ピティナ調査・研究

第57話『埋もれた宝物♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師から謎めいたミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。19世紀パリの人々との交流から、鍵一は多くを学ぶ。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。数千年にわたり受け継がれて来たという幻の名曲の謎を探りつつ、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
埋もれた宝物♪

言葉を選びながら、鍵一は話した。8ヶ月に亘るパリ留学にて、19世紀前半のヴィルトゥオーゾの生きざまにふれた事。彼らのように作曲に長けたピアニストに成りたいと思った事。1830年代に製作されたプレイエル・ピアノ、およびエラール・ピアノを弾く機会に恵まれた事。……鍵一が言葉を発するたびに、調律師の表情は少しずつやわらいだ。まるで雛人形の表情が 雪洞 のゆらめきによって微妙に変化するように、たゆたう心情はやがて微笑を結んだ。
「坊ちゃんはパリで良く学ばれたのですね」
「周りの方に恵まれました。音楽家の方以外にも、画家や作家、レストランのシェフさんなど、多くの方が助けてくださったのです。おかげで音楽以外の事柄についても見聞が広がりました。作曲への志向も、パリの皆様と関わる中で自然にうまれてきたように思います」
「留学の甲斐がありましたね」
調律師は紅茶を啜ると、 Più mosso ※3で尋ねた。
「作曲の具体的なアイディアはございますか」
「12の変奏からなるピアノ独奏曲です。19世紀パリの芸術家や、当時生きていた人々の肖像画を、音楽で描きたいと思っています」
「……なるほど」
「タイトルは『夢の浮橋変奏曲』。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かした曲です」
marcato ※4で鍵一は発音した。相手の微笑が驚きを帯びた。鍵一は大吉を引き当てたと直感した。

「橋本さん、幻の名曲『夢の浮橋』をご存じなのですか……!」
「ピタゴラスの『天球音楽説』※5をテーマとした曲でしょう。長年この業界に身を置いておりますゆえ、小耳に挟んだ事はございます」
「じゃ、ハシモリ……橋本さんッ」
慌てた言葉が転んで膝こぞうをすりむく。かまわず鍵一は続けた、
「『夢の浮橋』について、ご存じの事を教えてください。1811年の上演記録や、楽譜の在処は?ベートーヴェン先生や、ショパンさんが関係していませんか?」
「坊ちゃん」
調律師はティーカップをゆっくりとソーサーへ置いた。
「そういった伝説の曲は数多くございます。J.S.バッハのマタイ受難曲。メンデルスゾーンが『100年ぶりの復活』と銘打って上演を行なったのはあまりにも有名です。
ベートーヴェンの交響曲、第10番。現存するのはスケッチのみ、というのが通説ですが、実は完成版の楽譜が存在し、未だ発見されていないだけかもしれません。
日本の能楽は『幻の名曲』の宝庫です。閻魔大王の右腕とされた小野篁が隠岐で憤怒する『 ※6。西行法師の夢に美しき藤原実方の霊が現れる『 実方※7……。いずれも歴史に埋もれた宝物。考古学と同様に興味深い世界です。
個人的には面白いと思いますし、『夢の浮橋』について幾つか見聞きした事柄もございますが。私は一介の調律師でございまして、音楽史の専門家ではございません。中途半端な知識を坊ちゃんにお教えするのは憚られます」
うなづいて鍵一は、万華鏡のように繰り出された宝物たちの姿を眩しく眺めた。そのきらめきの底に、調律師の意図が映っていた。
「橋本さんの仰りたい事は分かります。……有るか無きかの幻に夢中になるより、ぼくにはもっと他に勉強すべき事があるのかもしれません。幻ゆえに、探究が徒労に終わるかもしれません。真実を突き止めたらがっかりするかもしれません。数千年にわたり受け継がれて来たという名曲は、どこかの小説家が構想した架空の曲なのかもしれません。
ただ、ぼくにとって『夢の浮橋』の謎を探るのは……音楽家として成長するために必要な事なのです。パリで『夢の浮橋』の存在を知ってから、いろんな方と『夢の浮橋』について対話する機会を得ました。偉大な先生方の教えを享けたり、18世紀や19世紀のピアノを弾いたり……『夢の浮橋』を介して、ぼくは貴重な経験が出来たのです。それに……」
「……それに?」
「パリで出会った楽器製作者の方と、大事な約束をしました。その方は、とある事情から『夢の浮橋』の上演楽器を探しておられます。ぼくとその方は協力して、『夢の浮橋』の謎を探ることにしました。ぼくの『夢の浮橋変奏曲』を世に出すと共に、ふたりで幻の名曲『夢の浮橋』の情報を集めるつもりです。その方の信頼に応えるためにも、京都でぼくは『夢の浮橋変奏曲』を創る必要があります。『パリ留学をきっかけに、作曲の必要に迫られた』とお伝えした背景には、そういった事情もあるのです」
相手は唇を結んで、しばらく思案していた。
背筋をのばして返事を待つ間、鍵一は1839年のル・アーヴルでのひとときを思い起こしていた。※8故・セバスチャン・エラールの生涯を誇らしく語るピエール氏の澄んだ瞳が、ヴェルサイユの音色に重なる。

♪ラモー作曲 :クラヴサン曲集と運指法 第1番(第2組曲) ロンドー形式のジグ

坪庭を隔てて、叔父の笑い声が届いて来る。古伊万里の取引に良き進展があったらしい。
先ほどから雪見障子は冬の陽を淡く透かして、ただし客間の人間の指先を温めるまでには至らない。ドイツ・アンティークのティーカップを手のひらで包みながら、鍵一は相棒猫の所在を思った。きっと何処か、温かいところに居るのだろう。
「では、真偽不明の伝説でよろしければ」
調律師は口をひらいた。前のめりに鍵一は、相手の声に耳を澄ませた。

つづく

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