegro vivace(アレグロ ヴィヴァーチェ)
    音楽用語で「快活に速く、Allegroより速く」の意。
  • 音響栽培
    農作物に音楽を聴かせ、生長を促進させる方法。音の振動(音波)が植物の気孔の開閉を促し、豊かな風味をつくりだすと考えられています。
    クラシック音楽による音響栽培の事例としては、ピアノを聴かせて栽培した浜松市の「踊ら米(まい)か」、モーツァルトを聴かせて栽培した鹿児島県の「クラシックブドウ」など。
  • 第九(だいく)
    ベートーヴェンの作曲した交響曲第9番「合唱付き」)の愛称。
  • 備長炭
    木炭の一種。備長炭は火力が強く、燃焼時間が長いことから、よく調理用の炭として用いられます。主な産地は和歌山、高知、宮崎など。
  • 京都の叔父のアトリエ兼住所が、もと料理旅館であった事
    第64話『美味しいうつわ♪』をご参照ください。
  • 北白川(京都市左京区)の遺跡
    京都市内には縄文時代の遺跡が数多くあります。北白川追分町遺跡・北白川小倉町遺跡などの「北白川縄文遺跡群」からは、発掘調査により土器や土偶が出土しています。
  • (陶芸における)写し
    特定の陶磁器の形や図案を模倣して制作すること。また、そのようにして造られた作品のこと。代表例に、野々村仁清の作を写した「仁清写し」、尾形乾山の作を写した「乾山写し」など。
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