ピティナ調査・研究

32. 「30番」再考への前置き

「チェルニー30番」再考
第二部「30番」再考
32. 「30番」再考への前置き

さて、ここまで1820年代から30年代における練習曲の変遷を辿り、さらに「チェルニー30番」が出版される1856年までにパリで出版された彼の練習曲のタイプを見てきました。最後に、再び連載の冒頭話題にした「チェルニー30番」を、これまで見てきた練習曲の流れを考慮しながら検討して、この連載を閉じたいと思います。

 ところで「チェルニー30番」のオリジナル・タイトルは何だったか覚えていますか?オリジナルのタイトルは《30のメカニスム練習曲》作品849だったということを書いたのは連載第1回でのことでした。そして、第2回の連載で、「メカニスム」という概念が、様式や表現といった演奏・作曲の精神的な側面とは切り離された、もっぱら身体の物理的な動きのことを指す、ということを確認しました。こうした演奏観は、人間という実体が物質的な身体と思惟する心という二つの異なる存在から成り立っていると考える、17世紀フランスの思想家デカルト(1596~1650)的な心身二元論の上に成り立っています。

 この心身二元論の前提は、ピアノ演奏を論じる上で非常に都合のよいものでした。それによれば次のようにピアノ芸術を捉えることができるからです。ピアニストが知性で把握する作品の構成や作曲者の思考は精神の働きによって行われる。ピアニストが作曲家でもあれば、着想を作品として形にすることも知性の働きです。一方、作品を音として響かせる手段としてのテクニックは、物質的な身体のコントロールにかかっています。ならば、まず演奏者は精神的な目的へとできるかぎり近づくことを許すような、自在な身体を手に入れ必要がある、ということになります。

 そのためには、機械的な訓練を何度も繰り返し、体を精神的な理想を実現するのに最も相応しい状態にしなければなりません。身体が自在性を獲得すれば、どんな難所も無意識のうちにこなし、精神的な理想へと近づける、こういう考え方が19世紀中葉のエリート音楽家の間で培われていました。

しかし、ここで強調したいのは、「チェルニー30番」は確かに演奏の身体的な側面である「メカニスム」をタイトルに掲げてはいるものの、実はそれ以上の配慮のもとに書かれが練習曲だ、ということです。その配慮は、「様式」という観点です。様式とは、文字通りの意味に従えば「やり方」や「流儀」ほどの意味です※1。では練習曲における様式とは一体何でしょうか。ここでは、「ジャンル」とほぼ同様の意味と理解するとよいでしょう。例えば、これまで見てきたチェルニーの練習曲集(とくにタイプ③に分類したもの)の中には、ノクターンや無言歌といったジャンルが組み込まれていました。分散和音の伴奏、弱起で始まる歌唱的な旋律、そこに散りばめられた即興的な装飾が特徴であれば、その作品は、当時の作曲家が共通に認識していた一つの作曲ジャンル、つまり「ノクターン」という類型化された書法だと言うことができます。このような観点で「30番」を見ると、30曲の中にもこの時代の典型的な音楽ジャンルに基づく曲が含まれているのです。では、次回からどの曲がどの様式またはジャンルと共通項を持つのか、幾つかの例を挙げながら見ていきましょう。