ピティナ調査・研究

40.「30番」再考 ~ 第10番: トッカータの部分練習?

「チェルニー30番」再考
第二部「30番」再考
40.「30番」再考 ~ 第10番: トッカータの部分練習?

第34回から、様式上の特徴がはっきりと現れている作品をピックアップして、解説してきました。今回は、前回の第7番から少し飛んで第10番 ヘ長調 を取り上げます。メカニスム上の課題は、両手に分割された4音からなるアルペッジョを急速に反復することです。しかも、最上声部にはスラーがかかっており、レガートで旋律線を際立たせることが重視されています。


C. チェルニー《30のメカニスム練習曲》 作品849 , 第10番, 第1~4小節
譜例

この音型の特徴は、一つの和音のまとまりを両手に割り振ることによって、急速な音型の反復が容易になるという点にあります。同じ音型の反復は、鍵盤楽器の即興演奏において用いられる典型的な手法です。一定の見通しを持ちながらも、その場で沸き起こるひらめきに基づいて行われる即興演奏においては、反復的なリズム・パターンや音型を繰り出しながら、次に来る和音やパッセージをその場で紡いで行きます。多くの音型の種類を記憶している優れた即興家なら、次々に新しい音型へと移っていくことができますし、本人も予期しないような和音が生まれたりすることもあるでしょう。
さて、即興と関わりの深いジャンルといえば、プレリュード(前奏曲)、トッカータ、ファンタジー(幻想曲)などを挙げることができます。そして、これらの曲種には、今指摘した反復的な音型を多かれ少なかれ見出すことができます。
次の例は、バッハ《平均律クラヴィーア曲集》第1巻の冒頭の有名な前奏曲です。


バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第1巻, 〈前奏曲〉第1番, 第1~5小節(チェルニー校訂楽譜より引用)
譜例

アルペッジョを右手と左手に配分しながら反復するこの書法は、チェルニーの10番と共通しています。ただし、一つの和音を構成する音の数は5つ(第1小節目ではc-e-g-c-e)で、チェルニーの1つの和音よりも少し厚くなっています。また、和音が変化する頻度を比べると、チェルニーの場合は1~2拍で和音が変化していきますが、バッハのほうは4拍といっそう緩慢です。
 前奏曲で同様の手法が使われる例は19世紀にもあります。有名な例ではショパン《前奏曲》作品28 第1番がそうです。ショパンの場合は最上声部にたくみに旋律を織り込んでいます。


ショパン《前奏曲》作品28 第1番(1839)
譜例

ところで、前奏曲には、時代を問わずテンポの遅いもの、急速なものなど、速度や書法にかなりの自由度が認められます。一方で、同じ即興的なジャンルでもトッカータは殆どの場合、急速なテンポで書かれることが多いです。「トッカータ」という語は、イタリア語の「触れるtoccare」という動詞から来ています。つまり、リュートやオルガン演奏に際し、調律を確かめたり指鳴らしをするべく「楽器に触れてみる」というニュアンスを持つ言葉なのです。それだけに、トッカータには即興的なニュアンスが強いわけです。
 鍵盤楽器のトッカータはオルガン音楽を通して発展してきました。17世紀後半に活躍した北ドイツ楽派のブクステフーデDietrich Buxtehude (1637頃~1707) は鍵盤楽器のためのトッカータというジャンルを様式化した作曲家・オルガニストの一人です。彼はトッカータ(または前奏曲)とフーガを1つのセットとする組み合わせや、即興的な二部分にフガートを挟む組み合わせ、あるいは更に複雑で大規模な組み合わせを用いて「トッカータとフーガ」の伝統の基礎を固めました。バッハの有名ないくつものトッカータとフーガは彼の尊敬したブクステフーデの伝統から来るものです。次の譜例は、バッハの有名な《トッカータとフーガ》ニ短調(BWV 565)の一節です。譜例2小節目から分散和音を両手に割り振って急速に演奏するパッセージはトッカータには頻繁に見られる音型です。


J.S. バッハ《トッカータとフーガ》ニ短調(BWV 565)72~82小節
譜例

ここでチェルニーの10番を振り返ってみると、丁度トッカータの1パッセージ取り出したように見えてこないでしょうか。10番の中ほどにはト短調やニ短調からの借用和音も使用され、手が和声を探るように進んでいきます。わずか24小節の曲ですが、チェルニーはその前後にいっそう多様な音型や、フーガ風のセクションを想定し得たはずです。第10番は伝統的なトッカータ風の楽曲を演奏する際に役立つ「部分練習」と言うこともできるでしょう。

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