第71話『名もなきシェフの肖像(Ⅴ)♪』
より多くの芸術家と交流し、『夢の浮橋』の楽譜を集めるためには、19世紀で通用するコンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)に成らねばならない。作曲に打ち込むべく、鍵一は現代に一時帰国した。京都貴船※1の叔父のアトリエにて、『夢の浮橋変奏曲』※2の制作が着々と進む。
雪深き1月下旬、裏庭に煉瓦のかまどを見つけた鍵一はクロワッサンを焼く事にした。パン生地をこねながら、19世紀パリのレストラン『外国人クラブ』でのひとときが思い出される。
――回想 シェフの肖像(1838年4月)
「宮廷料理人……!」
「正確には、『皇帝ナポレオンに仕える料理人、ヴァランセ城在住、ただし、フリーランスとしての活動も可』だな。後にも先にも、この国にそんな料理人は居ないだろうよ」
「ええと……」
頭のなかを整理する鍵一へ、「まずタレーラン※3が城を買ったんだ」と、シェフは身を乗り出した。
「ナポレオンから金を貰って、パリ郊外のヴァランセ城を買った。国賓の接待や、皇帝ナポレオン閣下の戦勝祝賀会、やんごとなき方々の舞踏会なんかのためにさ。そういう大きなパーティには豪華な料理が必要だ。その厨房にカレーム先生が迎え入れられたんだ」
「それは凄いですね……!」
頭を巡らして、若き日のアントナン・カレームの姿は「公邸料理人」※4という朧げなイメージに着地した。
「もちろん、ナポレオンやタレーランに仕えた料理人はカレーム先生だけじゃない。ブーシェ※5、ロベール※6、ラギピエール※7……名高い料理人が、その当時はのびのびと腕をふるってた。大革命の前には、俺の親父の仕事仲間だった人たちだ。当時は戦争に勝って景気が良かったし、ナポレオンが呼び戻した亡命貴族がパリには大勢いたもんだから、豪勢な料理にはみんな喜んで金を出したんだな」
Allegramente
※8に語られる料理史に耳を傾けながら、鍵一は大革命のさなかに生きた料理人を思い出していた。ポン・ヌフ※9の竣工に携わった匠人を先祖に持ち、革命期において主君とともに捕らえられ、最期に『鴨肉のコンフィがまだ生焼けだったんだ!』と叫んだ人である。※10……
「カレーム先生は自由に活動していた」と、シェフは懐かしそうに続けた。
「ヴァランセ城の厨房で働きながら、あちこちで菓子や冷製料理を作っていた。その評判が、俺の勤めてたレストランにも届いてたよ。厨房では料理人たちが、カレーム先生の新作菓子についてよく噂してた。客にアントルメ・グラッセを出したら、この店にカレームは居ないのかとなじられた事もあった」
「アントルメ……?」
「
entremets
、
glacé
。つまり、デコレーションされたアイスクリームのデザートだ。氷菓子なんてのは百年以上前からこの国に在る定番のデザートで、コンデ公の厨房やカフェ・プロコープ※11で研究し尽くされた感があるけどね。カレーム先生のレシピは、クリームの混ぜ方から盛り付けまで独創的だった。誰にも真似できない方法で、誰よりも美しいデザートを作る。そういう人なんだ」
「ラ・ペ通りの自分のパティスリーにもちょくちょく顔を出してたみたいだ。その証拠に、2週間にいっぺんくらい、ショー・ウインドウにピエスモンテ(大型装飾菓子)の新作が飾られる。それを見ると、この国で何が起きているのかよく分かった。
たとえばロシア・オーストリア連合軍にナポレオンが勝ったときは※12、チョコレートで出来た兜や馬、戦勝記念碑やなんかが豪勢に飾られてた。馬のひづめにナッツが練り込んであったりして、芸が細かいんだ。
プロイセン軍を破ったときは※13、ナポレオンがベルリンの城に入場する場面だった。ナポレオンの掲げたフランス国旗は、苺のジャム、ホワイト・チョコレート、それから青いビスケット。あの青い色はどうやって作ったんだろうと、パリじゅうの評判になってた」
「青色ですか?」
鍵一が訝しむと、シェフは厨房へ立って行って、戸棚から紫色のカリフラワー※14を出してみせた。
「こいつを茹でると青くなるんだ。すりつぶすと青い染料ができる。考えてみりゃア誰でも思いつく事だけど、それまで誰もやらなかった。……当然、そのあとはパリじゅうのレストランやパティスリーに青色の料理があふれた。当時幅を利かせてた食通のグリモ※15に皮肉られたよ。『近頃の料理人は猫も杓子もカレームの後追い。知恵の湧き出る泉はラ・ペ通りのショー・ウインドウのみで、残りはみんな下流で水を汲む奴ら』だとさ」
笑って、「そうそう、楽器や楽隊のピエスモンテもあった」立ち上がると、書棚の奥からゴソゴソと古い紙束を出した。見ればパルテノン神殿が、皇帝ナポレオンの勝利の場面が、ぎこちない線で綴られている。
「これは俺が描いたんだ」と頭を掻いた。「カレーム先生のピエスモンテをスケッチしたんだが……どうもまずいな」
「貴重な資料ですね」と鍵一の眺めるなかに、描き手の言うとおり楽器らしきものが有った。
「それはリュート※16。その隣はエラールの新作ピアノだな」
「これは……噴水ですか?」
「ローマ賞の記念碑。ルイ14世の創った奨学金で、若い芸術家の登竜門だ。1803年にナポレオンがローマに本拠地を移した」
「ああ、あの有名な」ドビュッシーやサン=サーンスも挑んだ賞ですねと言い掛けて、慌てて呑み込んだ。噴水の頂に、確かに
Villa Medici
※17と読めた。
「……ベルリオーズさんが受賞されましたね」
「おや、日本人もベルリオーズ君を知ってるかい。彼もうちの店に時々来る。今度紹介してやるよ」
また一枚をめくると、思いがけず中国伝来の弦楽器、箏に似た姿が有った。
「こちらは何でしょう?」
「エオリアンハープだ。風に吹かれて自然に鳴る」
言われて合点が行った。『ピアノの詩人』こと、フレデリック・ショパンの演奏からシューマンが想起したのが、まさにその楽器であった。
ショパン作曲:エチュード集(練習曲集) 第1番 「エオリアンハープ」 Op.25-1 CT26 変イ長調
つづく
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幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。
実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。
♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介
♪神山 奈々さん(作曲家)
♪片山 柊さん(ピアニスト)
フランス出身の貴族、政治家。ルイ16世の治世に於いてブルゴーニュの聖務職に就任。フランス革命を生き延びたのちは、ナポレオン・ボナパルトの政権下で外務大臣として活躍しました。画家のドラクロワの父親がタレーランである、という説がありますが、真偽は定かではありません。
18世紀末~19世紀に活躍した料理人。フランス革命を経て、外相タレーランの家の調理場主任に。カレームはブーシェを敬愛し、最初の著書『パリの王室菓子職人』をブーシェに捧げました。
18世紀末~19世紀に活躍した料理人。フランス革命前はコンデ公(フランス貴族。王家に近しい一族)に仕えました。革命期のさなか、リシュリュー通りに自分の名を冠したレストランを開店。のちにレストランの経営を弟に任せ、皇帝ナポレオン配下の宮廷料理人として腕を振るいました。
18世紀末~19世紀に活躍した料理人。カレームが師と仰いだ人物。前述のロベール(※6)と同じく、コンデ公(フランス貴族。王家に近しい一族)に仕え、のちに皇帝ナポレオン配下の宮廷料理人になりました。
ロベールやカレームと共に宴会料理を担当し、フランス料理界に大きな足跡を残しましたが、ナポレオンのロシア遠征(1812年)に同行した際、極寒の地で凍死してしまいます。
カレームはその死を悼み、著書『パリ風の料理』の冒頭2ページを「ラギピエールの思い出に」と題して、偉大な料理人の功績を称えました。
音楽用語で『快活に速く』の意。
セーヌ川に架かる橋。竣工は1607年。パリに現存する最古の橋です。
第68話『名もなきシェフの肖像(Ⅱ)♪』をご参照ください。
1686年創業。パリで現存する最も古いカフェ・レストランといわれています。看板メニューの氷菓(シャーベット)は創業当時から人気があり、多くの文人や芸術家が集いました。
1805年12月、ナポレオン率いるフランス軍は、オーストリア帝国領(現チェコ領)のアウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)にてロシア・オーストリア連合軍に勝利しました。
1806年10月、ナポレオン率いるフランス軍はプロイセン王国軍を破り、首都ベルリンに入城しました。
来歴不明の野菜。地中海沿岸にて、キャベツ類の突然変異で出現したという説があります。紫色のパープルフラワーもカリフラワーの一種。
フランス出身の美食家、著述家。1803年に『食通年鑑』と題したグルメ・ガイドを刊行し、大変な評判になりました。
ローマ賞の運営機関、在ローマ・フランス・アカデミーの本拠地。その庭園の噴水を題材として、イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギが交響詩『ローマの噴水』(1916年)を書いています。