ピティナ調査・研究

第28話『惑星の庭(Ⅲ)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。様々な困難にぶつかりながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、自らの課題と向き合うため、ひとり船旅に出た。ル・アーヴル港ゆきの船※1は、おだやかにセーヌ川を下ってゆく。船内にて、オペラ座のドアマン(=『名無しの詩人』)と再会した鍵一は、そのパリ奮闘記に耳を傾けるのだった。
惑星の庭(Ⅲ)♪

帆船はようやく、森の出口にさしかかっていた。薄墨色の雲の裂け目からこぼれだす淡い陽の光をもとめて、ふたりは甲板へ上ってみることにした。
ノルマンディー地方の山々は美しかった……!
セーヌ川はいま、暗く長い森を抜けて悠々と幅をひろげた。なだらかな稜線は雲間から射す光を受けて、ところどころ茶色に輝いていた。なかでもひときわ大きな、まだ雪をかむったままの山が、思いがけず富士山に似ていた。隣で『名無しの詩人』は額に手をかざして、
「ああ、ようやく! あの山をぐるッと回れば、僕の村……ジヴェルニーだ」※2
と、なつかしそうに声を上げた。
ふたりは座る場所をさがしたものの、甲板はどこもかしこも雨に濡れて黒ずんでいた。やむをえず、マストの下に積み重なっていた木箱をおろして、乾いた面を即席のベンチとみなすことにした。かじかむ指にちからをいれて木箱を持ち上げながら、
(これが肉体労働というものかしら)
鍵一はクロード・モネの絵画『石炭の積み降ろし』の風景を、曖昧に思い起こした。ようよう腰を落ち着けると、ふたりは珈琲をすすりながら、また話を始めた。
「独特だったよ、バルザック先生の話の聴き方」
「応接間にふたりきりですか?」
「そう、僕と先生。先生は僕に、生い立ちから今に至るまでのできごとを、事細かに話すように言った。『すべてだ、どんな些細なことも端折らないでくれたまえ』と念を押して。僕が戸惑いながらポツ、ポツ、話し出すと、先生は原稿用紙にメモをとりはじめた。
奇妙な感じだった……。 僕はあくまでも、バルザック先生の生み出す言葉を味わう側の人間なのに、その空間では立場が逆だった。
僕は状況がよくわからないまま、ともかく先生の望むとおりに話した。ジヴェルニーで庭師の家に生まれて、子供のころから親父を手伝って庭づくりをしていたこと。古城の書庫でバルザック先生の小説『あら皮』を読んで、そのチャーミングな描写に惹かれて文学の道を志したこと。 勇んでパリへ上京したものの、憧れの出版業界は幻滅の連続だったこと。パリで食いつなぐために、いろんな仕事をして日銭を稼いだこと。
……バルザック先生の筆は速かった。そして相槌をうちながら、すごい勢いで珈琲を飲む。砂糖もミルクも入れずに、そんなにガブ飲みして胃は大丈夫かしらんと、見ていてヒヤヒヤしたよ」
「ちょっと待って下さい。バルザック先生はなぜ、『名無しの詩人』さんの人生を、そうまで詳細に聴き取ろうとしたのでしょうか?」
「それだよ、ケンイチ君」
『名無しの詩人』は前のめりにうなづいて、己の膝をぺたぺたと叩いた。
「その奇妙なやりとりを続けているうちに、僕にも作家の目論見が呑みこめてきた……!
バルザック先生は、僕から小説の資料を得ようというんだ。綿密な描写で人間や社会の真実をえぐりだす、先生ならではのやり方さ。新作の小説に取り掛かるにあたり、僕のような……田舎からパリへ上京して四苦八苦しているような、現代の若者ならではのリアルな声を、先生は取材したがっていたんだ」
「なるほど」と鍵一も膝を打って、すると唐突に、自分の作曲すべき『夢の浮橋変奏曲』のアイディアが浮かんできた。

(この19世紀の旅で出会った人たちの肖像画を、変奏曲の形式で描いてゆくのはどうだろう?
たとえば、
第1変奏:ショパンの肖像(音楽家・ピアノの詩人)
第2変奏:ジョルジュ・サンドの肖像(作家・19世紀パリの紫式部)
第3変奏:シェフの肖像(レストラン『外国人クラブ』)
第4変奏:アルカンの肖像(音楽家・フランスの至宝 ほほえみの修行僧)
……といったふうに!
『夢の浮橋』のモチーフをいろんなやりかたで展開しながら、その人の性格や、生きてきた軌跡を表すんだ。19世紀のロマン主義らしく、性格変奏※3でいこう。音楽家を表す場合は、その人の楽曲の特長を織り交ぜたりして。
だって、ぼくは彼らのリアルな声を聴いた。一緒に食事をして、話をして、笑って。彼らの印象を曲に練り込めば……僕ならではの曲ができるんじゃないか?)
忙しなく回転しはじめた鍵一の創作意欲は、しかし『名無しの詩人』の語りにやわらかく押し退けられた。ひとまず鍵一は、思い付いたばかりの曲の構想が吹き飛んでしまわぬよう、頭の中の宝箱へそッと仕舞っておいて、隣人の話に耳を傾けることにした。
「バルザック先生に、僕は洗いざらい話したんだ。先生の仰せのままに、全部、全部! 結局、三日三晩ブッ通しで話し続けて、僕はついに応接間のソファに倒れ込んで眠ってしまった……
目が覚めると夕陽がさしていた。まるで別世界にワープしたような、妙な気分だったよ。先生の秘書のゴズラン氏※4が食事を運んで来てくれた。ミルクとパンと、白カビのチーズ。病人食みたいなその食事が、身体中に染みわたるほど旨かった。
当の先生は、『執筆に取り掛かるから』と、書斎に籠もってしまっていた。扉に聴き耳をたてると、ペンの音がかすかに聞こえた。筆の速いバルザック先生らしい、すばやく鋭い音。今まさに物語が綴られているのだと思うと、鳥肌がたつほどワクワクした……!」

「バルザック先生の執筆は十九日間つづいた。小説を書き始めるといつも、最初の一章を書き上げるまで筆を止めないんだそうだ。例によって珈琲をガブ飲みしながら、少量のフルーツやクルミのほかは、ほとんど食べ物を口にしない。誰が訪ねて来ても会おうとしない。
食客を気取っていた僕はすっかり手持ち無沙汰になって、でも退屈はしなかった。秘書のゴズラン氏が『文豪バルザック・ツアー』に連れて行ってくれたんだ。先生ゆかりのパリの名所をめぐりながら、ゴズラン氏がとっておきのバルザック・エピソードを聴かせてくれた。楽しかったなア……!先生がまだ駆け出しだったころに、よく通った大衆食堂。お友達の大音楽家・ロッシーニ氏と恋の鞘当てを繰り広げたカフェ。兵役から逃げた罪で放り込まれた、フォッセ=サン=ベルナール通りの牢屋。もっとも先生、服役中は一流レストランから出前を取って、豪華な獄中生活を送っていたそうな。
そうそう、僕とゴズラン氏は執筆中のバルザック先生のために、三種類の珈琲豆を買いに行ったりもしたんだぜ。ショセ=ダンタン・モン=ブラン通りのブルボン。ヴィエイユ=オードリエット通りのマルティニック。サン=ジェルマン・大学通りのモカ。それらをブレンドすると、先生御用達の『悪魔のめざまし』ともいうべき逸品ができあがる」
(ショセ=ダンタンの……)
と、鍵一は三種類の珈琲豆の場所を、急いで心の手帳に書きつけた。
(そこへ行けば、文豪バルザックに出会えるかもしれない。うまくゆけば、ロッシーニに紹介してもらえるかも?)

「執筆二十日目の正午に、バルザック先生がようやく書斎から出てきた。シャツはよれよれ、目の下には黒いクマ、髪はモシャモシャ。げっそりとやつれて……でも嬉しそうだった!
『きみのおかげで、小説の書き出しはばっちりだ! ありがとう、ありがとう』
そう言って、書き上げたばかりの原稿をひらひらと振ってみせて、先生は僕の肩を何度も叩いた」
「どんな作品でしたか?」
「『幻滅』と、タイトルがついてた。田舎からパリへ上京した純朴な青年が、悪徳まみれの出版業界で奮闘する話さ」※5
「なんと」
『名無しの詩人』は可笑しそうに天を仰いだ。
「ねえ、こんなことってあるかい、きみ? 僕が憧れの作家の、新作小説の主人公のモデルだなんて!」
「やっぱり、聴き取りの目的は取材だったんですね……!」
「自分の雑草みたいな人生を、先生の筆で肯定してもらった気がしたよ」
と、飲み終えた珈琲カップを手のひらにつつんで、感慨深そうに眺めている。
「僕自身が年を取っても、いずれ死んでもさ……バルザック先生の小説の中で、22歳の『名無しの詩人』たる僕は生きつづけるんだ。こんな愉快なことって、そうあるもんじゃないよ」
うなづいて鍵一は、ジョルジュ・サンドの言葉を思い返していた。
(書く者と書かれる者……あの夏の日、サンドさんは確かに仰っていた。ショパンさんの人生を書き残したいと。ご自身は記録者なんだ、と。
いつかぼくも、書かれる側に回ることがあるかしら?)
「幸運はそれだけじゃなかった。先生はすぐさま顔を洗って、例の蜂蜜のような匂いの香水をつけて支度をととのえると、秘書のゴズラン氏に馬車の手配を頼んだ。そうして持ち前の陽気な口調で僕に言うんだ、
『協力してくれた御礼に旨いものをご馳走しよう。いざ、ロシェへ!』」
「ロシェ?」
「バルザック先生の傑作小説『あら皮』に出てくる高級レストラン、『ロシェ・ド・カンカル』※6!牡蠣で有名な、パリでも指折りの一流店さ。
僕は慌てて、オペラ座のドアマンをつとめていたときの一張羅を引っ張り出そうとした……だけど、秘書のゴズラン氏が教えてくれた。しゃちほこばった服装は、一流レストランのランチにはむしろ野暮で。できるだけ無造作な格好をしているのが『粋』なんだッてさ」
「へえ」
と、鍵一はこれも心の手帳に書きつけておいた。
「憧れの『ロシェ・ド・カンカル』へ! 僕ら三人は、四輪馬車で意気揚々と店の前へ乗りつけた。扉をひらくなりバルザック先生がオペラ歌手のように叫んだから、ブッたまげたよ。
『さあ、まずは牡蠣を百個だ!』
メートル・ドテル※7と数人のギャルソンがスッ飛んできて、僕らのテーブルに九ダースの牡蠣がずらりと並べられた。すぐさま白ワイン二本の栓が開いた。そこから怒涛の祝宴が始まった……! 豚とナッツのパテ・アンクルート、舌平目のムニエル、牡蠣のおかわり、若鶏のマレンゴ風煮込み※8、オマール海老のマヨネーズ焼き、牡蠣のおかわり、ヤマウズラのロースト、牡蠣のおかわり、テールスープ、子鴨とカブの付け合わせ、梨を三つ、桃を五つ、葡萄をありったけ、牡蠣のおかわり、そのほか覚えきれないほどの皿、皿、皿……合間にボルドーワイン三本、シャンパーニュ四本がカラッポに。
まるで小説『あら皮』の主人公が銀行家に招待されて豪華な食事をたのしむ、あの名場面の中に居るようだった……!」
(牡蠣のおかわり多いな……!)

「良かったですね、すばらしい体験……!」
「人生で又とない黄金のひととき! ただ同時に、僕は文学への夢をすっぱり断つことになったよ」
「なぜです」
と、鍵一は驚いて尋ねた。
「せっかく、憧れの作家とお近づきになれたんじゃありませんか。弟子にしてもらって、詩作の指導をしてもらえば」
『名無しの詩人』はゆるゆると首を振って、なお明るい目をしていた。
「僕はバルザック先生の、牡蠣の食べ方に衝撃を受けたんだ……」
「確かにちょっと食べすぎですね」
「問題は食べ方だよ。作家としてあれほどの成功をおさめ、ロッシーニやゴーチエをはじめとして一流の芸術家たちと交流し、牢獄へも豪華な食事を運ばせ、美しい婦人たちを魅了するあの御方が、どうしてあんなにがつがつと、飢えたように食べる必要があるんだ?」
「おなかがすいていたからでしょう?」
「いや、あれはね……渇望というやつだ」
「渇望?」
「先生の小説の書き方だってそうさ。どうして十九日間も、ろくに食べも眠りもせず書斎に籠もる必要がある? 集中して仕事に取り組む、なんて域をとうに超えてるよ。
おそらくバルザック先生は……いつだッて飢えているんだ。飢えた勢いで書く。原稿用紙を充たすと、つぎは食事だ。『ロシェ・ド・カンカル』では、厨房で殻を剥くのが追いつかないくらいだった。しまいには先生、フォークで牡蠣の身を刺すのもまだるっこしくなったとみえて、殻ごと手づかみで丸呑みさ。テーブル付きのギャルソンがレモンを絞るのすら間に合わない」
「……」
「バルザック先生が何にそんなに飢えているのか、僕にはわからなかった。でも、これだけはハッキリしたんだ、
『自分のなかには渇望がない』
……ッてね。田舎の村で先生の小説に憧れて詩作を始めたけど、僕には才能以上に、『どうしてもこれを書かねばならない、書かなければ充たされない』ッていうものがなかった。腹の底にその強烈なエネルギーがなければ、競争の激しいパリでは、創作をつづけることさえ出来ない。
現に、僕は最初の詩集『惑星の庭』を書いて以来、新たな作品を完成させることがどうしても出来なかった。出版業界が陰湿だとか、肉体労働で疲れ切っているとか、そんなことはただの言い訳なんだ。渇望を抱えた人たちは、まわりの理解が得られなかろうが、貧乏だろうが、作品を創りつづけるからね……バルザック先生がそうだったように。
それが世にいう才能というものかもしれないし、あるいは天罰なのかもしれない。幸か不幸か、僕にはそれが備わっていなかった」
洗いたての空から一陣の風が吹き抜けて、白い帆が音をたててひるがえった。乗客が連れ立って甲板へ上って来る。床板に沁み込んだ雨はそろそろ乾いて、彼らが甲板をあちこち動き回るたびに、陽気な靴音がキュッキュと鳴った。
「それにさ、考えてみれば、世間には星の数ほど名作があるし、腕のいい作家がたくさんいる」
『名無しの詩人』は笑って立ち上がると、両腕をウンと伸ばした。
「僕が下手な筆で書かなくたッて、この世の美しいものはちゃんと後世に書き伝えられてゆくんだ。薔薇の花や、パリの黄昏のチャーミングな描写は、バルザック先生にお任せするよ」
猫のフェルマータが鍵一の懐から跳び下りると、やはり手足をウンと伸ばして、陽だまりへゴロンと横になった。鍵一はフェルマータのおなかをフサフサと撫でてやりながら、船が近づきつつある小さな農村に目を遣った。家々の屋根は低く、冬ごもりの支度らしく灰色の藁に覆われていた。桟橋にも、村の中にも、ほとんど人影は見えなかった。水車だけがゆっくりと回っていた。山の頂に古城の尖塔が見えた。
(バルザックの新作小説『幻滅』は、いずれこの村にも届く)
と、鍵一は冬枯れの村の印象を強く胸に刻みつけながら思った。
(小説の結末はどうなっているんだろう? 主人公の文学青年は、筆を折って村に帰るのか……それとも)
船内にドラが響いて、
『まもなくジヴェルニー……ジヴェルニー!』
若い水夫の甲高い声が乗客に報せていた。

「あ、そうそう。猫もびっくりの後日譚が、これね」
『名無しの詩人』は自分の荷物から、大切そうに珈琲ポットをとりだしてみせた。フェルマータがヒョイと猫耳をたてる。甲板の上はすでに、日向ぼっこに出てきた乗客でにぎわっていた。ジヴェルニーの船着き場では荒縄を担いだ水夫たちが桟橋へ飛び移って、下船の準備を進めていた。
「バルザック先生ご愛用の、リモージュ焼きの珈琲ポットさ。同じものを先生、いくつも持ってるんだぜ。珈琲をハイペースでガブ飲みするのに、ポットが一つきりじゃ、とても足りないからね」
「これを、先生があなたに?」
「故郷に帰ることを決めてから、お別れを言いにバルザック先生のお宅へ伺ったんだ。先生は引き留めなかった。これを僕の胸にドンと押し付けて、
『いいかね、きみ。いつも陽気でいること! また遊びにおいで』
ッて言ってくれた。それだけで僕には充分だった」
手渡されると、珈琲ポットはずっしりと重い。なめらかな陶器の表面が、空を映して白く光っている。
「ちょっと重すぎやしません?」
「だろ? 僕もこの船に乗ってから気づいたんだ。ポットの底のほうになにか詰まっている感じがして。ふたを取って逆さまにしてみたらなんと……金貨の詰まった袋が落ちてきた!」
「ええッ」
「総額百フラン!※9これは僕の推測だけど……先生、ここに金貨を入れた事を忘れていたんじゃないかな」
「珈琲ポットにですか?」
「原稿を書き終えるや『ロシェ』に繰り出して朝までドンチャン騒ぎ。へべれけになって帰って来て、酔った勢いで金貨の入った袋を手近なポットへ投げ込んで、そのまま大いびき。目覚めたときには、前の晩の出来事なんてすっかり記憶の彼方で……と、そんなところじゃないかな」
鍵一は想像してみる。消えた百フランの謎に首をかしげる文豪バルザック。あるいは『名無しの詩人』にエールを送る文豪バルザック。どちらのバルザックも三秒後には陽気に笑って、この世の終わりのような音をたてて革椅子に腰かけると、また原稿を書き始めた。
「粋な計らいかもしれませんよ、バルザック先生の」
「いずれにせよ、先生に手紙を出してみるよ。一ヵ月経っても返事がなければ、金貨は僕のものさ」
ふたり笑って、甲板の手すりにもたれた。午後の陽射しがほほえむように帆船をつつんで、鉄製の手すりは暖かい。
「これからどうなさいます」
何気なく尋ねて鍵一は、この旅の連れ合いと別れるのが急にさびしくなった。相手はマストから飛び立つ鳥たちの行方を眩しそうに目で追いながら、
「ジヴェルニーで『惑星の庭』を造る。詩じゃないよ、本物の庭」
「庭……!」
「この珈琲ポットをもらって、帰る道すがら考えたんだ」
白い歯をみせて笑って、珈琲ポットをていねいに荷物のなかへ仕舞った。
「これから僕のやるべきことは何なんだろうと。考えあぐねてぶらぶら歩いているうちに、気づけばまたポン・デザール(『芸術橋』)の上に来ていた。
風が吹いて。
両岸の樹々から黄金色の葉が舞って、セーヌ川の水面に散り敷いて流れて行った。そのさまに見とれていて、ふと思ったんだよね。
『庭、造ろうかな』と。
ジヴェルニーの実家で、庭師の修行をやりなおしてみようかな、と。自分で言うのもなんだけど、僕けっこう適性あると思うんだ」
「そう思います」
鍵一は大きくうなづいて、むずむずと嬉しさが込み上げてきた。
「どんな庭ですか? あの詩集のような?」
「いや、詩集『惑星の庭』の風景とはちがうんだ……もっとのびのびとした、自由な庭を造りたい。選りすぐりの花だけが住める、というのではなくて。雑草とみなされているような植物たちも、活き活きと葉っぱを伸ばせる庭。もちろん、シソも植えるよ。食用の草はたくさん植えようと思う。薬草もね。
……さらに!僕には夢があるんだ」
「何です」
「パリから芸術家を招くんだ、僕の『惑星の庭』に。バルザック先生や、秘書で文筆家のゴズラン氏や、それから画家や音楽家も。たくさんの芸術家に、庭で創作活動をしてもらう。そうすれば、僕はいつでも名作が楽しめるッてわけ。どう、この計画?」
「Bravo!」
「ケンイチ君ならどんな庭を造る?」
聞かれて鍵一は咄嗟に、画家クロード・モネが絵画の題材にと造った『水の庭』※10を思い浮かべた。
「『水の庭』、でしょうか。池があって、睡蓮が咲いていて……そこへ橋を架けるんです。こう、中央がすこしふくらんだかたちの。日本の古式ゆかしい庭園で、よくみられる様式です」
「いいねえ。ヤナギの樹も植えようかな?」
そのとき、下船を促す鐘が打ち鳴らされた。ふたりは一瞬顔を見合わせて、『名無しの詩人』は黙って荷物を背負った。そうして手を差し出した。指の関節がごつごつと太い、大きな手だった。
(庭師の手だ)
「ケンイチ君もぜひ来てよ、『惑星の庭』に」
「ええ、きっと」
「また!」
「お元気で」
ステップを降りてゆく『名無しの詩人』の背中を見送りながら、乾いた大きな手の感触が、鍵一の手のひらに残っていた。
……と、不意にフェルマータが身を起こした。目を丸くして、ヒョイと甲板の手すりに跳びつこうとする。
「危ないッ」
抱き留めて、船着き場のほうを見遣った鍵一も目を丸くした。
『惑星の庭』だった。
空の青を溶かし込んだ池に、睡蓮が薫っている。
藤棚が風に吹き揺れるたび、太鼓橋の下の水面に明るい影がちらちら映る。
ヤナギの樹の根本には苔の丘がやわらかい。名も無いうすむらさきの花が水辺に咲き群れて、濃い緑色の葉をこぞってぴんと張っている様子は、ドビュッシーのベルガマスク組曲の、みずみずしいプレリュードを思わせた。小さなカエルが睡蓮の葉に飛び移ると、水の輪が幸運のしるしのようにひろがった。……
……鍵一が目をしばたたくと、幻はたちまち消え去った。船着き場から『名無しの詩人』が手を振っている。汽笛とともに帆船が動き出している。
「ニャア」
フェルマータに腕をかるく噛まれて、はッと鍵一は手を振り返した。
数十年後の未来にクロード・モネが住み着き、やがては多くの芸術家が創作の題材をもとめて集う事となるジヴェルニーは、今はまだ冬枯れの小さな農村に過ぎない。
桟橋に立つ『名無しの詩人』の姿が水辺の景色に溶けて見えなくなるまで、鍵一はいつまでも手を振り続けた。

♪ドビュッシー作曲 :ベルガマスク組曲 プレリュード

つづく

◆ おまけ
  • ル・アーヴル港ゆきの船
    ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。
  • ジヴェルニー
    フランス・ノルマンディー地方の河口都市。印象派絵画の巨匠クロード・モネが晩年を過ごし、名作『睡蓮』を描いたことで有名です。
  • 性格変奏
    19世紀ロマン派の音楽家の変奏においては、モチーフ(動機)から遠く離れて曲を展開させることが主流でした。これを性格変奏といいます。
    対して、古典派の音楽家においては、モチーフを明確に保ちつつ、旋律に装飾をつける変奏が主流でした。これを装飾変奏といいます。
  • バルザックの秘書、ゴズラン氏
    バルザックの秘書であり文筆家でもあったレオン・ゴズランは、バルザックの日常をユーモアあふれる文体で綴り、人気を博しました。著書に『スリッパ姿のバルザック』(1856年刊行)、『自宅のバルザック』(1862年刊行)など。
  • バルザックの小説『幻滅』
    バルザックが当時の出版業界をメッタ斬りにした問題作。1843年に刊行されました。主人公は、田舎から上京した純朴な文学青年リュシアン。悪徳と腐敗のはびこるパリの出版業界で彼は奮闘しますが、その結末やいかに……?
  • 牡蠣で有名なパリのレストラン『ロシェ・ド・カンカル』
    バルザックやアレクサンドル・デュマ、テオフィル・ゴーティエといった、19世紀パリの文人が集う人気レストランでした。ショパンも訪れた事があります。
  • メートル・ドテル
    レストランの給仕をとりしきる総責任者。
  • 若鶏のマレンゴ風煮込み
    鶏肉をトマトやニンニクとともに煮込み、目玉焼きやザリガニを添えた一品。
    マレンゴとは、イタリア北部ピエモンテ州の地名です。1800年、ナポレオンがこの地でオーストリア軍と戦い勝利をおさめた際、ナポレオン付の料理人・デュナンは現地のありあわせの材料で、鶏の煮込み料理を作りました。ナポレオンはそれを大変気に入り、以後何度も食したそうです。この事から『若鶏のマレンゴ風煮込み』は、フランス料理の定番メニューとなりました。
  • 19世紀パリの通貨単位
    1フランは約1000円。100フランは約10万円です。
  • モネの『水の庭』
    1883年にジヴェルニーへ移り住んだ画家クロード・モネは、絵の題材として、自宅兼アトリエに庭を造りました。色彩と光に満ちた美しい庭は、『花の庭』と『水の庭』で構成されており、『水の庭』は日本の浮世絵からヒントを得たとされています。
    モネに庭造りを指南した人物こそ、我らが『名無しの詩人』だったのかもしれません。