ピティナ調査・研究

第23回「木靴の男」

作曲家アルカンを語るなら、作品にしばしば表れるユーモアは外せない要素です。ユーモアのある音楽とは何か、というのはまた難しい問題で、特にピアノソロの曲で人を笑わせるとなると途方に暮れてしまいそうなんですが、アルカンのピアノ曲からは確かにユーモアが感じられる。

たとえば現在であればシンセサイザーで「ぷわ~ん」とか「こけっ」というような間抜けっぽい音で伴奏を作っておいて、そこに調律を狂わせた楽器のメロディーを乗せ、仕上げにMIDI音源のリズムパートに入っている「ヘリコプター」と「爆発」の音でも加えてみればいかにもユーモラスな曲が出来そうですが――

といった話の流れは以前もやりましたのでこの辺にしておいて、と。音楽におけるユーモアを実現するにはどんなやり方が試されてきたのか、例をあげてみる。

まず一番わかりやすいのは、おかしなタイトルで「この曲はユーモラスな内容なんですよ」と宣言してしまうやり方。もちろん、タイトルは音楽のユーモアを感じ取ってもらうための助けでしかない。とはいえ、音楽だけで笑ってもらおうというのはだいぶハードルが高いわけで、音楽からユーモアを汲み取るためには聴き手にも心の準備が必要です。だからユーモア音楽にタイトルは必須なのだ、と言っても過言ではないでしょう。

おかしなタイトルの使い手の代表としては、サティあたりが思い浮かぶ。「嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」だとか「官僚的なソナチネ」といった曲名を耳にしたことのある方も多いでしょう。あと忘れちゃいけないのがモーツァルト。あんまり下品なのでここにはタイトル書きませんが!

アルカンにも、変なタイトルで有名な曲がある。『すべての長調による12の練習曲』に入っている「隣村の火事」や、『すべての長調と短調による25の前奏曲』に含まれる「波打ち際の狂女の歌」などです。しかし彼の場合、変なタイトル=ユーモラス、というわけでは決してない。実際、「波打ち際の~」は語感が強烈なのでつい何かのギャグかと思ってしまうのだけれど、内容は実のところとても物悲しい描写音楽だ。アルカンのつけるタイトルは、曲の内容を理解して初めて味わいが増すタイプと言えそうです。

さて、肝心の音楽内容におけるユーモアなんですが、これはもう、パロディという手法が最もわかりやすいことは間違いない。先ほど挙げたサティの曲ですが、あれらは実はパロディでもあります。「嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」はラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」を、「官僚的なソナチネ」はクレメンティの「ソナチネ」を真似たもの。そこへ持ってきてタイトルが作曲者の気分を説明してくれるので、我々はこれらの曲のユーモアを正しく理解できるわけです。要するにラヴェルの音楽に対しては「ケッ、何が『優雅で感傷的』だよ、気取りやがって」、クレメンティの曲については「つまらない曲つくりやがってこの」、とサティは言いたいわけで、それらに共感できたとすれば、まったくだなあ、ウンウン、と頷きながらニヤニヤできるんでありましょう。

アルカンもパロディは大得意としていて、それは、「ドメニコ・スカルラッティ風に」の指示のある第14番の項で既に書いた。アルカンにはサティみたいな揶揄に満ちたパロディより、うまく特徴をとらえた似顔絵にも似た、愛情に満ちたパロディが多いように感じます。

パロディ以外にはどんなやり方があるだろうか。たとえばハイドンの有名な交響曲に『告別』というのがあって、曲が終わる前に少しずつ演奏者が帰っていく。これは衝撃的であり、わかりやすい面白さだ。このように、音楽に演劇的な筋書きを与えることによってツッコミどころを用意する、というような形が考えられる。ただ、ピアノソロだと『告別』のような仕掛けはやりにくい。

そこで、音楽の展開自体に物語性を持たせ、そこにツッコんでもらうという手も考えられる。アルカンの「隣村の火事」はまさにそんな曲です。曲想そのものには笑いを誘う要素はないのだけれど、よくよく曲の構成を把握した上でタイトルの「隣村の」なんて形容について改めて思いをめぐらしたとき、じわじわとおかしさがこみ上げてくる。いや、本当は火事って冗談ごとじゃなく怖いんですけどね......。

さて、それで今回の「木靴の男」という曲です。これは間違いなく笑いを誘う作品なのだけれど、これまでに挙げたような方法でそのユーモアが実現されているわけではない。曲想そのものがおかしみを醸し出す、という、最もストレートかつ最も難しいハードルをクリアしていると言えるのではないかと思う。

アルカンの特徴は「変」であることだ、とだいぶ前にこの連載の中で述べたのだけれど、ご記憶の方はいらっしゃるだろうか。変であることは笑いに直結するのだから、変な曲を書ければそれこそが本物のユーモア音楽になるのは道理だ。けれども変な曲を書ける人は少ない。なにしろ変は理屈ではないから、勉強したって身につきやしない。現在なら分析しやすい材料を集めることで擬似的に「変」を装うことはできる。上の方で述べたシンセで間抜けな音を云々、というくだりはその一例なのだけれど、アルカンは「変」をピアノだけで実現するのだから、このセンスは本物中の本物だなあ、と感じます。

演奏する際は、拍ごとに鳴る左手の和音ひとつひとつにしっかり体重をかけると良いでしょう。注意して欲しいのは右手のメロディーに現れる前打音。普通と違って斜線が2本ついているのは、特別な色合いを出して欲しいという要求にほかなりません。次の音符と併せてひとつ、あたかもポルタメントつきの楽器音であるかのように表情をつけましょう。

ではでは。次回、「コントルダンス」は第2巻の最後の曲となります。


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