ピティナ調査・研究

Vol.6 長井千香子さん(マーケター)

Enjoy! Piano ピアノで拡がる、豊かなミライ
Vol.6 長井千香子 さん
ユニ・チャーム株式会社 ジャパンマーケティング本部 フェミニンケアブランドマネジメント部 部長

4歳から習っていたピアノから音大受験での挫折を機に離れ、現在ユニ・チャーム株式会社のブランドディレクターとして活躍する長井さん。ショパンコンクールの視聴をきっかけに20年間距離を置いてきたピアノとの絆を紡ぎ直す日々、さらに女性の多いピアノ業界ならではの思春期の生徒のケアについてお話を伺いました。

ピアノとの関係をこじらせてしまった思春期

現在のお仕事について教えてください

今の仕事はマーケターと言って、ユニ・チャームで生理用品「ソフィ」の商品開発からプロモーションまでをプロデュースしています。顧客のニーズをキャッチし、商品開発からパッケージや広告、販売、経理など各部門と連携を取りながら、お客様の求めている方向に全社を引っ張っていく仕事です。また2019年に始めた#NoBagForMe プロジェクトや、2021年から多くの企業に参加していただいている「みんなの生理研修」など、生理をタブー視しない相互理解のあるコミュニティづくりの活動も推進しています。

この道に進まれる前は、音大を目指すほどピアノに打ち込まれていたと伺いました

母がピアノが好きで家にアップライトピアノがあり、4歳の頃から地元のピアノ教室へ習いに行っていました。私は石川県の田舎の方の出身で、海まで徒歩1分、窓を全開でピアノを弾いても隣の人に聞こえないくらいでした。小さい頃は、練習をするとどんどん弾けるようになるので楽しく、近所ではピアノが上手い子、合唱コンクールでもいつも伴奏する子、という感じでピアノが自分のアイデンティティのようになっていました。

中学1年の時に金沢に引っ越したのを機に本格的にピアノに取り組もうと、ピアニストの先生につきました。幼少期のピアノ環境とは一変し、とにかくミスをしてはいけない、音もテンポも楽譜通りに弾かなければならないというレッスンになりました。田舎育ちで活発な方だったので、感情のひだが大きく、表現をやり過ぎたりテンポが揺れたりして「感情を入れすぎ」と注意されるうちに、自分の気持ちに完全に蓋をしてしまうようになりました。自分の感情を出したり解釈して弾いていいのは一流の演奏家だけ、それ以外の人はきちんと楽譜通りに弾くだけしかダメなんだと思うようになりました。

感情に蓋をしてピアノと向き合うことがどんどん苦痛になっていく上に、金沢ではピアノが上手な子、音楽的に恵まれた環境の子もいっぱいいて、多感な時期とも重なり、どんなに努力しても突破できないこともあるのかなと悩むようになってしまいました。遠くまでレッスンに通い、グランドピアノも入れてもらい、コンクールにも出ているので自分は頑張らなきゃいけないんだ、いう葛藤を抱えつつどんどん孤独になっていきました。

一番辛かったのは、弾きたい曲が弾けなかったことです。コンクールの課題曲や練習になる曲ばかりではなく、本当はショパンやベートーヴェンの題名のついたソナタとか弾きたかったのです。自分の耳で「いいな」と思う曲が弾けないことは、本当に辛いことでした。多分だめだろうなと思いつつも、結果が分からないと次に進めないと思い、音大を受験しました。ピアノの先生にだめだったことを報告したものの、その後だんだんレッスンに行かなくなり、ちゃんと最後の挨拶もしないままに自然消滅的にピアノから離れていってしまいました。普通の大学を受験するために予備校に通ってピアノも弾かなくなり、普通に就職して、そこから20年間、ほぼピアノと関わることのない人生を歩んできました。

20年閉じていた扉を開く

その後、どのように再開へとつながったのですか?

クラシックは好きで聴いていたし、ピティナの特級のコンチェルトをホールに聴きに行ったこともありました。でも、嫌な辞め方をしてしまったこと、音楽と全然関係のない職種に就いたことに負い目もあり、ずっとピアノに対して大きなコンプレックスを抱えたまま、20年間ほとんどピアノに触りませんでした。

転機となったのは、2021年のショパンコンクールです。反田恭平さんのファンだったので予備予選から緊張して配信を見ていました。あんなに真摯に音楽に取り組むコンテスタントたちを見て、「やっぱり音楽っていいな、上手くなくてもいいからもう一度ピアノが弾きたい」という想いがこみ上げ、反田さんのファイナルの演奏を見ながら号泣してしまいました。ピアノが好きだったのに頑張り続けられなかった自分へのコンプレックス、選ばれた者だけが音楽をやれるのかなという、音楽をやれている人へのコンプレックスが、その瞬間に完全に破壊されました。「音楽ってみんなのものだよな、誰だって音楽を楽しんでいいんだよな」と、勝手に敷居を作っていた自分に気づき、一体自分は何をこじらせていたんだろう?と。

その翌月には、近所のピアノ教室を探して入会しました。もうピアノには触ることはないだろうと思っていたけれど、たまっていたのでしょうね。上手くないと弾いちゃいけないと思い込んでいたけれど、本当は弾きたかった。今の先生は「好きな曲を持ってきてください」と言ってくださったので、弾きたい曲と弾ける曲が全然違ったけれど、ずっと好きだったショパンのバラード1番に取り組むことにしました。

週に一度、先生が待っていてくれることが嬉しい

お仕事もお忙しい中、どうやって時間を捻出されているのでしょう

仕事もすごく忙しくて、子どもも家庭もあってかなり時間はないのですが、それでも週に1回先生が待っていてくれると思うと嬉しくて、仕事の合間に10分でもいいから弾こう、あとちょっと譜読みをしていこうと思えるんです。技術的に大変な所も、先生が「好きな曲だったら指も動く」と言ってくださるように、この曲のこのフレーズなら動くようになるのです。やっぱり目標があった方がいいかなと思って今年の6月に発表会にも出ました。久しぶりに舞台に立って弾くのをみんなが聴いてくれて、すごく気持ちがよかったです。

20年ぶりの発表会

今はちょうどピアノを再開してから1年。またピアノが好きって言えるようになりました。すごく速く正確に弾けたりはしないけれど、自分の好きな曲を楽しく弾くのでいいんだ、と吹っ切れた気がします。先生とも大人同士、「このフレーズすごく美しいですよね」などという話も自由にできています。昔はそんなことも言える雰囲気じゃなかった。今はずっと弾きたかったベートーヴェンの悲壮やワルトシュタインを練習しています。あんなに嫌だった孤独も、今は心地いい。色んなことが忙しい時ほどリフレッシュされて、一人でピアノの前に座る時間が至福です。

言葉にならない感情を表現できる魅力

ピアノをやっていてよかったと思うことは、どんなことですか?

ピアノでは言葉にならないものも表現できて、自分の気持ちとシンクロさせることができることです。マーケティングは言葉にする仕事ですが、言葉ってどうしても限界があります。「悲しい」「幸せ」と言葉にしてしまうと平坦だけれど、ピアノはそれが混じりあった感情とか、言葉にならないもやもやした感じとか、寄る辺のなさのようなものも完璧に表現してしまうんです。そこが音楽の最大の魅力だと思っています。学生の頃は、ショパンやベートーヴェンがどんな気持ちや背景で作曲したかなんてまるで分からなかったけれど、大人になってからは、ベートーヴェンはこれをどんな時に書いたんだろう?ここは葛藤していたのかな、などと思いを馳せるようになりました。すごく昔の人にも感情があって、それを音にしているんだとやっと繋がって、今はもっと本など読んでみたいなと思います。大人になって、ままならないことも色々と経験をしてきたからこそ、若い頃じゃ分からなかった楽しみ方ができるようになったのだと思います。

ロジックと感情を使って受信し発信し、作品へ導いていく力

仕事をする上で生きている能力はありますか?

まず忍耐力、集中力、そして継続する力です。ビジネスって結構凡庸なことの繰り返しなのですが、ピアノで培った力がなければ、すごい量の業務を前につぶれていたかもしれないと思います。今はできなくても、努力を続ければ少しずつでも何かしら絶対にできるようになっていくはず、というのは、大人になっても信じています。

ビジネス面で必要なプレゼンテーションスキル、アウトプットスキルもピアノで培ったものです。演奏は、楽譜を読んでそれを論理的かつ感情を入れてアウトプットしていくものですから。また、コミュニケーションスキルもそうです。コミュニケーションには、相手が何を求めているかを理解する能力が必要ですが、ピアノのレッスンは言葉で説明するというよりも、先生がこんな感じだよ、とやって見せて、それを真似て返して、もう少しこんな感じ、とコミュニケーションを重ねていきますよね。雰囲気や仕草、潜在的な感情とか、そういう言葉にならないものの受信力が音楽をやっていた人には備わっていると思います。

顧客が求めていること、感じていることは、実は論理的には説明がつかなかったり、言葉にならなかったりすることが多いんです。顧客も社内もロジックだけでは動かないので、マーケターは音楽と同じように感性とロジックとをバランスよく使えないといけません。私が尊敬するマーケターの先輩は「マーケターは顧客に成り代わってタクトを振るコンダクターだ」と言いましたが、顧客が何を求めているかを探り、それを全社にフィードバックし、お客様の求めている方向に全社を引っ張っていく、そして一つの音楽作品を奏でるように商品ができるのです。

ピアノ業界に潜在する女性の身体とメンタルの変化の悩み

今回長井さんをお迎えするにあたって、ピアノ業界は、弾く人も指導者も女性の割合が非常に多く悩んでいる人は多いはずなのに、生理にまつわる問題には全く触れて来なかったことに気づきました。

そうですよね。ピアノをやる人口の母数は女性が圧倒的に多い割に、第一線で活躍する人には男性が多いですよね。月に一度生理があって、その前後にものすごい心身の変化があるということは、身体や感情の繊細な動きが表れるピアノ演奏のパフォーマンスに非常に影響することは想像に難くないです。

だからと言って、本番の日程に合わせられるわけでもないし、練習もレッスンも本番も、長時間集中して座っていなければならないですよね。日々の練習のクオリティにも影響してきますし、本番に向けてモチベーションを高めにくい時期もありますよね。

アスリートの世界でも、ユニフォームの色が白一択だったのが、黒にしただけで集中力が増しパフォーマンスが上がった例もあります。スポーツの分野では生理についての理解が進んできていますが、芸術分野で進んでいないのは、声が挙がってきていないからです。女性が多い業界というのは得てして「みんな我慢しているのに、自分だけがわがままを言えない」という思想に陥りがちで、辛くても声を上げづらいということがあります。男性の方が、言えば理解を示してくれる場合が多いですが、女性の場合はみな自分を基準として考えてしまいがちなので、女性の理解を得る方が難しかったりします。実際は生理は本当に個人差が大きくて、PMS(月経前症候群)も落ち込む人もいれば攻撃的になる人もいますし、遺伝と思われがちな母娘でも全然違ったりするのです。

思春期の子にとってのピアノ教室という居場所

こうした話は、なかなか人に話しにくく、悩みを一人で抱え込みがちですよね。

そのため、知識もアップデートできずに、これが当たり前で仕方ないと思い込み、適切なケアやサポートを乞えないという状況があります。その時に、学校と家庭以外に、思春期の子どもたちが安心して話すことができる居場所があるとよいと思います。毎週通い、一対一で対話できる関係性ができているピアノの先生は、その一つになれるのではと思います。ピアノの先生であれば、ピアノの練習や本番に体調やメンタルの変化が大きく作用することもよく知っているので、悩みを聞いてあげるだけでなく、生徒の心身の調子に合わせて練習のメニューや本番までの調整の仕方も一緒に考えてあげられるかもしれません。

違いに合わせたもっと質の良いレッスンができるかもしれませんね。

まずは、子どもたちが自分の体調やメンタルについて、「辛い」と言っていいんだよ、という環境を作ってあげて欲しいと思います。思春期で将来についても悩み、多感な時期に生理も来ます。ピアノの練習は孤独になりやすく、他にどんな選択肢があるのかも知らず、相談できる相手もいなくて、悩みを全部自分で抱え込みやすくなります。私もそうでした。今となっては、先生は私を音大へ進ませてあげたい、思うように弾けるようになってもらいたいと思って一生懸命指導してくださっていたのも分かるし、その時の基礎力があったからこそ今こうして弾けているのだと思えますが、視野が狭くなっていた当時の私には見えていませんでした。ピアノの先生には、テクニックを教えるだけでなく、自分たちが相手にしている子どもたちがそういう思春期にあること、メンタル的にも身体的にも変化があり揺らいでいる時期だということを理解して、何か一つでも声をかけてもらえたら、私のように20年もピアノに蓋をすることはなかったのかもな、と思います。

ピアノの先生や、ピアノを習う思春期の子たちへ伝えたいことは

子どものうちは特に、自分が頑張ったご褒美が、プロの演奏家になることだけだとか、一度やめたら二度とちゃんと弾けなくなるんじゃないかとか、視野が狭くなったりします。ピアノの先生方には、そういう子たちにも、世界はもっと広くて、音楽のよさも無限だということを伝えてもらえたら…自分の才能とか、うまく弾けないこととか、将来への不安とか、そうした行き所のない感情を表現してくれるのもまた、音楽だということ、ただ弾いて気持ちいいだけでもいい、音楽に携われていること自体が本当に人生を豊かにしてくれるんだということを、たまに生徒さんに話してもらえたら、それだけでも安心するんじゃないかなと思います。

そして、私のように20年間もやっていなかったけれど、再開して今すごく楽しんでやっている人がいるということを知っていてくれたらと思います。辛かったら言っていい。しんどいなと思ったら、ちょっと他のことをやってもいいんじゃないかなと。一度辞めても恐ろしいことが起こるわけじゃないし、自分が弾きたいと思うことがあれば、いつだって再開できる。大丈夫。ちゃんと自分の中には音楽が残っているし、戻ってこられる、ということを、信じて欲しいなと思います。

(2022/10/21 東音ホールにて)

ピアノ弾きのマーケターの手
ピアノを弾くと、ピアノとの関係をこじらせる前の小さい頃の自分と一緒になれるような気がしています。今は弾きたい曲がたくさん。80歳のおばあちゃんになった時にシューマンをポロンと弾いているのが夢です。
音楽大学に入ったら、きっと練習できるんだろうなと楽しみにしていた一曲でもあります。シンプルなドミソのハーモニーも、ベートーベンの旋律になると一気に威風堂々とかっこよくなるすごさ。そんな中にも、ふと感じさせる哀愁や揺れ動く不安。でも最後はそんな想いも、深い暖かさで包まれるような優しい和音の響きが大好きです。いつか弾いてみたいなと幼少期から思っていたこの曲を今、20年ぶりに練習しています。
◆ プロフィール

2004年ユニ・チャーム(株)に入社し、翌年よりマーケティング事業部に配属、生理用品ブランド「ソフィ」を担当。13年からブランドマネジャーとなり「ソフィはだおもい」などの新製品立ち上げ、ブランド育成を行う。19年には、#NoBagForMeプロジェクトを立ち上げ、現在も活動を続けている。22年からは、ソフィブランドのディレクターに就任。

 ユニ・チャーム株式会社 ウェブサイト
取材・文=二子千草
撮影=石田宗一郎
協力=ユニ・チャーム株式会社

この記事に関連して、「ピアノ指導・演奏と女性特有の悩みに関するアンケート」を実施いたします。ご協力よろしくお願いいたします。