ピティナ調査・研究

連載:第14回 好樂社の戦後版ブルグミュラー

みんなのブルグミュラー
ぶるぐ協会会長 前島美保

11月、連載第8回の「日本ブルグミュラー事始」を読んでくださった読者の方からご連絡をいただいた。なんでも太平洋戦争後に出版された好樂社の「ブルグミュラー25の練習曲」(以下「25練習曲」)をお持ちだという。これはもしかすると、国立国会図書館で劣化が著しいためメモをとることしか許されなかった表紙が薄いボール紙製のあの「25練習曲」かもしれない。F.ブルグミュラー生誕200年の2006年も押し迫った12月下旬、そんな期待を胸に逗子へと赴いた。
 待ち合わせの新逗子駅に登場したのは、とても高校生のお嬢さんがいるとは思えない若々しいご婦人(石渡さん)だった。楽譜の持ち主は大正12(1923)年生まれのご尊父。神田生まれの神田育ちで御年83歳になられるという。お父様の青年期は日本の戦時期とぴたりと重なる。戦地にて苦難や悲劇と隣り合わせで過ごした青年期、昭和20(1945)年8月の終戦を経て、戦後の復興著しい昭和30年代に幼ない石渡さんの前でしばしばアコーディオンを弾いていたのだという。お父様はアコーディオンの音色にどのような想いをのせていたのだろう。さっそく貴重な楽譜を拝見させてもらう。

【書誌情報】
原隆吉編輯兼発行者『ブルグミュラー:25のやさしい練習曲』、
神奈川縣葉山町:好樂社、昭和21年8月。
[BURGMULLER: 25 Easy and Progressive Studies, Opus 100. (MOHAN PIANO EDITION)](30円)

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表紙

それは、終戦からちょうど一年が経った昭和21(1946)年8月、神奈川県の葉山にて出版された好樂社の「25練習曲」で、出版年こそ違えど国会図書館蔵の一本(昭和22(1947)年12月発行)に等しい内容。寸法は戦前版とほぼ変わらないが(29.9×21.0cm)、まず表紙が全く異なっている。ペータース版そっくりだった戦前版に比べ、デザイン性をおさえたそれでいて焦げ茶の背景に白抜きの文字が強烈なインパクトで目に飛び込んでくるその表紙は、装丁からして戦後新たに作られたと思しい。タイトルも少し変わり、原題はどこへやら、英語と日本語表記のみ。米国文化の影響の強い戦後という時期を痛感させられる。戦災で原版を失ったのだろうか。それとも表紙からドイツ語やフランス語表記を積極的にとりのぞく意図があったのか。新たに作られたこの楽譜の背景に迫る確たる証拠を持たないが、なるほど続く扉のページにもドイツ語やフランス語表記は見あたらない。そのかわり、扉には富士山に音符を組み合わせた印象的な好樂社のマークが付されている。

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「正直」のページ

それでは目次や中身も英語と日本語表記のみになったのかというと、実は第25曲「令孃の馬乗」に至るまで戦前版と全く同じなのである。すなわち、各曲のタイトルには仏・独・英・日訳が掲げられ、国際色豊かな表記そのままなのだ(「正直」の楽譜)。楽譜そのものも戦前版同様、「正直」の冒頭の長いスラーが特徴的なあの楽譜。つまり、好樂社の戦前版と戦後版を比べると、表紙と扉を差し替えただけで中身自体はそのままということになる。
この戦後版「25練習曲」は、架蔵の「ハノンピアノ教習本」(昭和21年10月好樂社発行)巻末によれば、戦前版と同じように「模範ピアノ樂譜」シリーズのNo.1として出版されていることが知られる。連載第8回でも触れたように、好樂社出版の「25練習曲」は少なくとも今回の昭和21年を皮切りに昭和24年まで毎年版を重ねており、この時期国内における急速な需要の高まりをみてとることができる。戦後という、戦中よりもむしろ物資に乏しくなったと言われる時代、そして戦前のドイツ文化よりも米国文化礼讃の機運の高まった時代において、相次ぐ出版をみたF.ブルグミュラーの「25練習曲」。戦苦を乗り越え、人々は平和を謳歌するが如く音楽へと向かい、そしてその先にブルグミュラーがあった・・・・・・。

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裏表紙のマーク

こうしてみてくると、裏表紙にも掲げられている富士山に音符の好樂社のマークは、日本の西洋楽譜文化の新たなる門出を宣言しているかのようでいかにも力強い。 現在、石渡さんのお父様はこの楽譜について多くを語らないのだという。アコーディオンを弾くお父様がなぜこの楽譜を手に入れられたのかは謎である。実際使用された形跡はない。ただ石渡さんご自身、子供時代に、別の楽譜でブルグミュラー「25練習曲」を全曲弾かれたとのこと。時として音楽は不思議なかたちで家族をつなぐ。

師走のお忙しい中、取材にご協力くださった石渡三重子様に心より御礼申し上げます。ブルグミュラーの楽譜に関する情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、Fax番号03(3944)8838まで情報をお寄せください。お待ちしております。


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